第12章:恐怖の神
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## 1
朝。
左手を見つめていた。
包帯が巻かれている。薬指、中指、人差し指。三本とも、曲がらない。
試しに動かそうとする。親指と小指だけが動く。他の三本は、まっすぐ伸びたまま。
「……慣れないとな」
呟いた。
弓は引けるだろうか。剣は握れるだろうか。
わからない。だが——
レンは生きている。
それで、良かった。
「ピピッ」
ハチが足元で鳴いた。心配そうに見上げている。
「平気だ」
ハチの頭を撫でた。右手で。
窓の外から、鐘の音が聞こえた。
警戒の鐘だ。
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## 2
城壁に、兵士たちが集まっていた。
弓を構え、槍を握っている。だが、その顔には恐怖が浮かんでいた。
タカミチが指揮を執っていた。
「覚醒者殿」
彼がこちらに気づいた。
「来ていただけて、ありがたい」
「何が起きている」
「帝国軍です。第二波が——来ました」
タカミチが城壁の縁を指した。
見下ろすと——
軍勢がいた。
動力鎧が三十体以上。その周囲に、旧文明の神器を持った兵士が百人以上。隊列を組んで、ゆっくりと城に近づいている。
「前回より、多い……」
「ええ。前回は偵察だったのでしょう。今回は——本気です」
タカミチの声が震えていた。
「我々だけでは、防げません」
城壁の兵士たちが、こちらを見ていた。
期待と、恐怖が入り混じった目。
——俺に、何ができる。
左手は使えない。ナノマシンの制御は学んだが、あれだけの数を相手に——
「ヒロ」
サヤが横に来た。弓を背負っている。
「無理はするな」
「……わかってる」
「嘘つくな」
サヤが小さく笑った。
「お前は、無理をする。いつも」
その目が、優しかった。
「だから——私が見ている。倒れそうになったら、引きずってでも下がらせる」
胸が温かくなった。
「……ありがとう」
サヤは何も言わず、弓を構えた。
帝国軍が、近づいてくる。
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## 3
距離、百メートル。
動力鎧の足音が、地響きのように伝わってくる。
「放て!」
タカミチが叫んだ。
矢の雨が降り注ぐ。
だが——装甲に弾かれた。何の効果もない。
動力鎧が止まらない。
五十メートル。
その時——
一体の動力鎧が、肩部の砲身をこちらに向けた。
「伏せろ——!」
轟音。
城壁が爆発した。
石と土が飛び散る。兵士が吹き飛ばされる。
「くそ……」
ヒロは立ち上がった。
意識を集中する。
動力鎧を見る。
——見える。
外装ではない。その内側が。
制御システム。電流の流れ。光の糸のように浮かび上がっている。
——止まれ。
意識を、そこに向ける。
イヴの教えを思い出す。
感情を抑えるな。受け入れろ。
——怖い。
その感情を、認める。
——だが、止めなければ。
意識を、優しく向ける。
動力鎧が——止まった。
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## 4
砲身が下がる。駆動音が消える。
一体の動力鎧が、その場で停止した。
「……できた」
周囲の兵士たちがざわめいた。
「神器が——止まった?」
「覚醒者殿が——」
だが、まだ二十九体いる。
次の一体を見る。
——止まれ。
意識を向ける。
止まった。
次。
また次。
一体ずつ、停止させていく。
頭が痛くなってきた。鼻の奥が熱い。
だが——止められない。
五体。
十体。
十五体。
「ピピッ……!」
ハチが警告音を発した。だが、止まれない。
二十体。
視界が揺れる。
二十五体。
鼻血が出た。温かい液体が唇を伝う。
「ヒロ、やめろ!」
サヤの声が遠くで聞こえる。
だが——
あと五体。
意識を絞り出す。
二十六。
二十七。
二十八。
二十九。
そして——
三十。
全ての動力鎧が、止まった。
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## 5
沈黙。
城壁の上で、誰も動かなかった。
眼下に、停止した動力鎧の群れ。まるで墓標のように、動かずに立っている。
「な……んだ、これは……」
兵士の一人が呟いた。
帝国軍の兵士たちが、混乱していた。
動力鎧が動かない。何度も起動を試みているが、反応しない。
「悪魔だ……!」
一人の兵士が叫んだ。
「神器遣いだ! 神代の悪魔が——!」
恐怖が、伝染するように広がった。
帝国の兵士たちが、武器を捨てて逃げ始めた。
