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月の純度

作者: 幸京

職場でその人を初めて見た時に思ったのは、綺麗な人だな、それだった。

それから二年後、その人の異動により同じ部署となり、二人きりになった時に思い切って言ってみた。

「僕、映画鑑賞と読書が趣味なんです。好きな本や映画はありますか?良ければ教えて下さい」

「そうなんだ。ほとんど本は読まないし、映画もあまり見ないから。詳しい人にお薦め出来ないよ」

「いや、お薦めではなく、好きな作品があれば教えてほしいです。お薦めを聞くと、お薦めではないのに有名なものや評価されている作品を言う人がいるので。人が好きな作品を知りたいんです」

嘘だった。人の好きな作品ではなく、その人の好きな作品が知りたかった。

職場では人付き合いはせず、自分のことををまったく話さない僕が初めてそんなことを言ったのはきっと、恋愛感情からだったと思う。その人に僕を知ってほしかったし、その人を知りたかった。

その人が既婚者だとしても。

僕はその日から好きな本や映画の話をたくさんして、その人はいつも最後まで聞いてくれた。おそらく何の興味もなかったと思うから、その優しさが嬉しくもあり後々申し訳なくなったり。

その人は花が好きで、僕の知らない花の話をたくさん教えてくれた。僕は花には何の興味もなかったけれど、その人が楽しそうに話しているのを見るのが好きだったし、好きなものを知った時の感情は数年ぶりだった。

だから僕は会話やラインのきっかけとして、知らない花が道に咲いていれば写真に撮ったりして尋ねた。

そしていつか約束してくれた、その人の好きな花をもらえるのを楽しみにしていた。

それはもう、果たされることはないのだけれど。


その人が夜空を見上げ微笑みながら「月が綺麗だね」と言う。

たまたま退社時間が重なり、一緒に会社付近の駅に向かう途中だった。

その人は僕の気持ちを知っていたのだろうか?

知っていたとしたら、からかっていたのだろうか?もしかしたら、受け入れてくれたのだろうか?

ほとんど読書はしないその人が感じた、何の他意もない月へのただの感想だったのだろうか?

必死に様々な感情を抑えて、僕は答える。

「本当ですね。景色百景の写真でありそうですね」

「あー、うん」

その返事のニュアンスがややがっかりしていたように聞こえたのは、ただの思い上がりだったのだろうか。

その頃にはもう、二人だけの会話のノリの様なものが出来ていた。僕はやや強引にそのノリに戻し、今日の仕事であった上司とのかみ合わなかった会話を、面白おかしく話すとその人は僕の腕を叩きながら笑う。ただ梅雨時の暑い日だったから、半袖で汗を搔いていることが申し訳なかった。その人の綺麗な手が、僕の汚い身体で汚れてほしくなかった。僕はその日から筋トレを始めた。

「何か腕ががっちりしてきたね」やや秋を感じ始めた頃にその人が言う。

「そうですか?汗で汚いから、触ったら駄目ですよ」長袖の僕は答える。


きっかけは些細な事の積み重ねだった。

その人の価値観が少しずつ分かってくるとそれが気になりはじめ、狭量な僕はそれを受け入れられなかった。その人に僕の理想を押し付けているつもりではなかったけれど、人はそれぞれや、それはそれと、世間のほとんどの人達が考え理解出来ることが僕には出来なかった。

僕の気持ちの変化をその人も感じ取っていたのだろう。明らかにその人とギクシャクしてくると距離はでき、いつの間にかその人との会話は無くなっていった。まるで初めから何もなかったかのように。

要は、僕が抱いたその人への気持ちは、僕の譲れないものよりも下回っていただけで。その人はそれでもやっぱり変わらず綺麗で。それが何とも言えない気持ちで。一体僕は何をどうしたかったのだろう。


「おはようございます」

出勤時、会社の入り口で僕は言う。

「おはよう」

その人が笑顔で言う。

「暑いですね、今年は残暑が厳しいらしいです」

僕は続ける。

「そうなんだ。体調は大丈夫?」

その人は心なしか嬉しそうに尋ねる。

あれから僕は異動して2年が過ぎた。それからその人とは会えば挨拶しかしていなかったから、約2年振りの会話だ。今日、どうして僕はこんな話をしているのだろうか、あの日々のような二人のノリで。

それでも以前のような関係には戻れないだろう。お互いの誕生日やクリスマスプレゼント交換、バレンタインデーにホワイトデー、他愛のないことのラインや会話。

もうあんな日々は来ない。

僕はその人とどうにかなりたいと思ったことはないし、おそらくその人も僕とどうにかなりたいとは思わなかっただろう。僕には恋愛感情はあったけれど、おそらくその人にはなかっただろう。もしかしたら自分に好意があるのを分かったうえで、遊んでいたのかもしれない。

かつてのあの日々、あんなに楽しい時間が終わるなんて考えてもいなかった。

もしかしたらその人も僕のことを、何て思ったこともある。

それでも、もう終わったことだ。

「はい、大丈夫です。ありがとうございます」

「良かった。ねぇ、今度さ」

あの日のように変わらない綺麗な顔で、その人は俯きながらいつかの言葉を続ける。

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