MI FA INNERVOSIRE 神経を逆なでする II
蹄が石だたみをたたく。軽やかな馬具の音が近づいた。
ヴィラーニ家の馬車が正門から敷地内に入ると、ダンテは玄関扉のまえで顔を上げた。
馬車の行く方向を目で追い、コルラードの乗った馬車かどうかをたしかめる。
立ち台にいるのがオルフェオだと遠目に確認すると、駆け足で馬車のほうに向かった。
オルフェオが馬車の屋形のドアを開けてコルラードに手を差しのべる。ダンテの姿に気づくと眉をよせた。
「……何をやっているんです。執務はどうしました」
「心配でそれどころではなかった」
ダンテは大きく息を吐いた。
「よく執事殿がゆるしましたね」
「あす二倍やると約束した」
そう言い、オルフェオを押しのけてコルラードに両手を差しのべる。
「コルラード」
コルラードは、座席に座ったままいやそうに目を眇めた。
中腰で立ち上がると、ダンテの手を無視して馬車から降りる。
「たしかに無傷でお返ししましたよ」
オルフェオが言う。馬屋のほうへと御者に合図した。
馬車がゆっくりと馬屋に向かう。
「どうぞ」
オルフェオは、ハンカチで包んだ焼菓子をダンテに手渡した。
「甘いものは苦手だと」
「コルラード様がお選びになった手土産です」
「え……」
石だたみの通路を歩くコルラードのうしろ姿を見る。
「私に? コルラード」
口元がゆるむ。
コルラードはこちらをふり向いたが、表情はなかった。
「私が自腹で立てかえましたので、のちほど執務室で請求書をお渡しいたします」
「おまえ……」
せっかくのしあわせな気分をこの従者は。
「お出かけの許可を出したときくらいお金をお渡ししては」
オルフェオが言う。
「いや……」
ダンテはもういちどコルラードのほうを見た。
コルラードがスタスタと屋敷に向かう。
金など渡したら、またあの男と逃げてしまうかもしれない。
そう思うと怖い。
芝生の向こうにある噴水から水音がしていた。
早足でコルラードを追いかけ、横にならんで歩く。
「ありがとう。少しずつ食べさせてもらう」
コルラードは、こちらを向かず黙っている。
オルフェオがあとからついてきた。
「あとで口直しのワインでも運ばせましょう」
「そんな。コルラードの手土産の口直しなど」
ダンテは口元をゆるませた。
夕方。ダンテが残りの執務を終えて私室に戻ると、室内はすでにうす暗かった。
女中を呼んで燭台のあかりをつけるよう言いつける。
コルラードは窓のそばにあるカウチに座り本を読んでいた。
「何を読んでいるんだ?」
上着を脱ぎながら近づくと、無言で本を閉じる。
「オルフェオに頼んだのか?」
ダンテは窓の外をながめた。
黄金色の太陽が雲にかくれ、そのまま地平線の向こうに落ちようとしている。
眼下のブドウ畑は、もう灰色にしずんでいる。
「本を読むには少し暗くないか?」
女中が入室して、あかりを灯しはじめる。
オレンジ色に照らされた室内を軽く見回し、コルラードに目線をうつす。
コルラードは本を置き、カウチの肘置きに頬杖をついていた。
「外出はどうだった」
ダンテはクラバットを解きながら尋ねた。
女中がカーテンを閉める。小部屋の窓のカーテンまできれいに閉めて退室するのを横目に見て、ダンテはしずかに切りだした。
「少しは……気分転換になったか」
コルラードは無言でそっぽを向いている。
「どんなところに行った」
シュル、とクラバットを外した。
「コルラード」
「関係ありますか」
コルラードがようやく言葉を発する。
「出かけたあいだのことをすべて報告しなきゃならないなら、外出した意味もない」
「雑談程度でいいんだ。何を見たとかどこが楽しかったとか、そんなことだけで」
「あなたの犬の監視つきで、気分転換になるわけがない」
「犬って」
ダンテはつい顔をしかめた。
「一人で出かけさせてください」
コルラードが語気を強める。
「良家の人間が従者をともなうくらいふつうだろう」
「僕は十三になるころには、一人で出かけていました」
