美少女とメリーゴーランド
びしょびしょの体をお兄さんから貸してもらったタオルで拭いた。外は土砂降りである。激しい音に包まれて、僕らは奇妙なロボットと対峙していた。
現在そいつは白い机の上に転がされ、体は縄でグルグルにまかれて身動きも取れないでいる。目の前のパイプ椅子にどっかり鎮座する僕とお兄さんを、ロボはギラギラ睨んでいる。
「ワタシをドウするつもりだ、ニンゲンめ…」
お兄さんは両手を頭の後ろで組んで見下ろす。その顔がなんとも憎らしげだった。
「煮て食うか蒸して食うかだね。安心してよ、男二人じゃ華がないだろう。女の子も呼んでパーティだ。なぁ、ティーンエイジャー」
こっちを見て同意を誘う。この人はこの口調に対してかなり毒の効いたことを言うから怖い。
「情報を根こそぎ聞き出してから食いますよ。ていうか、ティーンエイジャーっていうのやめません?言いにくいでしょうよ。なんなんですか、それ」
「おっと、気にしていたのか。でもね、僕は壊滅的に人の名前を覚えるのに自信がないんだ。いくら付き合いが長くったって。しかしそこまで言うのならしょうがないね、サーティーン」
「僕は今年で15歳になります」
「あれ」
お兄さんは頭をぽりぽりかいて欠伸をする。欠伸をした瞬間にきっと僕の年齢情報は吹き飛んだと思われる。どこまでも呑気な人なのだ。
当時小学生だった僕は、この薬局の道端でお兄さんとの邂逅を果たした。僕は転んでコンクリートに膝を打ち付け、血まみれになっていたところを彼に発見された。
「あらあら、何で小学生がこんなとこでしょんぼりしてるのかなぁ」
怪しい大人が僕を覗き込んだ。転んだのも相まって、僕はこの怪しい大人に激しい憎悪と不快感を覚えた。僕は俯いた。怪しい大人としゃべっちゃダメという文言をきちんと守ったのだ。
「……何怪しい大人と会っちゃたみたいな反応するの。僕薬屋で働いてるんだよ」
僕は目の前にしゃがみこんだ大人を見た。確かに白衣を着ているし、怪しそうなものを持っている感じもない。ただ目が合った途端、その大人は目を見開いた。
「んえ、そんな、泣くなよ」
たじろぐ大人を眼前にして、僕は不思議に思って目をこすった。液体が手にくっついて僕はびっくりした。僕は泣いていたということを初めて知って、それと同時に、また涙がぽろぽろ落ちてきたのを止めることが出来なかった。それを見てさらに慌てふためく大人は、しかし僕の手を握って引っ張った。
「手当て…手当てするから、くれぐれも防犯ブザーとか鳴らさないように」
大人は、慣れない手つきで、しかし優しく僕の手を引いた。周りにはそこそこ人がいて、時々こちらを一瞥した。その間を縫って、僕はこの薬局に連れていかれた。
彼は僕の傷口を手当てしながら訊いた。
「君、小学生でしょ。それも、学校帰り。どうしてあんなとこにいたのさ」
「……」
「家出かい?やめときな、僕は子供のころにそれをやって警察沙汰にまで持ち込んでしまった」
「…いや、そうじゃない…」
僕は黙った。大人も黙った。
沈黙の中、治療は進んでいった。僕はただじっとその手の動きを見ていた。骨ばって、大きい手だった。腕から切断すれば、美術館の展示品にできると思った。今考えると大分グロい発想だが、中三の僕にしてみても、なかなか的確な表現だと思う。手当てが終わると、僕は喉のつっかえ棒が無くなったのに気づいて、ちいさく言った。
「…覚えてない」
「え?」
「なんであそこにいたのかとか…なんで泣いてたのかとか…全部、思い出せない」
お兄さんは怪訝そうな表情をしたが、思いついたように、ひょいと立ち上がると、ジュースをくんで僕に手渡してくれた。
「一人で帰る?」
「うん。もしもの時はスマホあるし」
世代の差…と聞こえてきたが、お兄さんは咳ばらいを一つして、言った。
「また来てもいいよ」
「オイ、ワタシを無視するんじゃなイ!」
おっと、忘れていた。ここ最近は、薬局に行く事も減っていたから。僕はこいつから情報を聞き出さなくてはいけない。そして友人Dとの関係が元に戻ったときに、きっと情報の海で驚かせてやるのだ。
「では単刀直入に聞くけれど、桐山ドロシーを知っているか。」
ビクッとロボットは痙攣する。
「しっししっし……知らナイぜぇ」
なるほど、こいつはポンコツの出来損ないである。他のロボットのように蒸発できないわけだ。僕はほくそ笑む。
