SFOGLIATELLA 焼菓子 I
城壁内の街の広場にある噴水は、軍隊にいたころに息抜きでよく来ていた。
ずいぶんと久しぶりだ。
コルラードは、遠目に噴水をながめながら縁のよく座っていた辺りをながめた。
まえに来ていたときと変わらない。
古典的なオブジェの数ヵ所から、きれいな水を吹きだしている。
昼少しまえの時間帯。
人通りはおおく、市場を中心に人々が行き交っている。
「どこか行かれたいところは」
オルフェオがうしろにピッタリとついて歩き尋ねる。
「娼館で遊んで行かれますか?」
コルラードが無視するのにもかまわずに続ける。
「もちろんダンテ様には言いませんよ」
「……わざわざ内緒にしなきゃならないのか」
コルラードは、機嫌悪く声のトーンを落とした。
「嫉妬でまた訳の分からないことになられるよりは。あなたもそのほうがいいでしょう?」
「あなたの主人は、娼婦にすら嫉妬するのか。どこまで頭がおかしいんだ」
コルラードは吐き捨てた。
「あなた以外に関しては、のんびりとした好人物なんですけどねえ……」
オルフェオが、背後でため息をつく。
「娼館で遊ばれたことは?」
オルフェオが問う。
コルラードは答えなかった。
「いいところを知っていますよ。こういうものは、きちんとしたところを知っている人間に聞いてからのほうがいい」
オルフェオが言う。
上品なものごしと美貌から下世話な話が出てくるのを、妙な感覚でコルラードは聞いていた。
「おかしなところだと病気を感染されたり、ムダに集られたりすることもありますからね。とくに良家の人は気をつけて選ばないと」
オルフェオが、横から顔を覗きこむように見る。
「初めてなら、性格のいい高級娼婦がいちばんでしょうが……」
頬がわずかに反応する。
母リュドミラが、そういう素性らしかったと知っている。
外国の貴族家出身という建前でゾルジ家に輿入れしていたが、そうではないと気づかせるような話をいくつか聞いていた。
「ああいうところの女性は、初めてだといえば優しくていねいに教えてくれますよ」
コルラードは唇を噛んだ。
どうしても母と重なる。
そんなことをしていた女なのだと、あらためて言われている気分になる。
高級娼婦がそのあたりの場末の娼婦と違うことは知っている。
だが、好きでもない男に性の手解きをするのは変わらないではないかと思う。
母に対して、あらためて嫌悪感が募る。
「私から娼婦に伝えますが」
「うるさい」
コルラードはオルフェオの言葉をさえぎった。
「けっこうだ」
「そうですか」
とくに気を悪くした様子もなくオルフェオがそう返す。
「酒場に入られますか」
「酒はあまり飲まない」
「お食事だけでも」
コルラードは、無視して引き離すように早足になった。
オルフェオは悠々とついてくると、横に並んならんで歩きはじめる。
「ダンテ様と逢われたときは、街で何をしていらしたんですか?」
「べつに」
コルラードはそっぽを向いた。
「……思い出したくもない」
「ダンテ様がお嫌いですか」
「当然だろう」
「好きになれとは言いませんが」
オルフェオが淡々とした口調で言う。
「ひとつのお部屋ですごされるのに、反発しどおしでは疲れませんか?」
「では、あなたが気違いの主人を説得して、部屋から出させてくれ」
コルラードはイライラと歩を進めた。
悠々とついてくるオルフェオとの身長差がいまいましい。
「お部屋のなかに仕切りの衝立でも作られては?」
「そんなもの発狂して越えてくるに決まっている」
「ああ……」
オルフェオが顎に手をあてる。
「なるほど。そうなるんですか」
しばらく宙をながめていたが、ややして続ける。
「本は読まれますか?」
「主人と同じことを聞くな」
「私がお勧めしましたから」
オルフェオがそう言う。
「本に夢中になっているふりをすれば、会話も夜のことも、いくらかは躱せる」
コルラードは、顔を上げて従者を見た。
どちらの味方なんだと鼻白む。
それとも、なにか裏でもあるのか。
「冒険小説? それとも学問書のほうがお好きですか?」
オルフェオがこちらを見下ろす。
「動力学なんかは」
「あなたの主人は、部屋に経済学の本ばかり置いていたが」
「執務上知っておいたほうがよいからでしょうね。もともとお好きでもあるんでしょうが」
経済学が好きなのか。コルラードはそう思った。
「興味のある分野がありましたら言ってください。取りよせますよ」
オルフェオが言った。
噴水から遠ざかり、もの売りの者や行き来する者でごった返した通りに差しかかる。
路上に置かれた籠や敷ものが、まっすぐに歩くのを邪魔する。
コルラードは、人々を押しのけるようにして前に進んだ。
「あいかわらずこの時間帯はすごいな」
オルフェオが、コルラードを片手でガードしながらつぶやく。
コルラードはチラリと従者の顔を見た。
この街にはくわしいのだろうか。何となくダンテとおなじ海の街の出身と思っていた。
「この街のすぐ近くの出身なもので」
オルフェオが苦笑して言う。
「やはり貿易商をやっていた家で」
コルラードは黙ってそっぽを向いた。
「ああ、興味ないですか」
ちょうど目を向けた方向に、こちらを見ている人物がいると気づいた。
道の中央にある古典風のオブジェに身体を半分ほど隠すようにしてこちらに視線を送っている。
ウベルトだった。
コルラードは小さく息を呑んだ。
声をかけたかったが、オルフェオのまえではまずいだろう。
ウベルトはこちらが気づいたと察したのか、ゆっくりとむこうを向いてオブジェの台座に座る。
オルフェオを追い払うまで待ってくれるということだろうか。
コルラードはくるりと従者のほうを向いた。
「焼菓子が食べたい」
オルフェオが目を丸くする。
「買ってきてくれるか」
「このへんに売っている店はありますかね……」
オルフェオはあたりを見回した。
「あれを食べなければ、ここを動かん」
「しかたないですね」
オルフェオは、通りから横にのびるせまい路地をながめた。
「ここでお待ちいただけますか」
「分かった」
コルラードはそう返事をした。
オルフェオが路地の奥のほうへと歩いていく。
姿勢よく歩く姿が路地の曲がり角に消えるのを確認してから、コルラードはゆっくりと後ずさった。
しばらく様子を伺う。戻ってくる様子はなさそうだと判断すると、急ぎ足でウベルトの座るオブジェのほうへと向かった。




