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美少女がやってきた

 美少女は美少女でも、彼女の持つ美貌は怪しむべきの類なのだと思う。

 こんなことがあった。「生徒大量出血事件」...巷ではそう呼ばれている。

ある女子生徒が転校してきた日のことだった。

まだ春の風が吹いていた。僕が中学二年生になって二、三週間が経とうとしている。今は、グループの中に如何にうまく入り、またハブられないようにやってのけるかということに皆が必死になる重要な時期である。友達を作る、ということは、なんて理にかなったことなのだろう。体育や英語の授業でも友達さえいれば、すぐにでもペアになって取り残されることはない。休み時間、一人ぼっちで何もすることなく居たたまれない時間を過ごすこともない。だから皆は、上手く浮世を渡るがために友達を作る。

 しかし!僕は知っている。ほとんどの人間が、クラス替えによって友人関係が朽ち果てること。自分の友達の目を盗んで、ほかの友達に友達の悪口を吐いているということを。愚かである。実に愚かである。何故どいつもこいつも自分は大丈夫だというのだろう。常に人を疑うべきなのだ。そして、自分も常に人に疑われているのだと、自覚して生きるべきである。さもなくば、いつ足をすくわれるか分からない。僕は賢明である。つまり、中学に上がってからただの一人も友達を作っていない。

 というわけで、退屈で仕方のない昼休み、どこかから歓声が上がるのを聞いた。特段、珍しいことでもないから、頬杖をついて聞き流していたが、はて、クラスメートの数がどんどん減っていく。彼らは教室のドアから歓声の方へ行ってしまう。ようやく僕は思い出した。今日は、新しく転校生がやってくる日だったのだ。クラス替えの数週間後、という一番微妙なタイミングである。どうせ僕は暇なので、野次馬に混ざることにした。隣の隣のクラスであった。



 廊下は運動会のようにやかましかった。人間の熱気で蒸しかえり、高揚した空気で満ち満ちている。二年生ではない学年の上履きもちらほら見える。たかが転校生の到来にこんなに騒ぐことはあるのだろうか?何が起きているというんだろう。

 廊下を進んでいくうちに、噂の転校生のクラスの手前に人が倒れているのに気づいた。僕は驚いて駆け寄った。肩を叩いてみる。「おい!大丈夫か?」

 揺すられた男子生徒は「うう…」と呻いて起き上がろうとする。手伝って抱き起してやると、彼は顔に付いた赤いものを拭った。かなりの量の血であった。彼の顔は紅潮していて、眩しそうに眉をひそめている。「び、び…」

「び?」

「びしょうじょ……」

 そう言って彼は力尽きた。何が何だか全く理解できぬうちに、また悲鳴に似た歓声が上がった。僕は彼に手を合わせ端に転がしてやると、野次馬をかき分けかき分け彼らの目線の先を見た。

 僕は、知らなかった。本当に美しいものを見た時、人は息もできなくなる。懐かしい花の香りを嗅いだようだった。

 彼女の黒く長い髪は、受け止めた光を七色に反射している。横顔は陶器のように白くきめ細かい。瞳は着せ替え人形を思わせるほど大きく愛らしい。ふと長いまつげが俯いて、彼女は足元に落ちたものを拾った。途端に、野次馬最前列の者たちが血を吹いた。血は噴水の如く宙に舞い、彼らは仲良く後ろに倒れこんだ。誰かが先生を呼ぶ声が聞こえる。きっと彼らは保健室行きだろう。

 彼女は立ち上がって自分の椅子に座り直すと、垂れた髪を耳にかけた。こちらではまたもや血が吹きあがり野次馬新最前列もやられた。歓声がまた響き渡る。すると、彼女が初めてこちらを見た。我々は目を逸らさず、図々しくも食い入るように彼女に魅入った。

 僕は驚いた。彼女は、まるで本当に作り物のようだったのだ。傷跡一つもなく、完全に左右対称の顔を持っている。

 彼女は今僕ら野次馬に気付いたという仕草を見せてどぎまぎしていたが、やがて小さく咳ばらいを、こほん、こほん、とするとまた机に向き直った。こちらでは、一瞬、吸い込まれたようにしん、としたが、次にはほとんどの人間が血をふきだし、その場に倒れてしまった。生き残りたちの歓声、悲鳴、鳴き声が廊下を埋め尽くした。この日、保健室が未曽有の大混乱、そして最終的には職員会議が開かれたという。

