CITTÀ DELLE GONDOLE ゴンドラの街 I
街の水路の水は、うすいながらも潮の香りがする。
ゴンドラがやっとすれ違えるほどのせまい水路。
両側には背の高い建物が水路にそってならび、建物の窓にはあかるい色の花が飾られている。
ゴンドラの先端に立った漕ぎ手が、水路ぎわの建物の壁に足をかけ方向を調整をする。
やがてゴンドラが小さなアーチ橋にさしかかった。ゆっくりと橋の下をくぐる。
内陸ではなかなか見ないながめだろう。
ダンテはコルラードの表情をうかがった。
足をゆるく曲げて向かい側に乗ったコルラードは、目が合うたびにイヤそうな顔をした。
「……その」
ダンテは、アイボリーの服にクラバットをつけたコルラードの姿をながめた。
「やはり似合うな……それ」
選んだかいがあった。
コルラードはさらに向こうを向いた。
ゴンドラの椅子の肘かけに頬杖をつき、完全に無視を決めこんでいる。
アーチ橋の上では、花売りが通る人にムリやり売りつけようと強引に花を差し出している。
「花か……」
ダンテはつぶやいた。
女性なら、花など贈れば喜んでくれるだろうに。
男の子なら何を贈ればいいのか。
コルラードは、顔をそらして深緑色の水面を見つめていた。
「何か……欲しいものはあるか」
「自由をください」
コルラードが答える。
「部屋から出して、もう僕に関わらないでほしい」
浮かれていた気分を一気につき落とされた。
手の平を返したような態度の急変までは期待していなかったが、もう少し機嫌を直してくれるのを想像していた。
「なぜ分かってくれないのかな……」
ダンテはつぶやいた。
「何をですか」
「わずかな時間でも離れていたくないんだ」
ゴンドラの端に立っている漕ぎ手にはそれほど会話の内容は聞こえていないだろうが、それでもコルラードを気遣い直接的な言い方は避ける。
「外に出したら、だれかにとられそうで」
「以前も言った。あなたは心の病気だ。母の肖像画と暮らしたらいい」
「いつまでそんな思い違いをしているんだ。きみとリュドミラが別人なのはちゃんと分かっている」
コルラードはチラッとだけこちらを見た。
すぐに不機嫌な表情で横を向き、水面を見つめる。
このまえは部屋に戻るなりキスしてくれたのに。
あれは何だったのだ。
根が気まぐれなのだろうか。そんなふうには思えないが。
「自由は……きみが分かってくれたら、あげてもいい」
コルラードは、目線を上げてこちらを見た。
「その、私の気持ちを」
「あなたが僕の体に飽きたらでしょう」
コルラードが言う。
ダンテは戸惑って漕ぎ手の様子を見た。聞こえてはいないと思うが。
「……子供がそんなこと」
「その子供に何をしているのか、あなたこそ分かっているのか」
コルラードが声を荒らげる。
「……愛し合っているつもりでいる」
「ただ性欲のはけ口にしているだけでしょう」
「していない」
ダンテは答えた。
「きみと分かり合いたいと思ってやっている」
「あんなことでなにを分かれと」
コルラードが吐き捨てる。
「分からないのは、きみが子供だからだ」
ダンテはそう返した。
ほんとうにまだ子供なのだ。
私室でいっしょに過ごすようになってようやく分かった。
恋が何かもこの子は分かっていない。
相手を求めつくしたい感情というものがあるのだということも理解していない。
こんな子にはげしすぎる恋慕をぶつけるなど、気の毒だったかもしれない。
自分が、もう少し感情をおさえてやれていたらよかったのだろうが。
コルラードは、横を向いて水面をながめ続けた。
興味を持ったふりすらしてくれないか。ダンテは小さくため息をついた。
「どこか、ほかに見たいところがあれば」
ダンテはそう尋ねたが、コルラードは答えなかった。
水路のところどころに陸の通路に上がるためのみじかい階段がある。
そのうちの一つに、ゴト、とゴンドラがつけられる。
ダンテはさきにゴンドラから降り、コルラードに手をさしのべた。
コルラードは唇を尖らせて億劫そうに立ち上がると、ダンテの手を無視して片足を踏みだす。
だが舟の足元のぐらつくさまに慣れていなかったらしく、陸上とおなじ加減で踏み出して大きく上体をかたむかせた。
「おっと……」
ダンテは身を乗りだし、コルラードの片腕と肩をがっしりとつかんだ。
「大丈夫か?」
とうとつに横抱きにして降ろしてやりたくなった。
かわいらしく身を委ねているさまを見たい。
ゴンドラの先端でむこうを向いている漕ぎ手をチラリと見る。
人目もあるし、イヤがるだろうなと苦笑した。
この子がもし女性なら、ここで抱き上げれば喜んでくれるのだろうか。
ここで堂々と抱き上げて、この子は自分のものなのだと通る人に見せつけてやりたい。
この子が女性なら、それで幸せな表情を返してくれるだろうか。
慣れていない足元の感覚にイラつくコルラードを見下ろした。
片腕をとり、足元を誘導してやる。
コルラードはぎこちない動きでゴンドラから降りた。
ゴンドラがゆっくりと離れる。
陸の上に立っても、コルラードは何か足どりが気だるいように見えた。
「大丈夫か?」
もういちど問う。
「……気分が悪い」
コルラードはダンテの手を振りほどいて背中を向けた。
よほど機嫌を悪くしたのかと思ったが、しばらく様子を見てはたとダンテは気づいた。
「……舟酔いか?」
コルラードは、無言で背中を向けていた。
舟が唯一の交通手段という街で育ったダンテにはほとんど縁のない症状だったが、コルラードは内陸育ちだ。
気遣ってやるべきだった。
うしろからコルラードの顔を覗きこむ。
コルラードは口を押さえて、心地悪そうに目をすがめた。
「吐いても私はかまわんが」
「……そこまでではないです」
コルラードが答える。
「座るか?」
「けっこうです」
どこか座れるところはないかと、ダンテは周囲を見回した。
「少し歩けば酒場があるが」
通路のところどころにある路地への出口と、あちこちにかかった看板を見渡す。
「けっこうです。さっさと予定をすませてください。それで早く帰ったほうがいい」
「予定って」
ダンテは苦笑した。
そんな執務か何かのような言い方をしなくてもと思う。
「きみと逢引しているつもりなんだが」
目を合わせようとしないコルラードを見下ろす。
「とりあえずどこかで休もうか」
ダンテはコルラードの背中を押した。
「そのあとは、きみの行きたいところを案内してあげる。どこがいい」
コルラードは黙って口をおさえていた。
まだ治まらないのだろうか。ダンテは横から覗きこんだ。
小さな舌打ちが聞こえた気がする。
コルラードは口から手を外すと、顔をそらした。
「土地勘のないところなら、連れ歩いても逃げられないと思ったのか」
コルラードがそう吐き捨てる。
「そんなつもりはないよ。めずらしいものが見たいだろうと思って」
コルラードは黙っていた。
これでは私室にいるときと変わらないなとダンテは思った。
ふたりでの外出を考えついた瞬間は、どういうわけか雑談しながら楽しく歩く様子を妄想したのだが。
「私がそんなに嫌いか……」
ダンテはついそう口にした。
コルラードは、あいかわらずそっぽを向いていた。




