9 芸術鑑賞からの
バチンッ!
しーん……
「座ってもよろしいかしら?」
「これは、これは紳士失格でしたな~。申し訳ない、エミリア皇女殿下」
扇を左手に小刻みに打ち付けている次姉の後ろに、学園長が回り込み椅子を引いて着席を促す。遅れて自分もゾフィーの椅子を引いた。
講堂にはざわつきが戻ったが、まだ貴賓席に目を向けている生徒もいる。手を振っていたサラはポカンとした様子でこちらを見上げたままだ。
サラが私に手を振っているのだと気付いた瞬間、どうしたものかと思ったが、下手な事をしなくて良かったと心底思っう。この次姉に見とがめられたら、どの様な叱責があるか想像しただけで恐ろしい。
気まずい空気の中、幕が開いた。
ここニュアンセ帝国で知らない者はいない。建国の逸話。
インディグム、ニグレード、グリューン、ロート、フラーウス
同一民族ではあるが、大昔からこの地域は青、黒、緑、赤、黄の、色で表される五国に分かれていた。
約三百年ほど前、北隣の大国が南への領土拡大を推し進めてくる。北と国境を接するインディグムが交戦し、他の四国もインディグムに加勢した。四国に共闘を決起させたのが白の聖女と言われている。北の大国を退けたインディグムの領主は白の聖女と婚姻を結び、帝国の初代皇帝となった。共闘した四国は青の皇帝と白の聖女に敬意を示し、臣下へと下り四大公爵家となる。
教会は建国の一助である白の聖女を祀っている。劇も教会の教えも建国と白の聖女を称えて締めくくられる。
しかし建国からの三百年が平坦だったわけではない。百年程前、領地も勢力も一番小さかった黄色のフラーウスが離反したのだ。離反の更に百年前に希少な鉱油が採掘されるようになり、鉱油の加工と輸出により得た富を基に公国として独立した。フラーウスの独立を機に、他の三公爵家や隣国との均衡に微妙な亀裂が入った。
隣で劇を鑑賞しているゾフィーを盗み見る。金茶の目、フラーウスの最たる特徴。黒髪なのはニグレードの血によるものだ。
動植物油の数倍の明るさの火を灯し、船や水車に動力を与え、固めれば樹脂やゴムの代替ともなる万能の鉱油。どの国も喉から手が出るほど欲しがっている。帝国としても、もう一度領土として組み込みたい。周りの国同士がけん制しあうなか、動いたのはニグレードだった。
公女との政略的婚姻。
ゾフィーは早逝した母君に替わって、後裔三代にわたる鉱油の採油権の一部と、公位継承権をその身に持った。
各国の思惑が多大な権益を有するゾフィーに集中するなか、幼かった私たちは引き合わされた。
どのくらい前から決定付けられていたのだろう。私とゾフィーの婚約は運命であり必然である。決して偶然ではない。ゾフィーの誕生、公爵と公女の結婚、いやもっともっと以前。当事者にも関わらず私が知る術はない。
★★★★★
「わたくし、あなたたちの事が心配ですの」
観劇の後、お茶をしたいという次姉の言葉で高等科の応接間に居る。次姉に否を言えるのは母しかいない。
サラの事があったせいか次姉やゾフィーとならんで観ているせいか、鑑賞に集中することができないまま劇の幕は閉じた。
あ~、早く解放されたい。率直な今の気持ちだ。
「ルキウス!聞いていますの?」
「はッ、はい。もちろんです」
次姉の散漫な話に意識が飛んでしまっていた。
「あなたたちの婚約は幼いうちに決まってしまって、同情の余地はありますわ。だからと言いて、このままで良いとは言えません」
次姉はお茶を優雅に口に含むと、また続ける。
「決まるのは遅かったとはいえ、わたくしも政略でしてよ。しかも相手は一回りも上で再婚ですわ。今日までに会ったのも一回きりよ」
この秋、次姉は北の大国の侯爵家へ嫁ぐ。
数年前にあった国境付近で起こった小競り合いの停戦協定に来た侯爵が次姉を見初めた、ということになっているが、両国の政治的意図しかない政略結婚だ。
この調停をきっかけに両国とも優位に立ちたいと思っている。北の大国にとって花嫁は人質、我が国にとっては北の情勢を窺う諜報の機会となる。
「それでもわたくしは良い関係が築けるよう努力しようと思っていますわ」
建国以降は表面的に良好な関係にあるが、今後も小規模の紛争はあるだろう。夫婦の関係次第で国の平和も自分の安全も変わってしまうことを次姉は分かって言っているのだ。
次姉の覚悟に比べれば、私たちの覚悟など無いに等しいのかもしれない。
「だから、あなたたちも幼いころのアレやコレは水に流して、仲良くしてほしいのよ」
婚約を取り交すために初めて対面した時、私は十歳、ゾフィーは八歳だった。ゾフィーが挨拶の顔をあげると同時に倒れたため、婚約の宣誓は延期となった。
それからゾフィーは三か月ほども床に就いていたという。
その間にゾフィーの父であるニグレード公爵が婚約は無かったことにすると言い出した。日頃冷徹で、妻であるフラーウス公女と不仲、家庭を顧みないと噂のあった公爵が婚約を反故にするとは驚いたのを今でも覚えている。
逆に穏やかと評されることが多い父帝が、公爵を呼びつけて詰責した。見たことのない父の威圧的な態度に、この婚約がずっと昔から決められた必然だったのだと子供ながらに悟ったのだ。
訳も分からず婚約させられて初めはゾフィーを嫌悪したが、大人たちの事情に触れ彼女も犠牲者なのだと、だから倒れたのだと思った。私と同じく政治の駒にさせられた者として歩み寄ろうとも思った。
差し向かいに座るゾフィーに目を向ける。隣で捲し立てる次姉の話を、俯きがちに相槌を打つように首だけ揺らして聞いている。
床上げして再び皇宮を訪れた時のゾフィーの顔を思い出す。
容姿は変わらないはずなのに、三か月前の傲慢さや快活さは鳴りを潜めていた。具体的に何がと言うことではなく、漠然とそう感じたのだ。
なぜゾフィーが変わったのかは分からず仕舞だが、歩み寄ろうと思った自分が浅はかだったと気付くのには、そう時間はかからなかった。