16旅館
「あら、この子達ね。あいつらと言うのは。」
誰だ。偽善は誰かを見上げる。ふふふと上品に赤い口で笑う。
「大丈夫、怖がらなくてもいいの。あたしはね。貴方たちの主人から、案内人を頼まれてるのよ。」
本当か。信じて良いのでしょうか。
執事は偽善を守るようにして前へ立つ。
「あっはは。ホントだって。ほら、これ。ご覧なさい。」
首元には、館のマークが印字されていた。
「ね。これがあるから、あたしは逃げられない。ほんと困っちまうねぇ。貴方達もあたしと同じで、」
ぐいっとかがみ込む。ふわっと甘い香水が鼻につく。
「可哀想だねぇ。」
半月の目。単なる同情ではない。気味が悪い。
「さ、行こう。」
くるんと黒髪を廻し、出口へと向かう。
「信じるしかないです。行きましょう。」
「……うん。」
偽善はまだ執事の背後で怯えていた。
――――――――――
ガヤガヤ
もう外は夜になっていた。繁華街だろう。多くの人々が行き交う。あの女の人を見失いそうになる。
ドン
「あ?お前、ちゃんと前見ときな。」
偽善が誰かにぶつかった。大柄な毛むくじゃらの男だ。
「ごめんなさい。」
目を見ず謝る。
「………偽善、偉いですよ。」
耳元で笑う。執事が隣にいるのだけが唯一の安心だ。
ふと見ると偽善は気付かないうちに、執事の着物の袖を掴んでいた。
「偽善、手を繋ぎましょう。はぐれては駄目ですから。」
「うん。」
二人は手を繋ぐ。何かの感動シーンのようだ。
「おい!!何でだよ!!」
雑踏の中、誰かが後ろで叫んだ。
「……う、」
偽善は怖がって、執事の腕を掴む。
「大丈夫。大丈夫ですよ。私がいます。」
執事の顔を見る。ちょうちんの橙に照らされてほのかに笑う。少し大きな鼓動がおさまった。
偽善が怖がっていますね……、ここで私が怯えていたら駄目です。大丈夫です。何とかなりますから。
自分に言い聞かせてまた、瓦屋根の街を歩く。
「ここだよ。この旅館にもう主人がいるから。」
「……お、おぉ、」
思わず見上げてしまう。大きい。ちょうちんが瓦屋根を照らして、一層美しい。
「あぁ、そうそう。偽善……そう貴方。主人から伝言だよ。夜に来い、ってね。」
「……分かった。」
多分例の"あれ"だろう。出先でもやらされるのか。
「あぁ!やっと終わったね!!解放さ!」
首元の印が消えていく。女の人は颯爽と去って行った。
「行きましょう。偽善。」
「うん。」
――――――――――
「やっと一安心ですね。」
「うん。」
偽善は寝ぼけ眼で返事する。接客の者に館主人と告げると、和室の部屋に案内された。
「もう寝ますか。」
「うん、」
布団を敷きながら、偽善に聞く。袖が垂れる。
「しかし、偽善。館主人に何か言われてませんでしたか。」
「あ、そうか。行かなきゃ。」
偽善は襖を開き、ペタペタと行ってしまった。シーっと襖が言う。
「偽善……、」
――――――――
「ゔー、」
眠たい。その場に倒れてしまいたい。
――次。次、金にならなかったら分かっているな。
「そうだった。」
忘れていた。もし金にならなかったら、その場で解雇……?
