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ゆめのなか

作者: じらお

 コントレイルの道を駆けるのは、二頭の天馬だった。彼らはしなやかで強い脚と美しい翼を持ち、地を駆け、天を翔ける。


 猫の獣人であるリーナは、天馬に生まれたかった。叶うことなら、天馬に生まれ変わりたいのだと思っていた。




 リーナは村一番の金持ちの家で下働きをしていた。男爵なのだという旦那様は優しく、奥様はお菓子を分け与えてくれるし、娘のお嬢様は美しいがそれを笠にも着ず、どんな人でも分け隔てなく接する優しい幼馴染だった。


 下働きの仕事は単純だ。食事作りの手伝い、洗濯、掃除。ただそれだけのことだった。屋敷は広いがその分雇われている人はたくさんいるし、何よりリーナは大の本好きで、図書室の掃除の時間が楽しみで仕方がなかった。

 図書室の掃除には、魔法が扱えるものが割り当てられる。獣人であるリーナは水魔法と浄化魔法が得意で、一人で広い図書室を掃除できるほどの強い魔法力を有していた。


 今日もリーナは、お昼過ぎ、本棚から根こそぎ本を取り出し、片っ端から浄化魔法をかけていた。


「ふう……こんなものかしら」


 魔力を消費したことによって出た汗を拭って、今度は本の日焼けを確認するために紙をめくった。

 リーナはこのときに、本を読んでいた。もちろん本の持ち主である旦那様には許可をとっていて、一日一冊だけなら読んでもいいことになっていた。今手に持っている本は、一昨日に読んだ本だった。面白かったなあと頬を緩め、表紙を開いて活字を追おうとするが、首を振って自分を抑える。


「せっかく読んでいいんだから、新しいのを読まないと」


 下働きのリーナに、本を読む機会などほとんどない。本を置いているところなんて、大きな商家か裕福な貴族の家くらいだ。王都に行けば図書館という、平民も無料で本を読めるところがあるらしいが、なにせリーナにはお金がなく、そもそも王都にたどり着くことができないだろう。


「もっと本が読みたい――」


 仕事中に本を読むことが許されている時点で、贅沢を言っているのはわかっていた。けれどリーナは、自分に大きな世界を見せてくれる本が好きだった。

 獣人として生まれたリーナは、幼い頃に親に売られるような形で奉公に出された。獣人は力も魔法力も強く勤勉で、働き口に困ることはなかった。


 リーナは恵まれている。同い年くらいのお嬢様に気に入られたことでとてもいい待遇を受けているし、それについて僻む人間もいない良い環境で働いている。


 リーナが本を読みたいと思うようになったのは、下働きを始めて、少しの自由と広い世界を知ったからだった。本を読めば、自分の世界は無限に広がる。文字を覚えるのは大変で、未だに読めない文字もあるが、本を読むためだと思えば寝る時間を減らして勉学に励むことは容易だった。



 けれど、どうしても考えてしまうことがあった。



 本音を言うのならば、この目で。この自分の目で、世界を見てみたかった。


 無限に広がる塩の湖、様々な動物たちが暮らす森、鳥たちが自由に飛ぶ空。


 ――ああ、羨ましい。


 どこまでも駆けていく脚と、あの翼があれば。


「……本なんてなくたって、楽しいんだろうな」


 だからリーナは、天馬になりたかった。




 今日の一冊を読み終わって、リーナは満足そうな顔で息を吐いた。

 強い魔法使いが魔王に立ち向かい、世界を救うという物語だった。英雄と讃えられる自分を想像してみて、少し恥ずかしくなる。決して目立つのが好きなわけではないから、きっと照れてしまって何も言えなくなるだろうと思ったからだ。


