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ロボットの行進

 生誕およそ十五年と数カ月、僕はこの人生最大の危機に瀕していた。眼と鼻の先を見よ!おぞましく大量のロボットが迫ってきているのだ。そいつらのライトがギラギラ煌めいている。サイズは膝下くらいですんでいるのだが、その量と言ったらたまったものじゃあない。辺り一面をロボットが埋め尽くしているのだ。それらが僕をじりじり崖に追い詰めてくる。背後には何もない……ガチで落ちてはいけないような崖である。下には黒々とした海だ。雨が降っているから普段よりさらにおどおどしく荒れている。

 我ながらなぜこのような有様になっているのだろう…。これまでの出来事が、僕の脳裏にフラッシュバックされた。


 

 ストーカー事件の翌日、僕はいたって普通に登校した。

 もし昨日つけてきた美少女が待ち伏せしてたらどうしよう…などと被害妄想が頭をよぎったが、当然、杞憂に終わった。今朝の空は澄み渡り、隕石も降ってはいない。隕石の降り方は…機能用に予想できないので、通学通勤する人々は皆傘を持ち歩いている。この光景にもすっかり慣れていた。

 しかし、僕はまたしても奇妙な光景に遭遇した。残念ながらこれは他人事で済まされなかった。

 学校の廊下を渡り、いつものように後ろのドアから教室に入ろうとする。ドアに手をかけた。異変に気付いたのはそのときだ。

 何故だか急に教室が静まり返った気配がするのだ。廊下を歩いていた時の、遠かったざわめきを思い出すほどに、それは明らかなことだった。学校が家と近いがために、ホームルーム直前に登校する僕には尚更それをはっきりと感じとれた。教室に入り辺りを見回すと、誰もが俯いて押し黙っていた。僕はこの不思議な光景を目の当たりにして目が釘付けになりつつ教室の後ろを歩いて行った。そのせいで隅の壁にぶち当たり、ごちん、と間抜けな音を教室中にもたらした。やけに大きく響いたことが、誰もが黙りこくった静けさと、自身の恥ずかしさを倍増させた。この奇怪極まりない状況でまだ羞恥心を孕むくらいには、僕は肝っ玉が太い。僕は咳払いして壁から離れた。

 僕は手で首の後ろを撫で、体ごと傾げる疑問を浮かべつつ、すべき行動も思いつかずに自席に着いた。

 いつも通り前の席には友人Dがいる。しかし僕は不安だった。僕が席に着くと、彼がこちらを振り向いて、あちらが先に「おはよう」と言ってくるのが日常だったから。僕は突如襲ってきた冷たい何かを振り落とすために、この沈黙を見なかったことにした。そして幾分かためらった後、挨拶がてら昨日の惨事のほどを訊いてあげることにした。「おい、友人D、昨日のジュースたちどうなったの」

「……」

「…おい?」

「……」

 友人Dが反応しない。黙りこくって振り向きもしない。そんなにジュースをを飲むのがつらかったのか。しかし、いつものようにエグイ毒をきかせてからかったわけでも無し、そもそもからかわれる程度で落ち込む繊細さも無し、そんな彼がただ一つの返事もしない。一体どうしてしまったというのか。

 僕は彼の肩をゆすったが、やはり反応はない。僕は魚みたいに口をパクパクさせることしかできなかった。僕以外皆の時が止まってしまったのではないか。夢じゃぁないのか。

 僕は悶々と思い悩んでいたが、急に、誰かがこちらをじろりと睨んだ気がして、友人Dの肩に手を置いたまま動けなくなってしまった。それは次第に膨れ上がって巨大な渦となった。僕は耐えきれなくなって、はち切れそうな思い出そちらを振り返った。