「あぁ、偽善。よく来たね。金になるといいね。」
他人事みたく俺に言う。俺にとっては生死を定める時なのに。
「ほら、腕を出しなさい。」
偽善はゆっくりと出す。一秒でも解雇される時間を遅くするために。
「……い、」
涙が出た。
「 」
どうなるんだ。この時間が嫌だ。心臓がバクバクなる。頭が痛い。冬の空気を吸う。
「おぉ、偽善。良かったな。少量だが、金になったね。」
なったのか。良かった。
偽善はホッと胸を撫で下ろす。
――――――――――――
「どうしよう。」
偽善は襖の前で止まっていた。執事もそれを知っている。
「……もう、寝たかな。」
しかし、照明はまだついていた。床には襖の四角が映っている。執事に限って、つけ忘れで寝ている、という事はないであろう。
「…………、」
覚悟して部屋に入った。
「おや、偽善。遅かったですね。長話しでもされていたのですか。」
ふっと笑う。偽善は目を逸らした。
「……また腕を怪我をされたのですね。しかし藥がございませんので、買いに行きましょう。」
「……あぁ、」
――――――――――――
「たしか、ここのはず。お邪魔します。」
藥という札が入口近くにかけられている。中に入ると、壁にずらっと箱が並んでいた。
「あの、誰かいらっしゃいますか。」
「……何だ。」
部屋の奥から面をしている奴が入ってきた。面をしているが、明らかに嫌そうな顔をしているのが伝わる。
「夜遅くにすみません。怪我の藥を下さい。」
「無理だ。」
物静かな奴だ。端的に物事を言われた。
格子窓からチラチラと月が見える。
「…………、」
よく見ると連れがいるのか。暗くてよく見えない。
月明かりで液体が光る。
「…………。調合してもいいが、払えるか。一円するぞ。」
「いっ」
高い。藥ってそんなに高価な物でしたか。
「もういいよ。我慢する。」
「……ですが、」
悩んでいるうちに背後から誰か来たようだ。
「無〜薬。おや、お客様かい。」
「長。何だ、帰れ。」
長……。この人が、ここの旅館の主か。大きな口でヘラヘラ笑ってる。
「お客様、ここに来たと言う事は、藥を貰いに来たと言うわけかえ?」
「はい。しかし、高くて買えなく……」
「くはは、そんな事かい。いいよ。タダであげよう。特別じゃよ。」
眉をひそめて、楽しそうに笑う。きっとこの者は、幸せなのだろう。
「持ってけ。」
「ありがとうございます。この御恩はいつか必ず。」
二人の後ろ姿を見送る。
「くはは。礼儀正しい子だ。」
――――――――――――
「ほら、偽善、腕を。」
館主人とは全く違う声色だ。優しい音。
違う。知ってるだろ。もう、もう俺と館主人が部屋でしている事。知らない、
途切れた息を吐く。
「知らない顔しないでよ、」
「……ぇ、」
執事は目を見開く。
「知ってるんだろ。馬鹿。俺が夜に出て行く理由。もういいよ。そんな優しくしないで。」
「…………。」
執事は固まって偽善を見る。
「う、うぅ……」
偽善はその場に膝から落ちる。視界が揺れる。馬鹿、泣くな。見つかる。今までの努力が。
「偽善……、はい。私は知ってました。」
偽善の背中を撫でる。
「うぅ、何で、じゃあっ何で言わなかった、」
「偽善のペースで、ちゃんと向き合って言って欲しかったんです。だから、言わなかった。」
そうなの。
ぽたぽたと布団に垂らしながら、唖然と見る。
「そうだったのか、俺っ、おれ、馬鹿だから、っ、ぅ、わからっ分からなかった。」
「そう、馬鹿馬鹿って言わないでください。貴方は馬鹿ではないですよ。」
優しくしないでよ。涙が止まらない。やめようとしても、でてくる。
パキン
「ぅう、あぁ、」
涙が宝石になってしまった。ばれた。今、どんな顔しているの。
「おれ、分かんないっの、俺って、っ、」
どう返事したらいいか分からない。
「泣いていいの、」
「、」
手が強張る。
「俺って、普通に泣いてもいいの。」
「 」
「ごめん、ごめんなさい。分からない。」
執事の顔はどこか後悔していた。
執事の手に触れる。震えて触れにくかったけど、必死に。
「……ぅ、謝らないで。」
うまく呂律が回らない。けど、言いたい。貴方に向けて。
「いつか、一緒に出よ、この館がなかったら、幸せ、だから」
言葉を繋ぐ。
「二人で抜け出そう。」
「はい、抜け出しましょう。」
「二人で。」
私はなんて慘めなんだ。
長 →旅館の主
無薬→薬屋