IL MOTIVO PER CUI VIENI きみが来てくれる理由
ヴィラーニ家の執務室。
朝からおだやかに晴れている。さわやかな陽光が窓から射していた。
「やはり、内陸の所有地のことはもう少し知っておいたほうがいいかな」
ダンテは数枚の書類を見くらべていた。
執事が上体を折り、おなじ書類を覗きこむ。
「そうですね。知っておくにこしたことは」
「あの農地の土はどうしても苦手なのだが……」
ダンテは顔をしかめた。
「耕して作物が生育しやすくするのですから、ふみ固めた土では成りたたないでしょう」
執事が言う。
それくらいの理屈は分かる。
なぜあの土の上をまともに歩ける者が存在するのだ。それが不思議でならない。
ドアがノックされる。女中の声がした。
「お客さまが」
「どなただ」
書類を見ながら応じる。
「ゾルジという軍人の方ですが」
「え……」
ダンテは弾かれたように顔を上げた。
「と、通せ」
あわてて立ち上がり、見くらべていた書類を机上で雑にそろえる。
「すまんがこちらは中断だ」
「だいじなお客さまで」
執事が問う。
「とても大事だ」
「では応接室にご案内を」
執事が姿勢のよい歩き姿でドアに向かう。
「私室でもいい」
執事が怪訝な表情でこちらを見た。
「いや……応接室で」
ダンテは眉をよせて取りつくろった
もはや自分でも何を言っているのか。
コルラードと、すでにすっかり親しくなったという妄想が現実とない交ぜになってしまった。
「いちばんいい紅茶を出してやってくれ」
そう指示して、そわそわと襟元を直す。
「いや……コーヒーなんかが好きだったりするかな」
執事の顔を見る。
「どちらだと思う」
「存じ上げません」
「そうだな」
そうダンテは返答した。
やや急ぎ足で階下に移動する。応接室のドアを開けると、コルラードは立ったままでこちらをふり向いた。
小振りの丸いテーブルと、数脚の肘かけ椅子がしつらえられた部屋。
「座ってくれ」
ダンテは椅子を指した。
花の飾られたテーブルの上には、女中が淹れたばかりと思われる紅茶が置かれ、芳ばしい香りを立てている。
「座って待っていてくれてよかったのに」
ダンテは落ちつきないしぐさでテーブルについた。
部屋にいた女中に、おなじ紅茶を淹れてくれるよう言いつける。
「用をすませたら、すぐに御暇します」
コルラードがそう告げる。
ここでも兵営とおなじ対応なのかとダンテは苦笑した。
「負債の肩代わりを申しでてくださったとか」
コルラードが硬い口調で切り出す。
「ああ」
ダンテは目を細めた。
コルラードのほうから訪ねてくれるのは、はじめてではないだろうか。
自身に興味を持ってくれたのかもしれないと錯覚を起こした。
「ゾルジ家の者として、お礼を」
コルラードが折り目正しいしぐさで一礼する。
「礼なんかいい。座らないか」
「肩代わりしていただいた分は、何年かかってもお返しいたしますので」
「では」と続けてコルラードがきびすを返す。
「いや」
ダンテは席を立つと、早足でコルラードを追った。
腕をつかむ。
コルラードが、つかんだ手を不機嫌そうに見た。
「ああ……」
またおかしなことをしようとしたと思われたのか。
ダンテはあわてて手を放した。
「座らないか」
ふたたび椅子を勧める。
「というか、返さなくていい」
「そんなわけにはいかないでしょう。そちらには何のメリットもない」
「きみはメリットとデメリットでばかり考えるな」
ダンテは苦笑した。
「では」
コルラードがかまわずにドアのほうに向かう。ドアノブに手をかけた。
「きみとの時間を買ったという名目では!」
ダンテは手のつけられていない紅茶を指してそう引き止めた。
コルラードが怪訝そうに眉をよせる。
「その……お茶を飲んで雑談をする相手がほしいので」
「ただの話し相手に大金を出すんですか」
コルラードがあきれたように言う。
「それくらい暇な身なんだ」
ダンテは苦笑した。
コルラードがため息をついて廊下のほうを見る。
「手のあいていそうな女中でも捕まえては」
「話が合わない」
「では執事殿は」
「いつも話しているから、たまには違う者がいい」
「子供ですか」
コルラードがぼやく。
「では馬丁」
「それはいやみか」
「ちょうどよいではないですか。馬のあつかいを教示してもらったらいい」
コルラードがふたたびドアノブに手をかける。
ダンテはあわてて引き止めた。
「きみが教えてくれないか」
「人に教えるほどうまくはありません」
コルラードがそう返す。
「きみが教えてくれたら上達しそうなんだが」
「母といる気分になれるからですか」
コルラードがイヤそうに言う。
ダンテは困惑した。
リュドミラの思い出へのこだわりが、さいきんはうすれていたような気がする。
あこがれが消えたわけではないが、あこがれ以外には何もなかったことに心のどこかで気づいた。
「リュドミラは……馬には乗らなかったんじゃないか?」
ダンテは小柄なうしろ姿を見おろした。
「……いや。うちに来ていたとき以外のことは知らないが」
いまさらながらリュドミラのことを何も知らなかったのだとダンテは思った。
あのころは、それで満足できていたのだ。
「座ってくれ」
ダンテはそう告げて自身もテーブルに着いた。
「すぐに兵営にもどらなくてはならないのですが」
「少しのあいだでいい」
コルラードはしばらくドアを見つめていたが、こちらを向いてしぶしぶテーブルに着いた。
「兵営では、どうすごしている」
「べつにふつうです」
コルラードが紅茶に手もつけずに答える。
「友人は」
「います」
「では恋人は」
なぜかこれを聞いたとき、心臓がゆるい針で刺されたような不快な感覚になった。
「男だらけの兵営のどこで作るんですか」
おもしろくもなさそうにコルラードが答える。
ダンテはわずかに笑みを浮かべた。ホッとする。
「許嫁なんかは」
「没落寸前の家に娘をよこしたがる人なんていません」
コルラードが答える。
ずいぶんとつれない会話だったが、これだけでもダンテは頭がふわふわとして幸せな気分になってしまった。
コルラードが、はじめてプライベートの話をしてくれた。
無防備な部分に、こころよく受け入れてもらったような気分になる。
実家を援助してさえいれば、この子はこうしてみずから来てくれるのだろうか。
いまは社交辞令的な言葉しかなくても、そのうち心から気をゆるした会話をしてくれるようになるだろうか。
なんども会えば、そのうち笑いかけてくれるようになるだろうか。
ふわふわとした頭で、そんなことを考えてしまった。