 かくして、彼女はあっという間に学校のヒロインとなった。ファンクラブもあるらしい。


 実はこの日の午後に、へんてこりんなことが起きたのだ。

 一人晴天の中を下校していた僕は、靴に落ちてきた何かを蹴っ飛ばしたのを感じた。しかし僕は平然と歩き続けた。僕はこう思ったのだ。

(歩いているのだから偶然石を蹴ってしまうのは当然。なんてことない)

 尚も僕は歩き続けた。そしてこう考えるようになった。

(今、石は足の甲に当たらなかったか?前方にあった石を蹴ったわけではない…)

 僕はなんだかとんでもないジレンマを見つけてしまった気がした。僕はこんな些細なことに、日常の裏側へ行く兆しを突きつけられた予感がしていた。

 こつん、と何かが頭のてっぺんに当たった。僕は立ち止まって空を見上げた。すると、そこには、何百粒もの小さな小さな小石が、地上に下っている光景があった。落下の速度ではない。小石たちは、ゆっくりゆっくりめいいっぱいブレーキをかけて降りてくる。拾ってみてみると、そこら辺にある石と同じ風貌をしている。あまりに遅い速さで大量の粒が降ってくるもんだから、たった今時間がスローモーションになってしまったのではないかと思いこんでしまいそうだ。ちゃっちい隕石たちは、天高く見えないほど遠くから来ているようだった。傘で防げるくらいちゃっちいから、この日からこの街では雨の日でなかろうとなんだろうと傘が差される妙な状態となった。


 不自然なほどに美しい少女と、宇宙からやってきた奇妙な隕石。そしてこの二つは同じ日にやってきた。僕はこの二つに、何らかの関係があると仮説を立てた。つまり、この非日常から日常に戻るためには、非日常の道をさらに奥に突き進んでいく必要があるというわけだ。

 



「なぁにいってんだぁ。お前」

 そういって彼はコーラに口を付ける。彼のことは友人Dと呼ぶ。僕の唯一の友である。決して僕が彼の名前を忘れたわけではない。彼が苗字名前を呼ばれることを嫌がるのである。そんな変な名前でもあるまいに。新学期のクラス替えで僕の前の席になった彼と僕は、小学生以来の幼馴染である。

「①最後の『つまり』、全然文脈間違ってんだろ。②美少女と隕石との出会いからもう一年経ってるくね?」

「①国語いつも潔く寝てるやつに言われたくないね。②彼女が全く尻尾を見せなくて何もできなかった」

 友人Dははつまらなさそうに肘をつくと、そっぽを向いて動かなくなってしまった。その視線の先には、あの美少女がいる。中学校生活最後の一年、僕は美少女と宇宙の関係について知るラストチャンスを手に入れ、欲望まみれのクラスメートたちは美少女との青春を手にした。新学期が始まった日、我が組はお祭り騒ぎ状態となり今日も飽きずに「栄養が回りすぎて呼吸困難」とか、「彼女から後光がさして直視できない」「俺は彼女の踏み台になりたい」などと意味不明発言が聞こえてくる。気のせいか熱気が押し寄せて蒸し暑い。

 確かに美人と同じクラスであることは喜ばしいことだが、僕は常に冷静沈着なので傍観の姿勢を崩さない。千年前から美貌に狂わされた男共の争いは歴史に大いに残されてきたし、そんなのは黒歴史である。あと僕は平和を愛しているから争いには向かない。

 お昼休みになると彼女はいつもたくさんの人に取り囲まれる。そのせいで美少女の姿はこの席からは認められないというのに、友人Dは未だのほほんと彼女に見惚れている。一体、美人を取り巻く人間を観察したところで何が楽しいのか。

 お昼休み終了のチャイムが鳴った。その音とともに皆はわらわら動き出し、自席に戻ったり次の授業の準備を始めたりする。僕も授業の用意をするために机の上を片付けようとしたのだが、彼の両肘が僕のノートを下敷きにして動かない。恋する乙女のようなポーズをとっている彼は、人がまだらになってよく見えるようになった美少女を輝く瞳で見つめている。こいつ、動く気がないのか。