 すると、何事もなかったかのように、それは消え失せてしまった。

 しかしまた別の方向から、膨大に渦巻く視線が突き刺さった。そっちを振り向くと、また気配は消え去ってしまう。

 訳が分からない。冷や汗が僕の頬を伝った。また手で首をなぞると、びっくりするくらいに冷たかった。

 皆どうしたっていうんだ。僕は何もしていない。していないのに、まるで……異物でも見るかのようにこちらを睨んでくるではないか。

 ……僕は浮いているのだ。

 そう自覚した途端、僕はゾッとして思わず身震いした。冷や汗が止まらない。

 ただ間もなくこの状況は打ち破られた。ガラガラガラ、と前のドアが開く音が聴こえた。先生がきたぞ、と皆は元の姿勢に戻った。しかし現れたのは、絶世の美少女こと桐山ドロシーである。全員の注目が秒でドロシーへ集まった。拍手喝采と歓声が響く。彼女が入ってきたことによって息が吸いやすくなったのは否めない。僕は汗を拭った。そして拭った汗の量に驚いた。体の力が一気に抜けると、椅子にもたれかかって溜息をついた。突然皆、どうしちゃったんだろう。

 十分くらいでホームルームは終わり、僕は再び友人Dに話しかけることにした。

「なぁ、どうしちゃったのさ、おーい」

「……」

「なぁ、本名ゆっちゃうかもしれんぞ」

「……」

「なんか奢ってやるからさぁ」

「……」

 これは重症である。さっきからまるで僕がいないように彼は振舞っている。他の人達とは普通に喋っているのに。

 僕はだんだん言葉がつむげなくなってしまった。クラスメート全員に冷たくされるよりも、こっちのほうがずっと身にこたえていることに気づいた。僕は友人Dというたった一人の存在のために、こんなに動揺しなければいけない人間らしかった。僕は僕が知らなかっただけで、彼に頼り切って生きていたのか?しかし、僕は誰も彼も信頼しないつもりで生きてきた。それは同時に、誰からも信頼されないということだ。そんなこと今まで、ずっと平気だったじゃないか。でも、突然砂漠の中心に僕は放りだされてしまった気分になった。しゃがみながら彼に話しかけていたのだが、結局俯いて蹲った。足元に砂が見えた。そんな僕を周りのやつらが好奇心や軽蔑の眼で見ていることは分かっている。



 その日の授業を僕はあまり覚えていない。この地獄の状況の脱却を図ろうとしたが、具体的にどうすればよいのか分からないし、というかクラスで守るべき体裁なんて無いのだと知識として知っていたから、適当にその場をやり過ごしていた。ほとんど友人Dのことばかり考えていた。

 顔を上げると放課後となっていた。教室には誰もいない。友人Dも部活だったので行ってしまったうようだ。どうしようもないので、帰宅すべく昇降口にむかう。歩きながら自分の上履きを見つめた。荷物が余計に重く感じられる。

 僕は彼に何かしてしまったのだろうか。全部気のせいではないのだろうか。飲料水の飲み過ぎで体調を崩してしまっただけではないのか。髪型がうまく決まらなかったとか?いや、もしかしたら女の子に振られたのかもしれない……。だめだ、全く心当たりがない。僕等の付き合いにひび割れなんて、本当に初めてのことだった。前回のメントスコーラが現状の発端であるとはどうしても考えづらい。ラーメンに入っているメンマをいちいち僕の顔面に投げつけてくる彼とは、完全なるお互い様であるのだ。

 暗がりの昇降口を出る。まだ日が暮れる時間帯ではなく、薄ら青い風が頬をくずぐる。ところで、当然のように、輝く美少女が隣にいるのはなぜであろうか。彼女は前回のように希薄な笑みを湛えている。

「ねぇ、今日教室はいるときめっちゃ静かだったのなんで?君は眼にハイライトがはいってないよ」

「……いつからいたの?てか何故僕の隣に。」

「眼にハイライトいれなさいよ」

 この人と会話するのは大変難しい。ハイライト入れようが入れまいが僕の勝手だろう。てか自分の意志でどうにかなるものなのか。

「でも二次元だとハイライト入ってないイケメンのほうがファンの人気投票で順位高かったりするわね。難しいところね」

 突然こんなことを言う。フォローのつもりなのか。僕は怪訝そうな目付きになってしまう。

 僕は辺りを見ました。まだ校舎内である。

 完璧美少女と、地味な僕。ノベライズではよくありがちな展開だが、それにしても僕が不利過ぎる状況にある。一緒にいるところを誰かに見れらたら、クラス内での風当たりがさらに厄介になる。僕は心が広いので今は颯爽とやりくりしているが、美少女と僕が会話なんてしているのが発見されたら、きっとすぐにでもクラス中に情報が回り、挙句の果て、日々の給食を無事に頂けるのか怪しい。皆ドロシーを神のように崇め奉っている。毒でも盛られるかもしれない。そんなのたまったものじゃぁない。僕は保身に走った。

