CANE 犬
コルラードは、廊下から玄関ホールを伺った。
はじめてこの屋敷に滞在したときも、こうして周囲を伺いダンテを避けていた。
ゾルジ家にくらべて人の多い屋敷だが、使用人がよく動きまわる時間帯と行動範囲は予想がつく。
少々勘をめぐらせれば避けるのは簡単だ。
玄関ホールは静かだ。
使用人の姿も見あたらない。
靴音をしのばせて階段を降り、ホール内を進む。玄関扉のノブに手をかけた。
「あら」
開けたとたん、紅紫色のドレスを着た令嬢と出くわした。
こちらの家の者を呼ぶところだったらしい。
侍女がこちらに手を伸ばした格好でポカンとしている。
令嬢がコルラードを見つめた。
ハーフアップに結い上げた栗色の髪、気の強そうな大きな瞳。
街で会った令嬢だと思い出した。たしか家の名はスタイノといったか。
ヴィオレッタ・スタイノだ。
「あなた、あのときの軍人の方?」
ヴィオレッタは、コルラードの顔を見上げた。
コルラードのほうが背丈はあるが、あまり大きくは変わらない。
ダンテからすればほぼ同じくらいの印象なのだろうか。
かすかにイラつく。
「どうしてダンテ様のお屋敷に」
「当家の大事な御方ですので」
背後から男性の声がした。
色気のあるなめらかな低音の声。コルラードは頬を強ばらせた。
オルフェオの声だ。
失敗か。
唇を噛む。
「コルラード様、こちらへ」
オルフェオは片手でコルラードの肩を包むようにして方向転換させると、もと来た階段のほうに促した。
「ねえ」
ヴィオレッタが一歩前に踏み出すと、コルラードのほうに歩みよる。
「あなたダンテ様とお知り合いだったの?」
大きな目でコルラードの顔をまじまじと見る。
「だからあのとき助けに入ったのね」
ふぅん、とヴィオレッタがつぶやく。
「ダンテ様にお礼を申し上げたら、あなたにお礼を言うべきだろうって言われたわ」
コルラードはそちらを見ずにいたが、ヴィオレッタはかまわずに続ける。
「お礼は申し上げます」
ヴィオレッタは言った。
「でもダンテ様は、あのとき武器も手にしていないのに背中に庇ってくださったの。銃を手にしていたあなたよりも、身の危険もかえりみず助けてくださったのは、ダンテ様のほうだと思うの」
コルラードはわずかに目を見開いた。
どちらを評価しているのか。しばらく文脈がつかめなかった。
あんな卑怯な男を評価する者がいるなど。
「落ちつき払って酔っぱらいどもと交渉するようなことまで言うから、剛胆な方だと思ったわ。頼もしかった」
なにを言っているんだ、この女は。
あの男は大ウソつきの最低な男ではないか。
ウソをつき、脅迫までして関係するよう迫った。
ありえない妄想で気の狂ったことをわめき、ウベルトの妻や子にまでありもしない容疑をかけようとした。
できることなら、あの男にされたことをここでぜんぶ暴露してやりたい。
「まあ、そのことはまたこんど」
オルフェオがコルラードの肩を抱き、もと来た階段のほうに促す。
「いまほかの者を呼びますので」
オルフェオがそう言い、令嬢に会釈する。
コルラードはうつむいて促されるままに歩いた。
すぐうしろからオルフェオの靴の音がする。
こちらを見下ろす視線をじりじりと感じた。
なぜあんな最低な男よりもレベルが低いように言われなければならないんだ。
だから女は分かっていない。
頓珍漢なところを見て、的外れなことを言う。
わがままでものの道理の分かっていないアバズレばかりだ。
「スタイノ家のヴィオレッタ嬢です」
「知っている」
コルラードは答えた。
「いまだ来ていたのか」
「ダンテ様も人がよいので。何だかんだいって社交辞令で何らかの対応をされてしまうので、期待させてしまうのでしょうね」
「さっさとあれと結婚でもしたらいいではないか」
コルラードは吐き捨てた。
「お父上に言われてしかたなく来ているのだと解釈していらっしゃるので、候補に入れる気はないようです」
「さきほどの令嬢の言葉を伝えてやれ。気が変わるかもしれん」
「コルラード様」
オルフェオがあらたまった口調で言葉をさえぎる。
「お部屋には、鍵がかかっていたはずですが」
肩をつかんでいたオルフェオの手は、廊下に差しかかると軽く背中に添えるだけになった。
「開いていた。あの男がうっかり閉め忘れたんだろう」
「ダンテ様がですか……」
オルフェオがつぶやく。
「逃げられたくなくて必死のくせに、鍵の閉め忘れとは」
フッと鼻で笑う。
単にコルラードの言い分に合わせているだけという感じだ。
「それでコルラード様」
オルフェオが切り出す。
「どこに行こうとしていたかは、お聞きしませんが」
「だが報告はするだろう?」
コルラードはそう返した。
「しません。このまま戻ってくださるのなら」
ウソだろう。
ダンテの意向を優先するに決まっている。
いもしない相手への嫉妬でのぼせたダンテに、今夜は執拗に責められるのを覚悟した。
「……あの男と出逢ったおりから、ずっと僕をさぐっていたのはあなただろう?」
ダンテの私室まえ。オルフェオがドアを開けてこちらを見る。
「あの男を刺して逃げたときも」
オルフェオは否定も肯定もしなかった。
表情はまったく変わらない。
「犬」
コルラードは言い放った。
「主人の倒錯趣味の片棒をかついで恥ずかしくないのか」
「どこの男性貴族も、まあそんなものですよ」
オルフェオが答える。
「同性を相手にするのは禁じられていますが、じっさいは建前ですからね。むしろへたに女性を相手にして婚外子など作られるよりは」
コルラードは従者を睨みつけた。
自分の出自のことを言われたのかと思った。
とくにそういう意味で言った様子もなく、オルフェオが淡々と続ける。
「こんなことが滅多にない話だと思って育っただけ、あなたは恵まれている」
「なにが恵まれているか。顔が似ているというだけで、アバズレ女の代用品にされているんだ」
コルラードは吐き捨てた。
「どうせそのことも知っているんだろう?」
「そうですね」
オルフェオが室内に入るよう促す。
無言でオルフェオを睨みつけながら、コルラードはしぶしぶと室内に入った。
「よけいなことを言うようですが」
オルフェオがドアを開けたままで縦枠に手をかける。
「あなたがダンテ様を刺して逃げたあと、ダンテ様はずっとご自分で不注意で刺したのだとおっしゃっていた」
オルフェオが言う。
「あなたに刺されたのではと尋ねても、かたくなに否定しておられた」
「罪に問われては、もう玩具にできないからだろう」
コルラードはそう返した。
「ただの玩具であれば、べつのものに変えてもいいのでは。まして大ケガを負わされた玩具など」
「あの人は僕の母に懸想していた。それがかなわなかったので代用品にしているだけだ」
「私には先日、男の子には何をあげたら喜ぶのかとおたずねになりましたが」
「そんなことくらいで、実はいい人だと主張したいのか。しょせんあなたは犬だな」
オルフェオが一礼する。
「あとで飲みものでも運ばせましょう。では」