隊列が崩れる。指揮官が何か叫んでいるが、誰も聞いていない。
ただ——逃げる。
恐怖に駆られて。
やがて——
誰もいなくなった。
動力鎧だけが、その場に残されていた。
「勝った……?」
誰かが呟いた。
そして——
歓声が上がった。
「勝ったぞ——!」
「覚醒者殿が——!」
兵士たちが叫ぶ。飛び跳ねる。抱き合う。
だが——
ヒロは膝をついていた。
頭が割れそうに痛い。視界が真っ白だ。
「ヒロ——!」
サヤが駆け寄ってきた。体を支えてくれる。
「大丈夫か」
「……平気だ」
嘘だった。平気じゃない。
だが——
勝った。
誰も、死ななかった。
それだけで——
「よくやった」
タカミチの声が聞こえた。
「あなたが——この国を、救ってくれました」
その声が、遠くなっていく。
意識が——薄れていく。
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## 6
目を覚ました時、天井が見えた。
白い天井。医療室だ。
「……っ」
体を起こそうとして、激痛が走った。
「動くな」
イヴの声がした。
彼女が椅子に座り、こちらを見つめていた。
「三十体の神器を、一度に停止させた。負荷が大きすぎました」
「……どれくらい、眠っていた」
「一日です」
一日。
「城は——」
「無事です。帝国軍は撤退しました」
イヴが立ち上がった。
「ですが——問題があります」
「問題?」
「民が、あなたを崇め始めています」
窓の外を指した。
見ると——
城下町に、人だかりができていた。
城の方を向いて、何かを叫んでいる。
「神代の神!」
その声が、かすかに聞こえた。
「覚醒者様!」
「我らを救いたまえ!」
イヴが言った。
「あなたは——神になりつつあります」
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## 7
翌日。
城下町を歩くと、人々が跪いた。
「覚醒者様——」
老婆が頭を下げる。
「我らを、お救いくださり——」
「顔を上げてくれ」
ヒロは手を差し伸べた。
だが、老婆は顔を上げない。
「畏れ多い……」
「俺は神じゃない」
「いいえ」
老婆が顔を上げた。その目には、崇拝の色があった。
「あなたは、神代から来た方。神器を操り、悪魔を退ける。神そのものです」
違う。
言いたかった。
俺はただの技術者だ。五百年前の、普通の人間だ。
だが——
周囲を見回すと、人々が皆、同じ目で見ていた。
恐れと、崇拝と、期待。
胸が苦しくなった。
「……行こう」
サヤに言った。
彼女が頷き、人々の間を歩き始めた。ヒロは後に続く。
背中に、視線を感じていた。
重い視線。
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## 8
夕暮れ。
城壁の上で、一人座っていた。
風が吹いている。冷たい風。
「ピピ……」
ハチが横に来た。心配そうに鳴く。
「平気だ」
頭を撫でた。
左手の三本の指は、まだ曲がらない。これから先も、曲がることはないだろう。
能力は使えるようになった。だが——
代償がある。
体への負荷。民の崇拝。
そして——
自分が自分でなくなっていくような感覚。
「ヒロ」
声がして、振り向いた。
サヤがいた。弓を持たず、刀も帯びていない。
「一人か」
「……ああ」
サヤが隣に座った。
二人で、夕日を眺める。
灰色の空に、わずかな赤みが差している。
「つらいか」
サヤが聞いた。
「……わからない」
「嘘つけ」
サヤが小さく笑った。
「お前の顔を見ればわかる。つらいんだろう」
否定できなかった。
「民は——お前を神だと思っている。だが、お前は人間だ」
サヤの声が、優しかった。
「人間は、傷つく。疲れる。迷う」
風が吹いた。サヤの髪が揺れる。
「だから——休め。たまには」
「……休んだら、また誰かが死ぬかもしれない」
「死なせない」
サヤがこちらを見た。
「私が守る。レンも守る。タカミチ殿も守る」
その目が、まっすぐだった。
「お前一人じゃない。忘れるな」
胸が、温かくなった。
「……ありがとう」
「礼はいらない」
サヤが立ち上がった。
「飯の時間だ。行くぞ」
「ああ」
後を追う。
夕日が沈んでいく。
明日、また戦いが来るかもしれない。
だが——
今は、この温かさを感じていたかった。
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**【第12章 完】**
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*次章予告:*
*束の間の平和。*
*サヤの想い。*
*そして——ヒロが応える夜——。*




