PERSONA BELLISSIMA 美しい人
十五のころ、父に美しい愛人がいた。
名前はリュドミラ。
外国の貴族の出ということだったが、ほんとうは高級娼婦だとも聞いていた。
きれいな銀髪をいつもゆったりと結い上げ、ゆるやかにドレスの胸もとに這わせていた。
白い肌に、妖艶な薔薇色の唇。
うす青の透け石のような潤んだ瞳。
自分は、男としてどう見られているのだろうと考えていた。
少しは魅力的に見られているのだろうか。
十五の少年なりに期待した。
彼女が父の私室から出てくるのを待ち受けて、さりげなく付近の廊下を歩いてみたりした。
チラチラと様子を伺ったが、こちらを向いてくれたことはなかった。
なんどか父といるのを見たことがある。
父のまえでは、優雅にほほえんでいた。
なぜそちらにばかり笑いかけるのかと胸焼けのような感覚を覚えたこともある。
アピールが足りないのだろうかなどと考えた。
ある日、いつものようにリュドミラが父の私室から出てくるのを待ち受けていた。
部屋から出てきたリュドミラは、廊下に髪飾りのリボンを落とした。
文学小説のようなシチュエーションに、胸が高鳴った。
男らしく格好よく話しかけようと、ドキドキしながら襟元を直した。
ガラスに映る自身の姿をチラリと見る。
黒い髪は、きちんと整えてあった。藍墨色の目で睨むように見れば、なかなか男らしいのではと思う。
「ご婦人」
声変わりを終えてまだ間もない声を、意識して低くした。
「落としましたよ」
一人の貴族の男として、格好よく話しかけたつもりだった。
だが、リュドミラはこちらを見もしなかった。
リボンをつけていたあたりの髪に軽くふれる。
美しい手だと思った。
透きとおるほどに白い。
格好の悪いふるまいはすまいと気を張りつつ、彼女の手に魅入った。
「ありがとう」
リュドミラはそう言葉を返した。
「まだ子供なのに、マナーがいいのね」
そうと続ける。
言われたことがすぐに理解できなかった。
子供ではなく男なのだが。そう頭のなかでぼんやりと反論した。
リュドミラはリボンを受けとると、何事もなかったように廊下を歩いて行った。
男として見られていなかった。
そういうことなのだと認識したのは、彼女の姿が廊下の向こう側に消えてからだった。
ショックと気恥ずかしさで立ち尽くした。
屋敷の海側の窓から聞こえる船の積み荷をおろす声が、やけに大きく聞こえた。
ダンテ・ヴィラーニは、海側の窓から運河を見下ろした。
屋敷のすぐ目のまえを流れる運河は、三世紀ほどまえには貿易の荷を積んだ船がひっきりなしに出入りしていたと聞く。
海洋貿易で栄えたこの都市国家は、貴族も商売に精を出して船から荷物を出し入れできるよう運河沿いに屋敷を建てていた。
運河側と陸側、二つの出入口があるのがこのあたりの屋敷の一般的な構造だ。
商品倉庫として使われる一階は、むかしは荷物でいっぱいだったと聞く。
だが、いまではこの国はゆるやかに衰退していた。
商人貴族はつぎつぎと商売をたたんで内陸に移り、先祖代々ためた財産を管理して暮らすほうを選ぶ時代になった。
ダンテ自身も、これからこの屋敷を開け内陸の別邸に移る。
父の私室のすぐ近くにある窓。
ここでの気恥ずかしい出来事を思い出していた。
十五の少年が父の美しい愛人にあこがれ、一人前に男と認められているものとうぬぼれて玉砕した。
あれから十年だ。
いまにして思えば、たしかに十五歳などまだ子供だ。男性のうちに入らんだろう。
あのあと間もないころから、あの美しい愛人は見かけなくなった。
その後どんな境遇になったのだろうと気にはなったが、父に聞けるわけもない。
その父も、三年前に亡くなった。
家を継いだが商売をたたみ、先祖がたくわえた財産を管理するだけの当主になった。
潮の匂いを感じる。
海を埋め立てたにしては潮の匂いのうすい街なのだが。
残りの人生は、潮の香りのない土地ですごすことになる。
父の私室だった部屋をふり返った。
あのとき彼女が歩いて行った廊下とはべつの廊下へと進む。
ゆっくりと階段を降りて玄関ホールへと向かった。