MI FA INNERVOSIRE 神経を逆なでする I
「ああ、本は読むか」
私室に戻ったダンテは、クラバットを外しながら尋ねた。
読書机では、女中がこちらに背を向けて燭台にあかりを灯している。
陽は暮れたばかりだ。
入室時、閉められたカーテンにほんのわずか透けていた陽光は、いまはない。
「読みたい本があったら言うといい。ひとりでは退屈だろう」
「そう思うのなら、外出くらいさせてください」
コルラードが窓ぎわで腕を組み言う。あいかわらず不機嫌そうな表情だ。
「このまえ海のほうに連れていったろう。また連れて行ってあげる」
女中が会釈して退室する。ダンテはドアが閉まるのを横目で見た。
「一人で外出させてください」
「……そのまま逃げられそうで」
ダンテは外したクラバットを手に持ちうつむいた。
「だからといって、いつまでここに置くつもりですか。ここで一生をすごさせる気ですか」
「現実的ではないな」
ダンテは苦笑した。
「分かっているのに何をやっているんですか」
「……どんな本を読むんだ?」
ダンテはクラバットを手近な椅子にかけた。
コルラードは無言でその場から離れると、窓ぎわに置かれたカウチに座りそっぽを向く。
いつもとおなじ。会話のとっかかりをもう失くした。
「ゲームの道具でも持ってこさせようか」
ダンテは言った。
「それともやってみたい趣味とか」
コルラードは無言で向こうを向いたままだ。
「コルラード」
「馬に乗りたい」
コルラードが、ダンテの言葉にかぶせるように言う。
「身体が鈍りそうだ」
夜にベッドで運動しているじゃないかなどと下品な冗談が出かかった。
言ったら確実に嫌われるだろう。
ダンテは口に手をあて言葉を飲みこんだ。
「馬に乗せたりしたら、そのまま逃げられそうな気がして」
「あなたは馬には乗れるようになったのか」
コルラードが問う。
「いや……まださほど」
「教えてあげてもいい」
「それは……うれしいが」
以前なら、大喜びで飛びついた提案だろう。
だがいまは、逃げられる不安しかない。
「いまはちょっと」
ガンッと音がする。
コルラードが手近にあった小さなテーブルの脚を蹴った。
テーブルが大きくゆれる。
テーブルの上にあった丸型の花瓶が、ゴトンゴトンと音を立てた。
「コル……」
コルラードは、眉をきつくよせて顔をそらした。
そのまま待ったが、いくら待ってもこちらを見てくれない。
強引にでもこちらを向かせたいと思った。
怒らせるつもりでしているのではないと分かってほしい。
「コルラード」
ダンテはカウチに近づいた。
なだめたくて手を伸ばす。
コルラードが、紺青色の目をきつく眇めて睨んだ。
ここで触れれば、この上さらに嫌われるのか。ダンテは手を引いた。
抱きしめて髪をなでて頬に接吻をして気持ちを鎮めてあげたい。
だが、それをすれば余計にこの子をイラつかせるのか。
いっしょにいようとすればするほど、この子には嫌われていくのか。
密着しようとすればするほど心が離れて行くのだろうか。
どこにも表現しようのない感情が、心臓で燻っている。
コルラードに対しての激しい感情が、出口がなく身体のなかで踠いていた。
表情にすら表してはいけないような気がして、ダンテは顔を伏せた。
「もう触れないから……機嫌を直してくれ」
執務室の大きな窓からうすい陽光が射す。朝からきれいに晴れることはなかった。
ダンテは書類をめくりため息をついた。
「コルラードに嫌われている」
「はじめからですが」
オルフェオが書類棚のまえでふり向きもせずに言う。
「ここのところはさらにだ」
「さらに嫌われるような、何をしたんですか」
「ここのところは何もしていない」
「では何かしてご機嫌とりでもしてさし上げれば」
オルフェオが書類を棚におさめる。
「何かしたくても、嫌って何もさせてくれない」
「……あなたは、私と哲学の議論でもしたいんですか」
オルフェオが嫌そうに眉をよせてこちらを向く。
コルラードがテーブルを蹴って以降、彼の髪の毛の一筋すらふれずにすごしていた。
暗いベッドに白っぽく浮かび上がるコルラードの銀髪を横目に見ながら、悶々として毎夜をすごしている。
「たまにはあなたから離れたいんでしょう」
オルフェオが答える。
「機嫌が悪くもなりますよ。部屋に閉じこめられて、いっしょにすごす人間といえば話の合わない御仁ひとりでは」
「話はあの子に合わせるつもりだ」
ダンテは眉根をよせた。
「……もう少し会話に応じてくれればだが」
「いさぎよく手離すのがいちばんですが」
「いやだ」
ダンテは書類をめくった。
「おひとりでの外出を許可してさし上げては」
書類整理を終え、オルフェオが執務机のほうに歩みよる。
ダンテはジトッと目を眇めた。
「何なら、私が付き人としてついて行くという形では」
ダンテは無言で従者の顔を見すえた。
「……何ですか」
「いや」
書類に目線をもどす。
「おまえにまで拳銃を突きつけて揉めたくない」
「何が起こると疑われているんですか」
オルフェオが眉をよせる。
「私で心配なら侍女でもお付けになりますか?」
「侍女がコルラードに興味を持ったらどうする」
「どうもこうも。孕ませてしまった場合の対処法でも教えてあげるしか」
オルフェオが淡々と言う。
「それはコルラードが侍女の誘いに応じる可能性があるという意味か」
「男の子ですから、ありえなくは」
オルフェオがとくに感情も交えずに言う。
書類を乱暴に執務机の上に置き、ダンテは頭を抱えた。
もはや、男も女もコルラードには近づけられない。
「私がついて行くのがいちばん無難では」
オルフェオが書類を整理しながら言う。
ダンテは、やや下を向いたオルフェオの整った顔立ちを見つめた。
「アントネラとの仲は変わらずか」
「ご存知でしょう。とくに変わりはないですよ」
オルフェオが、トントンと音を立てて書類をそろえる。
「何かあったら、おまえでも銃を突きつける」
「だから何があると思われているんですか」
オルフェオが呆れたようにそう返す。
「あんなにかわいいのに、ほかの人間がムラムラこないわけが」
ダンテは頭を抱えた。
「かわいらしいとは思いますが、ご婦人のペットの猫と同列のものですね」
「猫……」
「いいから執務を進めてください」
オルフェオが言う。
「集中できん……」
オルフェオは面倒そうにため息をつくと、執務室のドアを開けた。
廊下に向かって「だれか」と呼びかける。
駆けつけた女中に櫛を持ってこさせると、執務机に座るダンテの横につかつかと歩みよる。
「不意の来客があったら、どうするんです」
そう言い、ダンテの髪を整えはじめる。頭を抱えたさいに乱れたか。
「クラバットも直してくれ。ゆがんだ」
「はい」
「……おまえいま、コルラードのものなら手ずから解いてやるクセにと思ったろう」
「思っていません」
「外出か……」
ダンテはため息をついた。