 というわけで、僕はポケットからメントスを取り出した。僕にとって常備薬のようなものである。それを彼にほっとかれてしまった可哀そうなコーラへささやかに三粒いれた。すぐに泡立ったそれは、僕の目指した友人Dの眼球へ放射された。前にはやったメントスコーラというやつである。仕組みは知らない。今回は勢いが激しくて水鉄砲みたいになった。

「ぶっ、ぶはっ」

 友人Dはコーラまみれになってしまった。

「こんにゃろ!」

 僕は席をたって友人Dから逃げ出した。結果的に僕らは二人して授業に遅れた。



 下校の時刻となった。今日から部活動が再開になり、放課後から活動が始まる。しかし、ほとんどの生徒が部活に所属しているにもかかわらず、行く時間になっても誰も教室から出ようとはしない。

 支度が終わったようで、絶世の美少女が席から立ちあがる。すると、ザッとクラスメート達も椅子から立ち上がった。座ったままの僕の両側で、ものすごい風が巻き上がった。煽られた僕の髪が逆立った。彼女が一歩歩みゆくと、彼らも一歩を踏み出す。彼女がドアから出ると、彼らはドアにしがみついた。クラス一体で奇怪なことをすると壮大な眺めである。彼らが部活をさぼってでもしたかったこととは、美少女のストーキングである。やがて皆教室を出て行った。

 一人残された僕は、最早呆気にとられることもせずに静かに席を立つことにした。僕は部活に所属していないため、気楽に帰れるものだ。部活にこそ青春ありと語るやつもいるが、僕はハナからキラキラでみずみずしい学生生活に期待していない。彼らがありとあらゆることに一喜一憂する理由が解らない。客観的に見れば、どれも大したことのないくだらないものばかりであるというのに。

 僕はひとり、廊下を渡って下駄箱に向かう。昇降口は薄暗い。特に今日の廊下は著しく人気を感じなかった。きっとどいつもこいつも彼女の追っかけだろう。春休み明けで浮かれた気分が抜けていないのだろう。僕は自分の靴を手に取る。ふと顔を上げると、クラスの靴箱にはきちんと彼ら全員の靴が収まっていた。ああ、外の部活の人達も今日は追っかけで忙しいのだから、靴がきっかり入ったままなのか。端の段の、自分の靴箱だけが空洞になっている。

 こういう時、僕はふと思うことがある。どうして、僕は皆がいたって普通にやっていることを、自分はやらなくて平気にしているのだろう。何故皆がときめくものに自分はこれほどにも無関心なのだろう。何か違うのだろうか。…いや、しかし、彼らのやっていることは実にくだらない。人をストーカーするなんて良くない。僕は良識を持っているのだ。そうだ、彼らと僕の違いといえば、良識を持っているか、否かだ。

 僕は上履きを置いてさっさと昇降口を後にした。


 今日の朝降っていた隕石はもう止んでいた。道端には石ころがたくさん転がっている。非日常の道を行くなどと抜かしておきながら、隕石は日常の現象と化していた。僕は傘をぶらぶらしてスキップした。別に誰も見てないし。帰り道はとても愉快な気持ちになるのだ。ずっと帰り道でいたいなぁ。

 空を見上げてみると春の雲が浮かんでいる。僕はやわらかいこの空がすきだ。春の空が一番優しいと思う。花粉症の人には気の毒だが。

「よっ おひさぁ」

 背後から男が飛びついてきた。僕は前のめりになりすぎてずっこけそうになる。

「抱きつくんじゃない。おっかけはどうしたの」

 男の正体はもちろん友人Dである。彼も美少女の追っかけに参加していた。僕は彼を引っ剥がそうとするが、彼は肩を組んで不良みたいに隣を歩く。彼の高身長がのしかかって非常に歩きづらい。というかなぜ若者はすぐにくっつきたがるのだ。

「それがさぁ、すぐに撒かれちゃったのよ。廊下の曲がり角まがったら、すぐに」

 彼は頭を搔いた。クラスメートの動きにを気にも留めて無いスマートな美少女だったが、やはりあの奇怪な集団には気づいていたのか。曲がり角一つであのストーカー集団を撒くとは、すばしっこいなぁ。しかしストーカーである友人Dは不思議そうにしていた。