「それはゾルジ家の方針だろう。きみは私の養子になったんだ」
「養子を解消してくれませんか。もう我慢できない」
またこれかとダンテは眉をひそめた。
ほかのことなら何でも聞いてあげるのに。
決して損な立場にはしていないつもりだが、何が不満なのか。
暖炉のまえのテーブル。片隅に置かれた焼菓子が目に入った。
あれはやはり、オルフェオが勝手に配慮したものか。
余計なことをと思った。
「……養子の解消はしない」
ダンテは言った。
「なんなら母の親戚の女性でもさがしては」
「リュドミラに親戚はいないよ。少なくとも調べたかぎりでは」
「……そんなことまで調べたのか」
コルラードが声のトーンを落とす。
「きみが行方しれずになったときに。そちらに頼る人がいるんじゃないかと」
「最低だな。そんなふうにどこまでも」
「……きみがいなくなるから悪い」
ダンテは眉をよせた。
「どれだけ不安だったか」
「なんの不安ですか。ほかの男に寝とられていないかどうかの不安ですか」
「それは……」
ダンテはつぶやいた。
コルラードと目が合う。
「たしかにそれはあったが……」
「その他の身の危険も」と言いかけたところで、立ち上がったコルラードに頬を殴られた。
「えっ……」
思いきり顔が横を向く。
何が起こったのか、認識するのにしばらくかかった。
こんな少女のような顔をして、拳で殴るのか。
頬に手の甲をあててじっと見つめるダンテを、コルラードは上目遣いで睨みつけた。
「ひどいな……刺すわ殴るわ」
「では追いだしたらいい」
「いやだ」
ダンテは即答した。
「こんな反応をしているあいだは、ぜったいに離さない」
「気違い」
「こんな反応をしているうちは、少しでも離れたらぜったいに逃げてしまう!」
ダンテは声を荒らげた。
コルラードがチッと舌打ちする。
「もう少し分かろうとしてくれたっていいじゃないか」
「なにを」
コルラードがそう返す。
「あなたが大ウソつきだってことか。それともウソをついてまで性交を強要するような人間だってことか」
「それは……悪かったと思っている」
ダンテは声を落とした。
「そう思うのなら、もう一生さわらないでください」
コルラードがふたたびそっぽを向く。
「一生……」
ダンテはつぶやいた。
頭のなかで言葉の意味をくりかえしたあと、カウチの座面に手をつきコルラードにつめよった。
「え……それはちょっと。数日くらいでいいだろう?」
「さわらないでください」
コルラードは眉をよせた。
「ただでさえここのところしてないんだ。きょうはお願いできるかと思っていたのに」
「なにをもともと合意があったみたいな言い方しているんですか」
コルラードが避けるように座る位置をずらす。
「嘘をついたのは悪かったと思っている。だが、ついそうしてしまう心理がなぜきみには分からないんだ」
「分かりませんね。大ウソつきの心理なんて」
コルラードが言い放つ。
「きみが子供すぎるんだ」
「子供がいやなら、さっさと見切りをつけてべつの人間を囲えばいい」
コルラードは語気を強くした。
ただ親しげに雑談でもしてくれればいいだけなのに、なぜこうなってしまうのか。
「……大人になってくれるまでこの部屋に置く」
ダンテはそう答えた。
かがませていた身体をゆっくりと起こし、コルラードから離れる。
「何で嘘までついてしまったのか、分かってくれるまで」
「そんなの一生分かるわけがない」
「では一生置く」
コルラードはするどい目つきで見上げた。
「人の人生を何だと思っているんだ!」
「そんな道義なんか、どうでもよくなる感情があるんだ!」
ダンテは声を荒らげた。
「分かってくれ!」
「気違いの感情なんか分かるわけが!」
コルラードが声を上げる。
どうすればいいんだ。ダンテ切なく眉をよせた。
外出を許可すれば、少しなら機嫌を直してくれるのではと思っていた。
逃げられそうで不安な感情を懸命にぉさえて待っていたのに。
「……どうすれば機嫌を直してくれるんだ、きみは」