「君も僕に冷たくしなよ」

「どうしてよ。ドMなの?」

「違うけど。今日から僕は浮くんだ」

 ドロシーは首を傾げる。「何事?」

 僕は真剣にまなざしを彼女に向ける。

「今日教室が静まり返ってたのは、僕に対する不満をあからさまに僕に当てつけようとしたからだろう。しかし、僕は彼らが不満に思う要素を自分に見つけることが出来なかった。つまり、彼かが思う不満の原因が初めから僕の中に存在していなかったことになる。だから僕は堂々と行住坐臥を行うが、皆、それをさらに嫌がるのだろう。…僕と一緒にいると、君も疎ましく思われる日が来るかもしれない。ということで、一刻も早く、僕の隣から立ち去るべきなのさ」

 僕は自分でも驚くほどよどみなくしゃべった。我ながら、これは、実に良い言い分なのではないか。しかし、

「嫌よ」

 僕の自己満は彼女の一言によって一蹴された。そして今度は彼女の番だった。

「あなた自分の体裁は気にしないのに、私の体裁は気にしないのね。ちっちゃい男ね。私が見込んだより。でも本当は、周りの目が気になってしょうがないんでしょ。せいぜい人間なんてそんなもんよ。でも、私はね、本当の本当にあなたたちとは違うのよ。何があったって平気だし、何でも自分でできるのよ。ただの美少女だと思って見くびらないで頂戴」

 確固たる自信に満ちた言葉だった。ふん、と鼻を鳴らして彼女は髪を振り払う。黒い絹糸が靡いて、傷一つない白磁の肌が見えた。彼女の眼はギラギラ輝く宝石になっていた。

 僕が呆気に取られていると、彼女は僕の肩に手を置いて笑った。

「なんてね」

 彼女は何でもなかったかのように言ってしまう。実際何でもなかったのかもしれない。僕は彼女の何を疑って、何を信じればいいのか分からなかった。しかし僕は、何か寂しさみたいなものが胸に沸き上がったのを感じた。優しい春の木漏れ日が差して、僕ら二人を照らした。

 しばらく歩き続けた僕らは、住宅街の一つ目の角に差し掛かった。ドロシーが指さす。

「あっちの方向に曲がるとね、私ん家なんだー」

 僕は適当に「へー」と返す。そして尚も直進し続けようとする彼女に変わって立ち止まった。ニ三歩先を言ったドロシーはふと気づいて止まった。きゅるり、とこちらを振り返った。

「何で止まってるの?」

「何で直進してるの?」

 僕らの間に沈黙が走る。鳥の声が上空を彷徨う。

「え…またうち来ようとしてる?」

 こわごわと聞く僕と対照的に、彼女はきっぱりと言う。

「うん」

「やめなさい」

 今度は僕もはっきりと答える。また彼女に先を越されて坂の上から見下されるなんて屈辱を味わいたくない。それに研究対象が研究者の家に毎回来る必要はない。なんか億劫だし…。

「ええーどうしてよー」

 ドロシーはみをよじる。僕は困って言い訳を探す。

「一人がいいんだ…」

 ドロシーはパッと身を引く。

「こんな美少女を眼前にして!」

 自分で美少女というのは良いのか悪いのか分からない。彼女はコンパクトミラーで自分の顔を見つめ始めた。僕は慌てて彼女の機嫌を取る。「いや美人、美人なのはほんとだから、今鏡見なくていいから」

 ドロシーはやれやれといった風にして自身の帰路につく。なんだか腹立たしいな。どうあがこうにも振り回される。でも彼女の遠ざかっていく背中を見ていると、ちょっぴり申し訳なくもなってきた。

「桐山さん!またね」

 彼女は振り向いて手を振り返した。そしてまた歩いて行った。僕は自分が微笑んでいることに気づいた。

 