「絶対おかしかったんだ。彼女が曲がり角曲がって、俺らがその角にたどり着いたころには、もう、いなくなっていた。その先にはまた直線の廊下しかないのに。彼女は遠くにいるわけでもなく、消えていたんだ。人間じゃ不可能じゃないか?他のやつらは神だからっつて納得していたが、そこで俺はお前の説を思い出したわけよ」

 友人Dはユビッパチンを鳴らすとウインクした。ユビパッチンとウインクに何の意味があるのか知れんが、らんらんとした目で僕を覗き込んで熱く握手してきた。僕はただ今研究仲間が出来たらしい。

 確かに、彼の語ったことの顛末は不自然である。いくら美少女だからって、まさか瞬間移動は出来まい。彼女は何者だろう。

 僕らは手始めに落っこっちてた石を拾って観察をした。やっぱり、そこらへんの地球の石と何ら変わりはない。叩いてみたり、転がしてみたりしたけれど、手掛かりは何もない。石を使ってただ遊んでるだけの時間が続く。友人Dが言った。

「なぁ…ほんとに隕石関係ある?」

「気が短いな。僕なんか調べて早一年だぞ」

 じゃもうちょっと調べるか…と友人Dは言ってくれる。こういう潔いところは助かる。飽きっぽい彼は

CCレモンを口に付けると、間抜けな顔をしてこくこく飲み始めた。彼は昔っから退屈だと阿保みたいに間抜けな顔をして宙を見る癖があった。しかし今回は想像を絶するつまらなさだったのか、口からCCレモンがダバダバ零れている。そんなにつまらなかったか、とショックを受けつつ、先ほどメントスコーラをお見舞いした身から、なんてCCレモンについて言及すればいいのか分からず呆然としていると、友人Dの足元から、じゅわぁ、という音が聴こえてきた。僕はびっくりしてそれを見た。飲料が隕石に滴れている。

 すると、隕石はしゅわしゅわ泡を立てて原型を失い始めた。ビールの泡みたいだ。それはぴちぴち爆ぜていく。霧になって辺りを漂い始めると、やがて上へ上へゆっくり向かっていく。気づけば全部が蒸発して消えてしまった。一部始終に気が付いていた友人Dと、顔を見合わせた。そして二人とも思った。この不思議は、退屈しないぞ。僕は一年越しに日常が崩れる音が聴こえてきた。「調べる価値あり」

 僕はそばにあった自販機にお金をいれてサイダーや無糖炭酸、オレンジジュース、コーヒーなど、とにかく様々な飲料を買った。しゃがみこんで隕石を観察していた友人Dは、目を細めて僕を見上げてくる。僕は普段お金を使わないから、これくらいは大したことないと言ってやった。舌打ちが聞こえる。

 僕は隕石を並べて、それぞれに飲料水をバシャバシャかけていった。無糖のコーヒーや緑茶をかけた石は、ただ渋い色になっただけで何も変化は見られない。苦い滝行をさせてしまって少し申し訳ない。ただの水にも反応しない。

 しかし、オレンジジュースやらミルクティーやらをぶっかけてみると、石ころたちは気持ちよさそうに蒸発していった。キラキラ輝きを放っていく。周りには甘い匂いだけ残っている。

「如何やら砂糖に反応するようだ」

 僕らは今日の研究を終え、なんだかとんでもない現象を見てしまった余韻に浸りっぱなしだった。ふらふら下校を再開する。もうカラスが帰り始める時間帯になっていた。

 僕らは普段と変わらぬ住宅街を行く。だがこんな不思議なことが起こったときには、なんでも新鮮に見えるもので、揺れる木にビクついたり、飛び立った鳥に驚愕したりしてなんとか角を曲がっていく。友人Dの家までは二回、僕の家までは三回と坂を挟むと家に着く。

 その二つ目の角に差し掛かった。友人Dとはここでお別れだ。彼は至近距離でぶんぶん大きく手を振る。大量に余ってしまった飲料を彼は抱えている。僕が全部は飲みきれないから、と言うと彼が全部攫っていた。あの量を一人で飲み干すのはきっと厳しいだろう。途中でうめきそうな彼を想像すると少し不憫になってきたが、同時に愉快なのも否めない。性根が曲がってると言われるだろうか、僕はよく彼の無様な姿を面白がる。僕もぴしぴし空を切って手を振りかえす。春の夕陽だけが暖かく差す。僕は翻って帰路へ着く。


