TUTTO È CONFUSO すべてが混乱する I
御用伺いにきた女中に頼んだ紅茶を、コルラードはカウチでゆっくりと飲み干した。
昼を少しすぎた窓の外をながめる。
遠くを鳥が飛んで行くのを目で追った。
この時間帯は庭で作業する者もなく、窓の下をながめていても退屈だ。
噴水の水の動く様子をながめて時間をつぶしていたこともあったが、それも飽きてしまった。
以前ダンテにも従者にも読みたい本を聞かれ、いつまでも答えずにいたらそれぞれに見繕った本をよこした。
それも読んでしまった。
いつまでこんなことを続けるつもりなんだとつくづく思う。
少なくともダンテ以外の人間と情交する気はないのだ。それでは納得できないのかと思う。
コツ、コツと爪の先のようなものでなにかをたたく音がした。
音のしたほうに目を向ける。
どこからの音だろうと、聞こえたあたりを見回す。
「坊っちゃん」
潜めた声が聞こえる。
聞き覚えのある声だ。バルコニーからだと気づいた。
バルコニーに、ウベルトがいる。
コルラードはとっさに部屋の出入口のドアを見た。
だれも入ってくる様子はない。
ドアを伺いながら立ち上がり、出入り窓のほうへゆっくりと移動する。
外を見ると、バルコニーの壁にぴったりと背中をつけるようにして立っているウベルトが目に入る。
「入れ、大丈夫だ」
コルラードは出入り窓を開けた。
「お久しぶりです、坊っちゃん」
ウベルトが少々身をかがめ室内を伺うように見る。
野性的な目つきと猫背気味の飄々とした態度はあいかわらずだ。
「ここのところ仕事で遠方に行ってたんで、連絡があったらどうしようかと思ってたんですが」
ウベルトはなかに入ると、もういちど室内を見回した。
「しかしまだ軟禁中とは。ご当主の執着もすごいな」
ウベルトはつぶやいた。
「そのわりに寝室はべつだ。当主がべつの部屋で寝ている」
「何ですかそれ……」
ウベルトは困惑したように顔をしかめる。
「ステラから当主不在と聞いたのか」
「ええ、まあ」
「逃げるチャンスだと思ったか」
コルラードがそう問うと、ウベルトは片眉を上げた。
「分かりましたか」
「ステラもおなじことを言っていた」
ウベルトが口の端を上げる。
「あの従者の旦那が手強いのは想像つきますけど、かんぜんに逃げおおせたら、積極的に追ったりはしないんじゃないですかね。遠方のご当主をなだめる算段でもしながら報告するにとどまるんじゃないかと」
ウベルトが真顔で言う。
「遠方にいるご当主の指示がとどくまでのあいだに、手の届かないとろに逃げればいい」
親切に匿ってくれた知り合いではなく、裏の社会をよく知る人間としてのウベルトの表情が垣間見えた気がした。
行き先を提案するさいには、おそらくダンテの権限も財力もおよばないルートを挙げてくるだろう。
ウベルトにひとこと頼みさえすれば、ダンテとは一生会わないことも可能なのか。
「それより……」
コルラードは口を開いた。
ダンテが出先で懇ろになった相手をさぐってくれないかと言いそうになった。
何を言おうとしているんだと口をつぐむ。
「いや……以前渡した書きつけは、きちんと保管しているか」
「してますよ」
そうウベルトが答える。
「ならいい。あとは帰れ」
コルラードはそう告げて、つかつかと窓ぎわに戻った。
キッと音を立てて出入り窓を開ける。
「おまえに頼むつもりはない。僕をうまく逃がしたとして、おまえたち一家はどうする。当主に疑われるに決まっている」
「あそこから引っ越しますよ。以前トスカーナに住んでたこともあるし、あっちのほうにも土地勘はある」
「バカを言うな」
コルラードは眉をよせた。
「以前も言った。支払う金はない。おまえたち一家をそんなことでわずらわせたとしても、僕には何の対価も出せない」
開けた出入り窓から、コルラードはバルコニーをながめた。
「なぜそこまでする」
「何というか……子供がいるからかなあ」
ウベルトが肩をすくめる。
「もし自分ちの子が坊っちゃんとおなじ目に遭って、それでもこっちのために盾になろうとしてるって想像したら、全力で助けてあげるべきって思うじゃないですか」
「あやしげな界隈で生きている者とは思えないセリフだな」
コルラードは苦笑した。
「あやしげな界隈の者同士は、あんがい心配し合うこともありますよ。おたがいに正当な社会には助けてもらえない者同士ですからね」
ウベルトがそう言う。
「まあそれでも坊っちゃんがどうしても帰れと言うなら、今回も帰りますが」
そう言い、素直に出入り窓に移動する。
ふいに何かを思い出したように宙を見上げると、ウベルトは無精髭の生えた顎に手をあてた。
「どうでもいい話なんですが」
ウベルトとしては瑣末な話すぎるのか、わざわざ話すかどうか迷っているようだ。
「ご当主、お見かけしましたよ。舞踏会でかわいらしい令嬢と踊っていらした」
コルラードは目を見開いた。
出入り窓のノブを引いた手がゆれる。
「たまたま会を開いてたお屋敷に仕事でいたんです。こっちもびっくりした」
「……どこの令嬢」
コルラードは問うた。
「栗色の髪の、おめめのおっきな令嬢でしたね。ご当主よりはずいぶん歳下という感じかな」
ウベルトは、コルラードの顔を見下ろした。
「ああ、ちょうど坊っちゃんくらいなのかな。坊っちゃんより一、二歳上かもしれないですが」
スタイノ家の令嬢だろうか。そうコルラードは思った。
勝ち気でわがままそうな目を思いだす。
ダンテを評価していたあの言葉も。
毎回ちがうドレスでダンテを訪ねているのを、窓からなんども見かけた。
ダンテとしめし合わせて会っていたのだろうか。
またしても執務のふりをしてのいかがわしい外出だったのか。
不快な感情がこみ上げる。イライラがつのり、磨かれた窓ぎわの床を凝視した。
「……踊っていただけか」
コルラードは、声のトーンを落とした。
「そのあとは」
「それきりじゃないですか? 令嬢は婚約者らしい男を連れてましたし」
ウベルトが興味もなさそうに頭を掻く。
「婚約者……」
「まあ、輿入れが近いんじゃないですかね」
出入り窓を開けた格好のままコルラードは硬直した。
胸に大きく広がった非常に不快な感情に、服の胸元を強くつかむ。