 いつの間にか五月になった。今日は雨が降りしきっている。今も帰り道、友人Dのことを考える。毎日話しかけて、毎日無視された。ギャグかな、あはは、で済ませたかったが、一カ月続いたので流石に限界が来た。もうだめかもしれない。僕らの何年もの月日は、たかだか一カ月によって粉砕されようとしていた。

 ドロシーとは度々一緒に帰ることがある。でも、それによって僕や彼女が冷やかされたり嫌がらせを受けることはなかった。僕にはそれが不自然に思われた。なにもされないのならそれに越したことはないのだが。

 雨が強くなってきたので傘を開いた。雨がコンクリートにぶつかる音と足音だけが響いている。

 なんだかんやぼんやりして生きているなぁと思った。毎日だけがひたすら過ぎていく。僕は目の前の問題になすすべがない。それでも毎日は続いていく。僕はただただぼんやりしている。そしてぼんやり歩いている。ぼんやりぼんやりしているから、最終的に動物的本能が研ぎ澄まされて、不意に後ろを振り返った。

 友人Dかな、と期待して振り向いたのだが、違った。そこにはロボットがいた。一体のロボットである。大きくはない。人間のように四肢があり、それぞれは長方形の鉄みたいので組まれている。

 異様である。状況が分からない。

 一旦、とりあえず、見なかったことにして、前へ歩く。すると、機械音がする。あ、こいつ動いているな、と思うとともに、もう一度、振り返ってみる。

 二体になっていた。いや、待ておかしい。何だこれ?…ぼんやりしているせいだ、そう、気のせいだと考え直す。また前を向いて少し歩く。機械音がする。振り返ってみる。

 四体になっている。さっきより距離が近い。僕は一連の同じ動作を繰り返す。傍から見ればだるまさんが転んだで鬼が不正行為をしているようにしか見えないだろう。

 十回目くらいでついに僕は完全に考えを直した。僕は駆け出した。瞬間に、狂った爆音が自分に迫ってくるのが分かった。僕はなんでも忘れた。走って走って走りまくった。機械音がはち切れそうなほど呻くから、僕の脳髄が酷く痛んだ。僕めがけて追ってくる。完全なホラーだ。一瞬振り向くと、とんでもないロボットの量になっていた。住宅街に鉄と爆音の川が走る。ロボットはガタガタギリギリ空気を震わせて行く。僕はなけなしの体力を絞り出し絞り出しカーブを曲がる。坂を上る。あいつらは坂の角度など物ともせずこっちに来やがる。

 自宅に帰ることもできず、住宅街の果て、そうだこの街には海があるから、んで、海の前の崖には林があって、僕はその林を抜けたので、つまり海岸にたどり着いていた。後方ににロボット大軍、前方に落ちたら人生終了の金輪際こと黒い海が出現している。三階建ての校舎を思わせる標高だ。

 そしてこの話の出だしに戻る。



 ちゃっちいロボットでも量がものを言って、僕という尊い命を危機に至らしめている。にじりにじり寄ってくる。僕は後ずさりして背後に海が待つ格好となった。

 刻々と狭まっていく足場の頼りなさを感じる。地面が雨で滑りやすくって恐ろしい。強風が体を煽る。あと一歩で―――――というところで、動物的本能ふたたび、ある一つの可能性が僕の頭にひらめいた。

 無意識にポッケへ手を突っ込んだ。中には常備のメントスが入っている。それを五個くらいぎゅっ、と掴む。そして天高く上げると、ある一体めがけて思いっきりぶん投げた。

 腕が振り切れると同時に、ロボットの顔面に大命中した。メントスが高く跳ねた。ロボットはぷしぷしゆって、コテン、と倒れてしまった。雨音の中に機械の停止音みたいなのが聞こえてきた。

 すると、一部始終を見ていたほかのロボットたちが、ざわざわし始めた。倒されたロボットを見つめ、僕を見つめ、そして互いの顔を見合わせた。

 誰かのランプが激しく瞬いたかと思うと、突然、ロボットたちは慌ただしく騒ぎ始めた。高速サイドステップを踏み始めたり、ぐるぐる回転したり、目のライトをチカチカ点滅させて叫んだりしている。どう見てもびっくりしている。その動揺っぷりはもはやコメディを思わせた。