「彼女なら、僕知ってるよ。」
と、意外にも反応を示したのはお兄さんである。
「お兄さんが何で知っているんですか」
僕は訊いた。
「ここらへんじゃ有名人だよ、彼女。あんな美女が街ほっつき歩いてたら、そりゃあ皆騒ぎ立てるさ」
お兄さんはまた欠伸をする。
「おいロボ、彼女はいったい何者なんだ。小さい隕石と関係があるのだろう」
僕は長らく考えてきた推測を言ってみる。ロボットはまた震えた。
「そっそっそっそんなことナイケドどこで仕入れたんだソンナ情報」
僕は味をしめた。
「僕はすでに彼女について研究を開始しているんだ。彼女が我が地球を支配しようとしていることは既に分かっている」
ロボットは固まってしまう。僕は続けた。
「彼女がやってきたから空にひずみ的ななんかが生まれて、その……ひずみ的ななんかから隕石が降ってきたんだろうそうに違いないっ」
「なっっなっ…」
「そして彼女は君たちに命令したんだ…僕を崖から落としてしまえと‼」
ロボットはぐらぐら眩暈を起こした。そして倒れた。縛られたままぶっ倒れたからもう立ち直れないかもしれない。
「なゼそこまで知っていルンダ……」
そんな台詞さえ吐いてしまうポンコツぶりである。実を言うと全てあてずっぽうであるが気にしない。
「(何の話だか知らんけど、)そろそろ白状してもいいんじゃぁないかな、ロボ助。安心してよ、煮て食べないから」
お兄さんが口を挟む。
「蒸しテ食べたりもしナイ…?」
ロボットは今にも泣きそうだ。
「もちろんさ。女の子は呼ばないし、パーティなんかもしない」
お兄さんは怒涛の前言撤回。こんなに胡散臭いのに薬局で働いてるなんて、信用問題にならないか心配である。お医者さんのイメージはこの人のおかげで大分前に崩れている。
ロボットは渋々語りだした。
「彼女は確かに別の星からやってきたのだ。彼女のパパ様とママ様のご命令により、地球侵略を目的として」
地球侵略⁉と反応したいところだが僕は既に知っている体なので深くうなずいておく。
「パパ様とママ様は星の中で最も偉いのだ。つまりドロシー様も偉い。だから彼女のいうことを聞かなくちゃいけないんだ。つまりワタシは悪くない」
人間のように弁明する奴である。こいつは著しくポンコツだが、こいつらの星に住む奴らはみんなポンコツだと思われる。ちゃっちい隕石とよわっちいロボットたちがその確たる証拠である。宇宙人=怖い・強そう、というイメージも粉砕されつつある。
「どうやって侵略するんだ。何のために侵略するんだ。侵略するとどうなるんだ」
「そんなニ質問攻めスんなよ……。ワタシは孤高の下っ端だからソンナコトは知らないナ。でもドロシー様はタクサン凄い力を持っているらしいカラ、なんかスッゲェことするんじゃないのか。タブン」
参考になるのかならないのか良くわからない発言しかされない。ドロシーがこの下っ端に重要機密を漏らさない程度には有能であるということだけ分かった。もうすこし攻めてみよう。
「力って?超能力のこと?」
「ええっと…少年漫画に出てくる技トカ…精神コントロール的なのもあったヨウナ……気がしないでもナイ……」
僕はハッとした。精神コントロール。それはつまり、精神をコントロールする能力ということであるが、僕は思い出した。教室の異変のことである。あの急激すぎる変化は、ドロシーのせいかもしれないという希望が今開かれたのだ。もしかしたら、友人Dも……。
しかし、そうだとしても分からないことがある。なぜ僕は精神をコントロールされていないのか。それとも知らないうちにやられているのか。学校の者を精神をコントロールすることが地球侵略につながるのか。それに、僕みたいに崖から落とすとしても、いちいち大量のロボットで追い回すのだろうか。そうだとしたら、非効率すぎないか。よくわからない。
ロボットは依然として倒れたままである。ちらっと横を一瞥するとお兄さんはいなくて、いつの間にか冷蔵庫の隣でぶどうジュースをなめていた。お兄さんはジュースを定期的に飲まないと精神を崩壊するらしい。ちなみに子供舌で酒は飲めない。彼は壁によっかかって、張り紙をクシャァっとしわしわにして台無しにした。
「ロボ助持ち帰ってよ、フィフティーン」
意外なことに僕の年齢は覚えたようで僕は感心した。や、そこではない。
「嫌です」
