形見の宝箱
(あの頃は本当に地獄だったわ。鞭でたたかれたり、罵声を浴びせられたり……)
そんな仕打ちを母親から受け続けたエステルは、彼女の姿を見るだけで震えが止まらないようになってしまった。心臓はバクバクし、冷や汗がにじんでしまう。言葉を発しようと思ってもつまってうまく出てこない。そんなエステルの様子を見て、母はさらにいら立ちを募らせ娘につらく当たる。
「あなたは完璧でなきゃならないのよ!」
ほんのちょっとのミスでも母は許さなかった。エスカレートする母ヴィルの教育虐待に、普段はおとなしい父がはっきりと物申してくれた。
「教育は大切だが、もっとおおらかにしてもいいんじゃないか?」
しかし、父の意見を聞いてもヒステリックに怒りを返すだけの母。
「あの女を見返してやるには、この子がちゃんとできるようになることがだいじなんでしょ!」
『あの女』というのはエステルにはわからなかった。しかし、それからしばらくして、母の姿を見ただけでエステルが失神するほどにまでなったのをみて、父は離婚を決意する。
「この子の様子を見て何も感じないのか? この子は君の道具じゃないぞ!」
そのあとは、あのおっとりした父が絶対に意志を曲げなかった。
エステルが後から知ったことだが、世間では公爵夫妻の離婚はこううわさされていた。
「仏心を起こしてあんな女といっしょになるから」
「あの温和な公爵が堪忍ぶくろを切らせたのだからよっぽどのことだろう」
「良かったわ、わきまえを知らない下位貴族の女の勘違いにこれ以上付き合わなくてもすむんだから」
話の中にはエステルが知らない大人の事情も含まれていたが、母は社交界ではあまり評判が良くなかったらしい。
傷ついたエステルを気づかって、父は妃教育をいったん中止にしてくれた。
「王家に嫁ぐか否かではなく、エステルが幸せになれるかどうかが大事なんだからね」
父はそういってエステルの心の回復を優先してくれた。
そんな父もエステルが十三歳の時に病で帰らぬ人となってしまう。
「エステル、これをお前にあげよう」
死の直前、父はエステルにある箱を手渡した。
「昔エステルが『ほしい』といったけど、鍵が見つからないからあきらめただろう。そのあと鍵が見つかってね。ほら、これだよ」
それはエステルが小さい頃、父と一緒に探検気分で先祖代々のお宝が収納されている部屋で発見した、宝石の装飾がついた箱であった。父が差し出す鍵もエステルは受け取る。
「宝箱はねいざっていう時まで開けないものだ。この箱に入っているものは本当に重要なものだから、お前が本当に困ったときにあけてみるといい」