 僕は脚に全部の勇気を溜めて、その群れへ跳び込んだ。恐怖も希望も既に分からない。足下空騒ぎのロボットを踏んではやっつけ蹴っ飛ばし、大きく大きく飛び越えた。最後尾のロボの頭を踏み越えると、ぬかるんだ地面に足を滑らせて頭を打ちつけた。打ち付けるとともに前方へスライディングもこなした。これでも着地は着地だ。文句あるか。

 ガタガタの体を起こして後ろを見やると、いかにも怒ったような感じで、ぷんすかぷんすかロボットたちが行進し始めている。僕は息つく暇なく、体に鞭打って再び駆け出した。バックとか傘とかはいつの間にかどこかで落としてしまったようだ。骨ばかりの腕を引いては脚を前に出す。

 僕はそのとき、一縷の救いを思い出していたのだ。


 やっと街に戻ってきた。どこもかしこもライトが煌めいて眩しい。特に雨の夜はバカみたいに光っている。僕はこの街で最も親しみのある所へ行くのだ。

 後ろを見るとやはり迫ってくるのはロボットたちだ。息も絶え絶え、賑やかな街の右へ右へ一番右へ駆け続ける。次第に見えてきたのは、懐かしい匂いのする薬局である。入口の自動ドアに転がり込む。

 僕は自分の身体をフローリングに投げつけた。床はやけに白く見えた。水浸しも構わないで目的の人を探す。

 見回してみると、やはり正方形なのか長方形なのか分からない構造だ。あちこちに張り紙が張られているが、規則正しくならべているようにも見えるし、全く乱雑にくっつけたようにも見える。以前は随分と綺麗にしていたそうだが、今では人熱帯に廃れて薬局が薬局である証明の清潔感は取ってつけた感じがする。僕は調合室に向かって叫んだ。

「お兄さん!助けてください」

 物音がして、お兄さんは奥からのんびりやってきた。僕は少しほっとする。

「お兄さん、冷蔵庫に二リットルのジュース入ってるでしょ。それ貸して」

「ええ、なんでよ」

「なんでもです!」

 お兄さんはいぶかしそうに首を傾げつつ、冷蔵庫から二リットルのリンゴジュースを引っ張り出してくれた。もう店のドアの間近にロボットが迫ってきている。そんなことも知らないお兄さんは名残惜しそうにペットボトルを撫でまわしては別れの言葉をぶつぶつ呟いている。そんなに大事か、リンゴジュース。

 僕は困難と幸福の間に挟まれているのを意識した。確実性はないが一刻も早く困難を取り除くか、見守って少しでも長く幸福を生き残らせるか。突然話しかけるが、読者諸君よ、君たちもきっとこの二択に頭を悩ませるときが来るだろう。目を背けたって無駄である。不可抗力だから。さて、どちらを選ぶべきか……。僕は自信をもって言う、これはケーバイケースだと。そして僕は思うのだ…この世の大半が、ケーバイケースなのだと。ただ、一つ言えるのは、後者を取る奴は、停滞に甘んじ自分の正体を知らないが、前者を選ぶ奴は、自分を特別な人間だと確信する、自意識過剰というやつである。そう、つまり、僕のことである。

 僕はお兄さんから素早くジュースを取り上げ栓を開け幸福をぶち壊し、ついに開いた自動ドア、群がるロボットたちへと放った。思いっきり放射したつもりだったが、思ったより勢いは弱々しい。ささやかな滝のようである。兎にも角にもそれを振りまいた。

 機械たちは突如降りかかる飲料水に、またもやパニックである。お兄さんはようやく事の重大さに気づいて、あららーと感嘆詞を上げる。いや、別に分かってはいないかもしれない。

 僕は外にも出て、満遍なくロボどもにリンゴジュースをお見舞いした。

 すると、一体の機械がガタガタ震えはじめた。その体の関節が外れていった。あげく四肢を保てず転がってしまう。もうそれは鉄の塊と化してしまった。お兄さんの息が止まったのを聴いた。