「ちょっと、君」

 とたんに美しい声がした。初めて何かの存在を後ろに感じた。春の空気が変にざわめく。

 僕は振り返って、少し遠くにいるその人を見つめた。そして僕はようやく息を吸い込む思いで、

「えっと…名前なんだっけ」

 遠くで彼女は固まってしまった。結構ショックだったらしい。すると速足でこちらにやってくる。すぐ目の前で立ち止まると、ずいっと僕の顔を覗き込んだ。僕はのけぞる。

「勘弁してよ、貴方想像以上に厄介ね。」

「えクラス替え初日なのに」

 彼女はやれやれと言って溜息をついた。初会話の人の名前を知らなかったことの、一体何が厄介なのか。このマドンナは自分の名が誰一人余すことなく知れ渡っている絶対の自信を持っているようだ。その態度にやや不快を覚えなくもない。完璧美少女像は何処かへ吹き飛んだ。

「君の家はこっち方面なのね」

「何で知ってたの?」

「そりゃ、つけてきたのよ」

 彼女はにんまり笑う。「つけてきたのよ」、じゃない!つけてくるな!しかし相手は研究対象、関りを持てば、面倒が生じるかもしれない。時期尚早である。というわけで文句を飲み込み次の角へと向かう。

 すると彼女はついてくる。僕はどうにもならないことを悟る。…状況を整理しよう。つまり彼女は、ストーカー集団から逃れ、ストーカーに関わらなかった僕を標的にして、僕をストーカーしていたのだ。こいつらにはストーカー規制法を一から叩き込んだ方が良いだろう。僕は駆け出して彼女が諦めるのを待った。しかしどこまでもどこまでもついてくる。そして何故か笑っている。ストーカーめ、何が面白いんだ。

 いつの間にか三つ目の角を曲がり、そびえ立つ坂まで来た。こいつはかなり急で、いつも中盤で疲れてきてしまう。生誕以来、体力が雑魚並みである僕は、幼稚園時代で既に持久走というものの煩わしさに気づいていた。そんな僕に、この建物といっても差し支えない勾配の坂は毎度憂鬱極まりない。

 僕は走ってぜえぜぇの状態で登り始めた。僕はわが身の不幸を呪う。何故追い回されて、走って、いつもこんな坂があるのか。僕は両手で両ひざを握りしめながら、もう走ることもなく進んでいく。しかし彼女の体力はどうか。ストーカーを撒いてストーカーをしてきたはずなのに、疲れも感じさせずにずんずん進んでいく。少しも息切れを起こさないのだ。口元に愛想のよさそうな笑みを多少残して、まるで平面を突き進む足取りだ。にくい限りである。

 坂を上り切ると、僕を抜かした彼女がこちらを見て突っ立ていた。そこで僕は気づく。このままでは家を特定されてしまうではないか。何をしているのだ僕は。

「どうして、ついてくるのかな、君は」

「どうしっててそりゃ、貴方の事気になるもの」

「ほぼ、初対面、なのでは」

 僕は疲れとカオスのあまり、ドキッとするタイミングを逃してしまった。どちらかといえば理不尽にイラつき始めていた。どんよりし始めた僕を前に、彼女は正しい角度で首を傾げる。

「私の名前すら訊いてくれないなんてあんまりだわ。ずっと訊いてくれるの待ってたのに」

 僕は顔を上げた。そういえば訊くのを忘れていた。自己紹介のためについてきたとすれば、まぁ、執着がすごいけれども、一応、筋の通る話のような気がしなくもない。眼前の美少女はもじもじしている。

「……名前なんていうの?」

 すると彼女は、眼を瞑ってしまうくらいに眩しく笑った。あまりに眩しかったので、僕も眼を瞑ってしまいそうになった。

「桐山ドロシーっていうの。よろしくね」

 彼女に強要されて僕らは握手をした。そうしてやっと道を別れた。くるりと背中を向ける彼女は、コツコツ靴を鳴らして坂を下って行った。彼女の居る住宅街は、普段より圧倒的に美しく、知らない世界のように映った。夕陽が黄金に輝き始めた。

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