「そんなこと言わないで」
「嫌ですよ」
「ジュースあげたし」
「えぇ――」
「お願いよ、僕保護責任ないもん」
「僕だってないです」
「こんなに可愛いじゃないの」
「そんなことないです」
「おイ」
ロボットはまたガタガタ震えだす。ロボットは大変不利な立場である。
僕は帰路についた。お兄さんから傘を借りて強い雨をしのいでいる。
抱えているのはそこそこ大きい紙袋である。中から機械音がする。結局、見事にお兄さんは僕にロボ助を押し付けた。元々厄介ごとを持ち込んだのは僕だから、当然と言えば当然だが、どのように家族から隠せばよいのだろうか。お兄さん独身だから、こいつと一緒に暮らせばよかったのに。機械音と雨粒の騒ぎが大変耳障りである。
家に着くとやはり明かりがついていた。そろりそろり入る。
「あら、遅かったじゃない。夕飯、みんな先に食べちゃったよ」
なぜか母は僕の存在にすぐ気づいてしまう。安心するような、ただ今回ばかりは少々厄介な気持ちにも追われて、返事もそこそこ、すぐさま二階の自室に大荷物を忍ばせるべく階段を駆け上がる。
素早く自室に入ると、そこはいつものように散らかっている。こういう部屋を製造する人間の定石は、「え散らかってるけどどこに何があるのかちゃんと把握してるよ」という者なのだろうが、僕はその限りではない。勉強机の上にひらきっぱの本が大量に重なって勉強は不可能だし、床一面に畳まれなかった洗濯物は海の如し。ベットが勉強机になって大変不便である。上手く字が書けないし、寝返りを打つと積極的にノートが折れ曲がって上手く眠れない。この散らかり具合、どこに何があるのかなんて分かるはずもないのだ、と胸を張って主張できる。何事においてもとりあえず胸を張っておくのは大切だ。毎年部屋の中で何かが紛失し、何かが埃まみれになって発掘されるという状態が続いている。
時計は世界時刻より五分早く先を進み、つまり僕の部屋は常に日本の最先端である。その代わりカレンダーは世界とやらの二か月分を遅れて進んでいる。僕は記憶上、世間の日にちに合わせて一枚ずつめくったことはない。世間は皐月なので、僕の部屋は弥生である。
そんなかんやで危険品を早く置きたいが置く場所が見当たらない。圧倒的に平面が少ない。仕方なし比較的スペースのあるベットに放り投げた。機械音が埋もれ、しかし鉄はごそごそ出てきた。
「もうちょと丁重にアツカえ。投げんナ」
僕は鉄の隣に飛び乗ってあぐらをかいてみる。ロボ助は部屋を見まわして機械音をけたましくした。きっと汚いと訴えているので、失礼な奴だな、と一発拳骨をくれてやった。
僕はこの要領を得ない部屋で、美少女と宇宙の研究を終えるまでこいつと暮らすのかもしれない。ポンコツはポンコツでも、一応命の仇未遂の相手だ。普通に嫌である。考えれば考えるほど、何故素直に家まで連れてきてしまったのか分からない。僕はロボ助に向かい合った。
「いいかロボ助、絶対に皆に存在をバレてはいけないよ。見つかった場合、おそらく君はゴミ捨て場に連れていかれて最期は焼却炉でファイヤーかリサイクルの何かに使われてしまう。ことが終わるまではじっとしていなさい」
ロボットはギーギーと文句を垂れる。「汚い―、やダ―」
僕だって嫌である。うるさくて家族にバレてしまうのを危惧して、ロボットの後頭部を手刀でぶっ叩いた。ロボ助はあまりに容易く失神して眠った。僕は紙袋にロボ助を放り込んでベットの下に置いた。気の毒といえば気の毒だが、こうする他ない。僕は日常に戻って、夕飯やら風呂やら睡眠やらをしようと思った。
次の日の朝が来た。平日でもちろん登校せねばならないので、傘を持って学校へ行く。教室に入れば相も変わらずクラスメートの視線は冷たいし、友人Dとは話せない。そしてドロシーが前方のドアから入ってきた。歓声の中、彼女は一瞬だけ僕を一瞥した。
その時僕は、何故自分は平然と登校してこられたのか甚だ疑問になった。これだけ彼女が怪しいという情報を手に入れておいて、ついさっきまでその美少女のことを忘れていたのである。命を狙われていたというのに、僕は自分の身の危険に少々無頓着すぎやしないかと心配になった。
そこには、罫線だけ佇む白があった。まっさらなノートであるということを近くするのに時間がかかった。僕は眠っていたらしい。時間の経過とともに周りが見えてくるが、今が何の時間なのかさっぱり見当がつかない。ちなみに僕が居眠りしていた授業は数学だった気がする。