 しかし終わらない。ぱっと、光がはじかれた。鉄が水に変わったのだ。飛沫がはねた。それは鉄らしからぬほど早かった。溶けてしまっては水たまりと区別することすら難しいが、しかし、街のライトが不思議なものを照らして僕らへと知らせた。僕は導かれるように見上げた。

 それは重力と逆方向に向かって浮上する分子だ。さっきの天然水だ。雨を荷ともせず軽快に上昇していく。ライトの明かりが届く範囲までしか見えなかったから、街の天井は低い。僕はちゃっちい隕石のことを思い出した。これが、僕の一縷の救い、というより賭けである。こんなにへんてこなロボットたちが、これまたへんてこな隕石と全く関わらないと考える方が難しいくらいである。きっとこの種の物体達は砂糖に弱いと踏んだ。ほぼ勘だったけど。

 次々とロボットたちは水蒸気になって高く上った。気が付けば地面に残るロボは一体のみだった。これでほとんど、困難の撤去は完了された。

 僕は雨に打たれるのも構わずその場にしゃがみこんだ。どっと疲れが襲ってきたのだ。人生これ以上無いんじゃないのか、というくらいの盛大な溜息を吐いた。ホラーも持久走も懲り懲りだ。

 今まで薬局内で傍観してやがったお兄さんが、やっと出てきた。傘が開かれる音がした。

「いくらなんでも濡れすぎやしないかな。汗なの?雨なの?それ」

 この大人は呑気なことしか言えないのか。もっと他に訊くことがあるだろうに。

 睨みつけようとして首をねじると、そこには黄色があった。お兄さんの顔はもっと近くにあった。僕は自分のために傘が差されたのと、そのせいで雨音が遠ざかったのを遅れて知った。 僕はお兄さんの懐かしい匂いに、また心からの溜息をついた。補足:お兄さんお兄さんと呼んでいるが、兄弟ではない。

 お兄さんの黄色い傘は、小学生から受け渡されたものらしいが、面白いくらいに好くなじんでいる。僕はその小学生に絶大なセンスがあることを確信するのだ……お兄さんが肩をこづいた。

「残りの一体がまだ蒸発しないよ」

 三メートル程向こうに、確かに鉄の塊が取り残されている。耳をすませばギッギギッギと呻くばかりだ。関節を外そうというところで藻掻いている。なんだか痛そうに見えてきたが、罠かもしれないのでしばらく観察する。傘の下にいる僕らは平気なので、無慈悲にもただぼーっと様子見を続けた。

 どのくらい時間がたったか分からない頃、泥臭い雨音に隠れて微かな声が聞こえた気がした。気がしただけだから、大して気にも留めず様子見を継続する。

「…ど…オ…た…けロ……」

 僕とお兄さんは顔を見合わせた。今度は結構聞こえた。僕らはそろそろ近づいてみる。

「あの…」

「人間ども!オイ!助けロってイッテんだろガ!ギィィ―――!」

 急にでかい声を出しやがったぞ、こいつは。僕とお兄さんは再び顔を見合わせた。

「タスケロ――!助ケロ—―!!」

「…いやぁ、君は実に凶暴そうだしなぁ…。どうしようかなぁ…。どうするよティーンエイジャー」

「そうですねぇ…。やっぱり怖いですからねぇ、追っかけてきましたしねぇ…」

 お兄さんはヘラヘラしている。僕もニヤニヤする。ロボットは大変不利な状況である。だのに、この態度。己の立場と言葉の使い方を教えてやらねば。僕らはくるっとロボに背を向け、そのまま去ろうとする。ロボはギィー、ギィーと叫んだ。

「いヤ待って!ホントにヤバイから!すイませんでシタもうしませんかラ、たすけてクださい!」

 僕らは店に入ろうとした。

「マジでお願いシますっテば!なンデもゆうこと聞キますから!ドウか助けていタだけませンか!」

 そこまで言わせて、僕らはようやく了解した。ニヤニヤヘラヘラしながら救出すべく抱きかかえ、ついでにガムテープと太めの紐でぐるぐるに縛り付けた。これくらいは当然である。ロボはしゅん、としたが、それが偽りの演技の可能性が消えないまではこうしておくつもりだ。

 このようにして、僕らは静かな薬局へ戻った。

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