最終話 任務完遂まで、あと5分
任務完遂まで、あと5分。
俺は地面に転がり、激痛にうめく。アレクサンドリアが咆哮するのが聞こえる。
「よくも私の仲間を!」
曇った視界の中で、彼女が剣を構えて突進するのが見える。無駄なのに。剣など意味がない。魔竜は何度でも蘇る。どれだけ傷つけられても、細切れにされても、瞬時に回復し、仕留めることはできない。それはなぜか?
あと3分。もうすぐそのときが来る。
魔竜の鋭い爪がアレクサンドリアの肩を切り裂く。上がる悲鳴。見ていられない。
この怪物に死は訪れない。当然だ。不死悪魔なのだから。それは最初からわかっていた。どうすれば撃破できるかもわかっていた。だけど、できなかった。それをすれば、彼女の死の運命を変えてしまう。天使が人間の死を操作するのは最大の禁忌。やれば俺は終わりだ。
1分。
尾が彼女を横ざまになぎ倒す。肉が岩に叩きつけられる音。赤い血しぶき。俺は片手杖を踏ん張り、全身の力を振り絞って立ち上がる。目がくらみ、骨がきしむ。
竜が口をひらく。地獄のようにまがまがしいその赤黒い粘膜。
「天よ!」
知ったことか! 禁忌ごとくれてやる! 俺は片手杖を掲げた。
「この者に癒やしを授けよ――ヒール!」
ありったけの魔力を込めて回復魔法を放った。全身から光り輝く白い波動が激流となってほとばしる。その先に、魔竜がいる。
回復魔法を全身に浴びた魔竜は瞬間、凄まじい鳴き声を上げて硬直した。あれほどアレクサンドリアを苦しめた巨体が一瞬で浄化され、破滅へと向かう。圧倒的な神聖さ。暴力的なまでの慈愛。それが天使の力なのだ。
痙攣が始まる。この悪辣な爬虫類はもがき、首と尾を振り回し、自らを破滅させる苦痛を最後の瞬間まで味わった。それは数分も続いたかと思われたが、最後には岩山に崩れ落ちた。巨大な震動と砂煙が立ちのぼる。
「アレクサンドリア!」
俺はよろめきながら、地面に倒れた仲間に駆け寄った。彼女は肝をつぶして、いままでの光景を眺めていた。
「そうか、不死……。道理で死ななかったはずだ。それにしてもとんでもない魔力だな。見直したよ、リュート」
ハハハ、と力なく笑う。
俺はなにも答えられなかった。期限はとうに過ぎていた。なんてことをしてしまったんだろう。なぜ彼女を助けた? 俺は自分のしでかしたことの恐ろしさに身が震えていた。血の気が引き、視界が歪む。俺はばかだ。いや、この深傷だ、もう少し待てば自然と寿命は来るじゃないか。そのうち彼女が回復魔法を頼んでくる。それを断り、冷然とそのときを待っていればいいのだ。
血だまりの中、彼女は俺を見上げる。
「リュート、火傷の具合はどうだ?」
俺は頭を抱えてしゃがみ込む。ちくしょう、だめだ。そんなことできるか。
「リュート? 痛いのか?」
違う、と俺は膝に顔をうずめたまま首を振る。
「アレクサンドリア、なんで俺がお前に近づいたかわからないのか」
はあ? という彼女の声。
「天使が訪れるのは、誕生か臨終かに決まってんだろ」
ああ、と彼女の声。
「できねえよ」俺は声をしぼり出す。
静まり返る岩山。パチパチと残り火が燻る音だけが聞こえる。
やがて、彼女の声がする。
「そうだったのか……だけど、使命を全うしないと困るんじゃないのか、不良天使」
俺は決意した。顔を上げ、最後の詠唱を始める。
「天よ、この者に癒やしを授けよ――ヒール!」
白い光がアレクサンドリアを取り囲み、たちまちのうちに傷を再生させる。
どこかで雷鳴が轟いた。
彼女は立ち上がり、戸惑っている。「おい、お前ばかか?」
「俺はばかだよ」
俺も負傷した体でのろのろと立ち上がる。彼女に背を向け、一歩を踏み出す。行こう――どこに? だが、旅はもう終わりだ。
歩みを続けようとして、突然膝が崩れた。予想以上に体へのダメージは厳しい。このままじゃどこへも行けない。だけど行くしかない、早くこの場から立ち去るんだ。俺は自分に向けて、再び回復魔法を唱える。
「ヒール!」
呪文が終わる。しかしなにも起こらない。体は傷だらけのまま。
「ヒール!」
焦って叫ぶけれど、やはり魔法はかからない。手のひらから、いつもの白い光はかけらも出ない。
「翼は?」うしろから声がかかったので、首だけ向けると、アレクサンドリアの緑色の目がこちらを見上げている。「翼を出してみろ」
俺は出現させ――ようとして、うめいた。背中に切り裂かれるような痛みが貫く。どんなに意志を強くしても、痛みばかりが走り、ローブの中の背中は一切変化しない。
任務が達成できなかった俺を、天は静かに堕天させていた。
突然、回りこんできた戦士に羽交い締めにされた。いや違う、たぶん、彼女は抱きしめているつもりだろう。呼吸ができない。唇をふさがれる。甘い舌。
全身が沸騰した。
「おい、不良人間。お前、これからも一緒に旅を続けてくれるんだろうな?」
俺はなんて答えていいかわからない。柔らかな胸の感触。喰っちまいてえと思った。天使にあるまじく。いやもう天使じゃないんだった。
岩山に充満する悪臭が、天界の花園の香りみたいに感じた。それはそれとして抱きしめられた腕が悲鳴を上げる。
「いてえよ、アレクサンドリア」
「ああ、ごめん」
腕が緩む。だが、体温は離れない。
「あのさ、先に自分を癒やせばよかったのに」
「ほんとだな」
それができたら堕天してねえよ。
俺たちは肩を組み、足を引きずりながら歩き出す。もう飛べない背中に砂混じりの風が沁みた。よう、重力。これから仲良くやっていこうぜ。