「休み時間よ。君ったら、ぐっすり眠っちゃって」
振り向くと笑っているのは美少女である。この人はいつも突然現れる。
「何か用」
我ながらにべもない反応であったが、ドロシーは気にも留めないである紙を取り出した。
「次の時間、修学旅行の班別行動のメンバー分けでしょう」
ドロシーはそう言って明るくした。なぜそんなに明るいのか分からない。よく分からないからとりあえず感想を述べてみよう。
「班決めの際、僕は確実にあぶれるな。先生には面倒をかけるかもしれない。というか、修学旅行の日くらい休ませてほしいな」
ドロシーは眼をぱちくりさせた。もっと違うことを述べるのが正解だったらしい。
「あなたやっぱり不思議ねぇ」
ひとり納得された。
「あぶれちゃうんだったら、同じ班になってくれない?」
彼女は雪のように白い両手を突き出して上目づかいをした。美少女にこんな風にお願いされるとつい二つ返事してしまいたくなるのだが、今は状況が違う。何か企みがあるやもしれん。僕は困って斜め上を見やった。もごもごしていると彼女は退屈そうに眉を下げる。「まぁ、考えといてね」
来る六限目、いよいよ班決めの時間である。当然のごとく僕と組む者はいない。しかしここで気まずさに堪えてのらりくらりやり過ごしてこそ、僕が僕たる所以に傷がつかないというものである。ということにする。
僕はいかにも超然として、余ったところにいつでも入りますよ、と椅子にふんぞり返る。そうだ、僕には待つという能力がある。そして大人しくしていれば自然とドロシーと同じ班になることはなくなるだろう。ほら、彼女を台風の目として人間が渦巻き始めた。あれは精神コントロールなのかどうか分からないほどに当然の光景に映った。暫くしてあの時間がやってくる。
「みんな班に入れましたかー。あれ、一人残ってるから入れてあげるじゃないですか。可哀そうだからいれてあげなさいー」
教師の声が猥雑な教室に吸い込まれる。ガヤガヤして何事もなかったかのようにクラスメートたちは雑談を続ける。全身の血が冷たくめぐるのを感じた。覚悟はしていた。が、僕は別のことにも怒りがわいてきた。
僕は教師と目が合うと、全力で般若の形相を演じた。教師は突然、きぃぃあ、とたじろぐ。
誰が可哀そうなんだ、このトンチンカン教師め。勝手に人に憐憫垂れてる奴のことを偽善者というんだぞ。余計なお世話だ。
「せんせーい、私の班一人入れまーす」
と誰かが言った。僕と教師はとっさに発言者を見た。
しかし、その者は、どういうわけだか絶世の美少女であった。どんな台風の吹き方も全く頼りにならなないと思った。群がっていたクラスの連中はどこぞへ行ってしまったんだ。絶対今の現象は精神コントロールである。何という使い方であろう。
さらに不思議なことには、誰一人このことに文句を言わないのだ。僕はドロシーの発言によってクラスメート全員から袋叩きにされてもおかしくないはずなのに。それも彼女の能力に違いない。恐ろしや。
清掃が終わって学校を出ると、やはり彼女は追っかけてきた。僕を思い通りにしてご機嫌そうである。
「ねぇ、一寸寄り道してかない?いい感じに海が見える場所あるじゃない」
もう殺人予告にしか聞こえない。
「いやぁ、結構遠いし…。忙しいんだな、僕は」
「嘘ね」
この「嘘ね」というのは特に嘘を見破った訳ではなく、単に彼女の都合に合わない発言をしてしまった故の制裁である。いやはや、理不尽だな。しかし一応図星ではある。
「じゃぁ、街まででいいから、私一人だと行きにくいところがあるのよ。そこね」
なんか勝手に決定されてしまった。この美少女が一人で行きにくい所など複数人でも遠慮願いたい。
でも、何故だか僕はついていくことにした。自分でも分析できぬ謎の好奇心が祟ったのだ。黙って隣を歩くままにすると、肯定と取ったドロシーは満足そうにした。今気づいたのだが、彼女の笑みには他人を喜ばせる力があるらしかった。彼女が笑うと僕は素直に嬉しいと思う。僕はそれをただの精神コントロールと思いたくない。なんて変だ。
ドロシーは街で一番大きいショッピングモールに入っていく。彼女と歩くと一定のスピードで歩けるので感心した。数学の問題に使えそうだな、と思いを馳せていると目的地に着いたらしく彼女は止まる。
