第2話 半年前
半年前。見渡す限りの大平原。
「翼があれば、目的地まですぐ飛んでいけるんじゃないのか」
目をつぶって、額の汗をぞんざいにぬぐいながらアレクサンドリアが言う。俺はその横でもくもくと歩みを進める。
「そんなわけないだろ。飛ぶのだって体力使うんだぞ。下手すると歩くのより」
「そうか、意外と不便なんだな。お前に会うまでは、天使は人間なんか超越した存在かと思ってたよ。しかし、それなら鳥も飛ぶのは大変なんだろうな」
「知らんね。天国には鳥はいないから」
「そうか。じゃあ、何がいる?」
「花、泉、祈り、善良な人々……いいところだよ」
たぶん、と口の中でつぶやいて付け足す。
「そんなもんか。なら、地獄は?」
俺たちは次の集落への旅路の途中だった。地図もあてもない旅。あるのは、未知の場所への好奇心と、人々を悪魔から救うという使命感だけ。もっとも、後者はアレクサンドリアだけが持っているものだが。俺には俺の使命がある。彼女の魂を天国へ連れて行くという。アレクサンドリアは選ばれし者だった。善良なる人として。
「地獄のことは知らねえな。行ったこともないし、これから行くこともない」
俺の答えを聞き、彼女は口を開けて笑う。
「そうだな。お前には似合わないよ」
どういう意味で言ったのか、見当もつかない。俺の善性を信じているのか、それとも見た目の話か。天使は永遠の青年だった。これは俺だけじゃない、悪魔が全員醜悪な見た目であるように、天使なら誰でもそうだ。
「冒険に憧れる天使なんて、ほんとに変わってる」
「旅の仲間に天使を勧誘する女戦士なんて、ほんとに変わってるよ」
俺たちはいつでも軽口を叩き合っていた。ふたりとも風変わりな冒険者だった。だからなのか、妙に気が合った。俺は彼女が女であることを気にしなかったし、彼女は俺が天使であることを気にしなかった。気にしたらよかったのに、と思う。そうであれば、俺の目的に気がついたかもしれなかったからだ。
一週間旅してたどり着いた集落は、小さな村だった。
店も酒場も閉じた寒村。教会さえ扉を閉ざしている。広場にも道にも人影はなく、息をひそめた雰囲気が漂う。
家の裏で農作業している村人をやっと見つけ、どうにか捕まえて事情を訊く。その中年男が言うには、
「悪魔が娘たちをさらっていくのです。もう村の娘はひとりしか残っていません」
きな臭い話に、アレクサンドリアと俺は顔を見合わせた。
「あなたたちは冒険者で? それなら、どうか……いや、公平に言いましょう。いままでも何人もの勇者が悪魔に挑み、返り討ちにあっているのです」
「そうだとしても!」とアレクサンドリアは叫んだ。「黙って見過ごせるものですか。どうか私たちに依頼を」
その村から十分な報酬がもらえるとは到底思えなかった。だから、俺は内心驚いて彼女を見つめていた。冒険者の哲学に反するのではないかと。でも彼女は本気だった。
「いいだろう、リュート」
「しょうがねえな」
そう言ったのは、その時点では彼女の死期がまだ先だと知っていたからだ。十分に生き、定められた運命に従って命を失った者でなければ、天使は魂を連れていけない。悪魔どもに奪われる前に、ひとつでも多くの魂を天界に運ぶ必要がある。それが俺の使命だった。
気づくと、俺たちはいつの間にか外に出てきた村人たちに取り囲まれていた。期待と不安に満ちた顔、顔、顔。
そうだ、あのころから、彼女はこんなやつだった……。
俺たちは悪魔を打倒し、娘を救うことに成功した。案の定報酬はなかった。それなのにアレクサンドリアは、返り血と泥だらけの姿で村人たちと泣き笑いしながら抱き合っていた。そのとき、天界にいたら不浄と忌避される姿が、どんな女神よりもきれいに見えた。
世界は美しい。俺はなんとなくそう考えるようになっていた。
◇◇◇
あと20分。
アレクサンドリアの魂の刻限だ。魔竜に痛めつけられ、打倒され、屠られる。それが彼女の運命。
魔竜が再生した尾を振り回し、火炎の激流を吐く。火は全てを焦がし尽くし、吹き上がる水蒸気が黒い岩山を覆い尽くす。白い靄の中、空しい剣戟の音がこだまする。熱くて息苦しくて、意識が朦朧としてくる。
「くそっ、こいつなぜ死なない!」アレクサンドリアが叫ぶ。「リュート、来てくれ!」
俺はどうすればいいかわからず立ち尽くしていた。
どうする――援護に入れば魔竜を打ち負かせるかもしれない。しかしそうなれば天使としての俺の使命はどうなる? 天界は俺を追放するだろう。翼をもぎ、命を削り、永久に消えない堕天の烙印を押す。援護に入らなければ――アレクサンドリアは死ぬ。
俺は天界に戻りたいのだろうか? 自分でもよくわからなかった。わからないままに、目標と旅を続けていた。そこに手がかりがあるかもしれないと思った。天界は俺にとって居心地のいい場所じゃなかった。だけど、俺は生まれながらの天使だ。腐っても天使の端くれだ。魔法を使い、悪魔と敵対し、天のために生きてきた。そうじゃなくなるのは耐えられそうにない。
攻撃のあいまに、アレクサンドリアが肩で息をする場面が多くなってきた。全身から汗がしたたり落ち、赤髪は額に張りつき、緑の目はぎらぎらと光っている。焦りか、絶望か。
俺は動けない。
そのとき、こちらに向かって竜の火炎が襲いかかった。ただ呆然と目を見張っていると、パチパチという音が聞こえた。見下ろすと、ローブに火が点いている。
炎はたちまち全身に広がり、俺は地獄の業火に焼かれる。熱い、熱い、熱い。絶叫する。
なぜだ、なぜこんなことに? 迷ったからか。そうなのか。
「リューーート!」
女戦士が駆けてくる。マントを脱ぎ、俺の体に飛びかかって巻きつける。視界が暗闇に閉ざされる。
「リュート、リュート、リュート!」
マントの中で火が消えていく。頬に当たる布の感触は、ごわごわして硬く、鉄と土埃のにおいがする。灼熱の痛みが全身を責めさいなんだ。
あと10分。




