LE TUE CIRCOSTANZE きみの背景 II
執務室の大きな窓からは、遠くまでつづくブドウ畑が見える。
船つき場と石だたみの街ですごしてきたダンテには好奇心をそそる景色だが、直接行くのは躊躇する。
みずみずしい景色だと思うが、ズブズブと足元のめりこむあの歩きにくい土はムリだ。
あれは歩けるように鍛練しなくてはならないだろうか。
いやそれ以前に馬の乗り方か。
コルラードのまえでまた馬に乗る機会があったときに、上達していなければ格好がつかない。
ドアがノックされる。執事が入室した。
「お客さまです」
「どなただ」
ダンテは問うた。
「ヴィオレッタ・スタイノ嬢が、ご機嫌伺いにと」
「所用で遠方に出かけたと言ってくれ」
真顔で返す。
「遠方ですか」
「数日はもどらんと」
ふたたびドアがノックされた。
「入れ」
そう返事をする。
オルフェオだ。
ドアを開けて執事の姿を見つけ、遠慮してかそのまま退室しようとする。
「ああいい。入れ」
ダンテは言った。
執事がいったんオルフェオのほうを見たが、すぐに話の続きをはじめる。
「どちらまでと聞かれましたら」
ダンテはしばらく考えこんだ。
「フィレンツェとか」
「フィレンツェでございすね」
執事が一礼して退室する。
オルフェオは会釈して執事を見送ると、窓のほうをながめた。
「スタイノ家の令嬢ですか。よく来てますね」
「そこから見えるのか?」
ダンテは問うた。
「今日のドレスは薄紫色でしたよ」
「あの令嬢には大人っぽすぎるような」
机の上の書類を手にとる。
「お父上に何としてもたぶらかしてこいと言われているのかな」
「親の言いなりで好きでもない男のところにくるような性格の方には見えませんが」
何が言いたいのだろうかと思ったが、まあどうでもいいかと思い直す。
「フィレンツェといえば」
オルフェオが口を開く。
「先日フィレンツェのとある良家の若君が、いちど死んで埋葬されておきながら二ヵ月後に蘇生して屋敷の私室に戻っていたとか」
「何だそれは」
「墓掘り人夫のあいだのウワサ話です」
ダンテは困惑した。
そんな界隈の者まで情報源にしているのか。
以前チラリと聞いた情報源のひとつは、旅芸人だった。
「先日言われていたゾルジ家を援助していた人物ですが」
オルフェオがおもむろに切りだす。
「ああ……分かったのか」
オルフェオは、ダンテの顔をじっと見た。
「どうした」
「は……」
何か言いにくそうに目線を逸らしてから、ゆっくりと口を開く。
「ドメニコ・マルコ・ヴィラーニ」
「え……」
「援助していたのは、お父上です」
つまり、とダンテは返した。
「自身の愛人の嫁ぎ先に援助していたと?」
三年前に亡くなった父の顔を思い浮かべて、ダンテは眉をよせた。
「帳簿には、それらしき出費があった記憶はないが」
「個人的に動かせる範囲の金銭だったのでしょう」
オルフェオが答える。
「どういうことだ。何をしていたんだ、あの人は」
「手放した愛人でも、愛しておられたとか」
オルフェオが表情も変えずらしくないことを言う。
「そんなロマンチストな人ではなかった。もう少し割りきっていた」
オルフェオが顎に手をあてる。
思案するような表情をしたが、しばらくして口を開く。
「たしかコルラード・ゾルジは、輿入れして半年後に生まれた子だったと」
「ああ……どういう経緯の子供だったのか」
ダンテはそう返した。
「先代さまが、妊娠させた愛人をゾルジ家当主に引き受けさせた」
「え……」
ダンテは顔を上げた。
オルフェオは真顔だ。
「体裁をととのえるために、妊娠させた愛人をゾルジ家当主に輿入れさせたのではと」
「経済援助をするという約束でか」
「推測にすぎませんが、それならつじつまが合う」
オルフェオが言う。
「コルラードは十五歳か。十六年前から援助をはじめたというのは、たしかに時期としては合っているが……」
不意に妙なことに気づき、ダンテは「あれ……」とつぶやいた。
むかし父の私室のまえの廊下であった出来事。
あのふがいない失恋が脳裏に浮かんだ。
「リュドミラは、十年前までうちの屋敷に出入りしていた。コルラードはとっくに生まれているはずだが」
もやもやとした感情を覚える。
「輿入れさせたあとも父は関係を続けていたのか……?」
「推測が合っているのなら、そう考えるのがいちばん素直だと思いますが」
オルフェオが答える。
「ゾルジ家の当主はそれも知っていたのか?」
「それは何とも」
オルフェオが何か考えるように宙をながめる。
「あちらはご存命ですし直接伺うこともできますが」
「いや、そこまでは」
ダンテは顔をしかめた。
ゆっくりと両手を組む。
「……コルラードは、知っているのかな」