それはお店ではなかった。目の前にあるのはメリーゴーランドだ。このショッピングモールには中心地にメルヘンな馬が集っている。僕は幼少期に一度乗ったっきりで、最近はほとんど気にも留めていなかった。
ああ、嫌な予感がする。僕は恐る恐る訊いてみた。
「……乗るの……?」
彼女はこちらを見てニヨニヨする。
「ほら、一人じゃ無理でしょ」
二人でも勘弁である。むしろ二人の方が厳しいという見方もある。僕は老衰で死ぬか、ドロシーに殺されて死ぬか、それとも絶世の美女とメリーゴーランドに乗ったことで世間の嫉妬を浴びて社会的に死ぬのかと真剣に考えた。そんな僕を置いて彼女は二人分の料金を払ってしまうと、低い階段をかろやかに跳んでいった。この人はどこまで自由なんだ。最早イラつくことすら馬鹿々々しくなって彼女に従う。
メリーゴーランドに僕ら二人以外は誰もいない。彼女はずかずか進んでいく。そうして吸い込まれるように乗ったのは、馬ではなく馬車であった。箱みたいなかわいい見た目で、中では向かい合うようにして座る。彼女が奥に座って、後を追っていた僕は手前に腰を下ろした。彼女は学校指定の鞄を膝に置いて落ち着いていた。僕は昨日バックをなくしたので、冴えないリュックサックで凌いでいる。右側に置いて、それからこれがグルグル回っている間にはいったい何を考えてればいいのかということを思案した。
やがてベルがジリジリなると、メルヘンチックな音楽が流れてメリーゴーランドはまわりだした。
この馬車は奥へ手前へ揺り篭みたいにゆらゆらゆれる。ドロシーの黒い髪もゆらゆらゆれる。僕を引き連れてこんな乗りものにのるなんて、企みでもあるのかと警戒したのだが、意外なことにも彼女は外の風景ばかり眺めている。何が面白いのか。なんだかこちらに振り向かせるのが悪い気がしてきて、なぜメリーゴーランドに乗ったのか訊きたかったができなかった。
僕は彼女の視線を追って外を見た。服屋や雑貨屋や子供達が繰り返し流れるだけで、ますます彼女が何を考えているのか不明瞭になった。飽きたのでまた彼女を顧みる。ゆらゆら長い髪が揺れている。彼女の髪は何にも抗わない。切り取ったみたいな横顔を頻繁に隠しては、時々カーテンを開けるみたいに白い頬をあらわにした。僕はふと、彼女の眼を見た。彼女の瞳が鏡になって、意味もなく風景を映していたことに気づいた。がらんどうだった。
僕はまた外を見た。そして、理科の教科書で見たことのある景色だな、と思うとそこは宇宙であることに気づいた。
メリーゴーランドは宇宙に浮かんでいた。なんでメリーゴーランドが宇宙に浮かんでいるんだろう。でもそれはごく自然なことに思われた。宇宙なんだからメリーゴーランドくらい浮かんでいるだろう。
僕とドロシーは依然としてメルヘンな馬車に乗っていた。馬たちは上下する。彼女の髪はふわふわ無重力を謳歌している。彼女は力もなくなって壁に寄りかかり、空っぽなまま揺れている。鞄やリュックは僕らの元を離れて宙をぐるぐる回っている。
彼女が横を向いたまま何かを言う。その拍子に恐ろしい寒さが劈いて僕はぶるぶる震えた。それは氷よりも雪よりも冷たい、果てしない宇宙の寒さだった。凍える手を伸ばす。意味もなく彼女を掴もうとする。けれどもいつまでも届かない。ほとんど触れることが出来る近さのはずが、彼女は僕の手にすら気が付かない。近づくほど遠くなっていく。急に胸が苦しくなる。永遠と続く短い距離を、それは絶望というんだよ、と教えてくれた人の記憶が蘇る。誰だっただろうか。
ベルの鳴り終わった響きが聞こえた。メリーゴーランドは止まっていた。そそくさドロシーが下りるのを見て、夢から覚めたような気がした。彼女は柵の外まで行くと、はたと振り返って手を上げた。
「おいていっちゃうよー?」
僕は慌てて馬車をあとにした。
帰り道、彼女は元のように薄ら笑みを携えていた。僕は彼女に何か訊かなければいけないのに、何も言葉にならない。ついさっきの出来事なのに、他人事みたいに解像度が悪くなっている。いま職質でもされたら、挙動不審のあまり連行されるかもしれない。
街を抜けて住宅街にいた。知らないうちに彼女と別れて僕は坂をひとり上っていた。短くて長いとはこういうことを言う言葉だと思った。夕日が住宅街を照りつけている。