LA ZUPPA STA BOLLENDO スープが煮立つ
ウベルトの家は、労働者や職人がおおく住む密集した界隈だ。
日中は、あちらこちらから人の声や仕事をする聞こえる。
貴族の屋敷やそのまわりのしずかな環境とはまるで違う。
「坊っちゃん、ちょっとナベのなか見てくれます?」
ウベルトの妻、エルサが息子の口元を拭きながら言う。
華奢でおとなしそうな女性だが、いっしょに暮らしてみると意外とものおじしない人だと分かった。
危険をともなう仕事をしている夫を持つとこうなるのか。
ウベルトが帰宅する。
エルサはパタパタと玄関口に向かった。
「ナベ……」
コルラードは、グツグツと煮えるナベを離れた位置からながめた。
おおきな鉄のナベ、ナベをかけるフック、薪をくべ火を燃やしている炉辺、煮えたレンズ豆。
ここに来てはじめて見たものばかりだ。
あらめてまじまじと観察してしまう。
「見たが……」
玄関口のほうをふり向く。
「見たらかきまぜるんですよ?」
エルサはこちらに近づいて横から覗きこんだ。
テーブルの横では、ウベルトが上着を脱いでいる。
「お屋敷では見てるだけなの?」
「いや……そもそも厨房など見たことがなかったので」
「お屋敷のなかにあるのに?」
「貴族の坊っちゃんは、厨房係の使用人とは顔も合わせたことないのがふつうだ」
ウベルトが安い木の椅子に腰かける。
「そうですよね、坊っちゃん」
「……ああ」
コルラードはシャツの袖をそわそわと握った。
屋敷のなかではいつもきちんと上着の留め具までとめていたが、さすがにこの家ではシャツにズボンだけですごしている。
「厨房から食事を運ぶのは、またべつの使用人だ」
ウベルトがそう続ける。
「お屋敷のなかには何人いらっしゃるの?」
エルサが無邪気に笑いかける。
「いや……うちは少なかったほうで。どんどん辞めさせていたし」
ウベルトと目が合った。
そのあたりの事情は、彼はよく知っているはずだ。
「でも、ぼちぼち戻ってたじゃないですか」
ウベルトはそう言ったが、ふいに真顔になり口をつぐんだ。
「いや」
そうつぶやいて、さりげなく違う方向を見る。
使用人が戻っていたのは、ヴィラーニ家の援助のおかげだ。
そのあたりの気を使ったか。
ウベルトの息子が、テーブルの向かい側で食事をしている。
ウベルトは息子の手元に目線を移した。
「もうすぐ四歳だったか」
「ええ」
ウベルトが答える。
「うちの弟より二歳下か」
「シモーネ様ですね。人なつこい方でしたが、お元気ですか?」
「……実家にはしばらく帰っていなかったので」
コルラードは苦笑した。
ウベルトの息子が食事をする様子をしばらくながめる。
「坊っちゃん、そんなふうに笑うんですね」
「笑っていたか」
コルラードは口元に手をあてた。
「笑ったところは見たことなかったんで」
「そうだったか」
「坊っちゃん、ちょっといいですか」
ウベルトがそう切り出して、寝室のほうを指し示す。
話があるのだろう。
コルラードはうなずいた。
ウベルトとともに、せまい家族の寝室に移動する。
おおきめの質素なベッドが一つあるだけの部屋だった。
ここで毎晩、ウベルトの家族全員と就寝している。
庶民は同居の家族全員が一つのベッドで寝るのだと聞いたことはあったが、初日はやはり戸惑った。
ウベルトの横に場所をあけてもらって寝ていたが、他人といっしょに寝るのははじめてだった。
ウベルトがベッドに座る。淡々と切り出した。
「ヴィラーニのご当主、お命は助かったようです」
コルラードは目を見開いた。
ホッとしたのか、くやしく思ったのか。
複雑な心情だ。
「客人の応対はまだしてないようですが、執務の指示くらいはできてるようです」
「それで」とウベルトが続ける。
「坊っちゃん、ほんとうにご当主を刺しましたか?」
コルラードはしばらくウベルトの顔を凝視した。
なにを言っているのか。
「刺した」
「たしかですよね」
「そんなもの、どう間違えるんだ」
コルラードは答えた。
「どうにも、ご当主を刺した人間を探索しているという話を聞かないんですよ。大ケガをしたという話は伝わっているんですけどね」
コルラードは軽く眉をよせた。
「探索を秘密裏にする理由もないでしょうし。むしろ一族あげて情報を募りそうなものですが」
コルラードはしばらく呆けてから、ハッとしてウベルトを見た。
「おまえ……」
「坊っちゃんの情報なんか売りませんよ」
ウベルトがひらひらと手を振る。
「経緯を調べられたら、そそのかしたととられかねない」
「そうか……」
コルラードはホッと力を抜いた。
「……すまん。できるかぎり早くに出て行く」
「行き先あるんですか」
ウベルトが組んだ膝の上で頬杖をつく。
「心あたりはないが……ここにいたら迷惑がかかる」
コルラードは言った。
「おまえひとりならまだともかく、妻子がいるのでは」
「ただの推測なんですが」
ウベルトがそう前置きをする。
「ヴィラーニのご当主は、罪に問うつもりはないんじゃないですかね」
「そんなわけが」
「そもそもご自分のウソから起こったことですし」
ウベルトが言う。
「男の子と関係を持つためにウソの話をでっち上げて、あげくそのウソがバレて刺されましたなんて、いい醜聞ですしね」
ウベルトは脚を組んだ。
「坊っちゃん」
きっぱりとした口調でウベルトが言う。
「たしかにここにいつまでも居つづけてもらうのも、少々あれなんですが」
「分かっている」
コルラードはそう答えた。
「行き先は責任もってさがさせてもらいますよ。貴族の坊っちゃんが行っても、おかしくないようなところを」
コルラードは目を見開いた。
なぜそこまでしてくれるのか。
同時に、屋敷を離れればなにもできない自分のふがいなさを情けなくも思う。
「……すまん」
コルラードは言った。