「……あれ?」


 読み終わった本をしまって、ふと気づく。動物の皮で作られた背表紙は、初めて見るものだった。


「こんな本あったかしら」


 手にとって、表紙を読む。タイトルは『天を翔ける』。めくってみると、どうやら天馬を描いた物語らしかった。


「……面白そう。でも、この本はどこから……旦那様に聞いてみようかしら」


 記憶力に自信があったリーナは、すぐにこの本がどこからか紛れてきたものだということに気がついた。


 本を携えて、旦那様の執務室に向かう。仰々しい扉をノックすると、一拍置いて「どうぞ」という声が聞こえた。


「失礼します」


「おや、リーナ? どうしたんだい?」


「旦那様、図書室にこんな本が……」


 旦那様に例の本を手渡す。


「ふむ……? これは?」


「あの、あたし、三日に一回は絶対に本を全部出して掃除するんです。なのに、この本だけ見たことがなくて」


「……確かに見たことがないな。タイトルは『農業について』……か。シンプルなタイトルの本だね」


「え?」


 リーナは耳を疑った。今、旦那様が口に出したタイトルは、リーナが認識しているものとは全くの別物だった。


「どうした?」


「あ……いえ……」


「そうかい?……うん、私もこの本は見たことがないね。中身もなんの変哲もなさそうだし……よかったら、君が貰うといい」


「え! あの、本当ですかっ?」


 思わず声が跳ねるリーナに微笑んだ旦那様が立ち上がった。リーナの頭を撫で、本を手渡す。


「ほら。もうこれは、君の本だ。農業に興味があるかはわからないが……」


「あ……ありがとうございます!」


 本についての謎は深まったばかりだが、それよりも「自分のもの」が与えられたことが嬉しくて、リーナは勢いよく頭を下げた。


 旦那様の執務室を出て、リーナは自室に駆け込んだ。

 この部屋は二人部屋で、先に仕事が終わっていた同僚で同室のシシーは、驚いたようにリーナの顔を見た。


「どうしたのリーナ? そんなに急いで……」


「あのね、旦那様に本を頂いたの!」


「ほ、本?」


「これ! これ、タイトルを読んでみてくれる!?」


 シシーはあまりの勢いにのけぞって、慌ててタイトルを読み上げた。


「き、『貴族令嬢の作法のすすめ』って書いてあるわ。……あなた、そんなに貴族の作法について興味があったの?」


「ないわ!」


「な、ないのね……」


 興奮した顔のまま言い切ったリーナに、シシーは苦笑いをした。

 一方のリーナは、この本について、少しだけわかった気がした。


 シシーは常日頃から、貴族の娘に生まれたかったとこぼしていた。『農業について』というタイトルだと言っていた旦那様は野菜を育てるのが好きだし、『天を翔ける』というタイトルに読めたリーナは天馬に憧れていた。


 つまり、この本は、その人の「なりたいもの」を反映させた、魔法の本なのではないか。


 シシーは貴族令嬢、旦那様は農家、リーナは天馬。シシーに全部話してしまいそうになるのをこらえて、リーナは本を胸にいだいた。


「自分の本なんて初めて! だから、どんな本でも嬉しいのよ」


「……そう、良かったわね」


 シシーは本当に嬉しそうにしているリーナの頭を撫でて、少し呆れたように微笑んだ。






 コントレイルの道を、一頭の天馬が駆ける。美しい月毛の天馬だった。

 黄金にも見紛うほどの煌めきで、その天馬はどこまでも駆けていく。


 コントレイルの道を抜け、山を越え、谷を越え、海も越えてどこまでも翔けていく。


 その天馬は楽しげに嘶いて、まるで自分は自由なのだと宣言するように大きく翼をはためかせ……ふと、思い出した。



 ――その天馬は、リーナだった。



 そう自覚するやいなや、目に入った草原に降り立って、透き通った水が張る湖に顔を寄せる。


(うそ……あたし、天馬になってる……!)


 きっとこれは夢なのだろう。いつかこの夢は覚めてしまうし、ともすれば起きたときにがっかりしてしまうかもしれない。


(……ううん。今はそんなこと、考えなくてもいいじゃない。この天馬の姿を楽しまないと)


 こんなに珍しくて夢のような夢を見る機会など幾度あるか。一秒でも無駄にしたくないという気持ちが湧き出て、リーナはその四本の脚で駆け出した。翼を広げて、ぐんぐん上昇していく。


 リーナがどこまでも青い空にたどり着くと、後ろから大きく長い嘶きが聞こえた。反射的に嘶きを返して、速度を落として声の主を待つ。


 追いついて横に並んだ天馬は、ギラギラ輝く黒鹿毛を持っていた。


(競走ね!)


 言葉ではなかった。だが、その嘶きだけで意味が理解できた。不敵に笑んだように見えた黒鹿毛の天馬は、大きく嘶いてグン、と空を蹴った。リーナもそれに続く。

 リーナの心は「楽しい」という感情で埋め尽くされていた。


 黒鹿毛の天馬は疾かった。体の大きさはリーナよりもある。当然、持っている翼もリーナより大きかった。


「ヒヒーンッ!」


 そんなものかと挑発するように嘶く黒鹿毛の天馬の背中を、リーナは必死に追いかける。


(あなた、先にスタートしたじゃないの!)


 並んで文句の一つでも言ってやろうと速度を上げる。息を切らしながら、リーナはやっとのことで黒鹿毛の天馬に追いついた。それに満足気に顎を引いた黒鹿毛の天馬は、懸命に首を振り始めた。リーナも首を振る。ラストスパートだ。ゴールは、目の前の大きな雲だ。


 ゴールの瞬間、黒鹿毛の天馬が優しく笑った気がした。


 結果は、リーナが頭一つ抜け出しての勝利だった。


(勝った!)


 息を整えながら、後ろで少し悔しそうにしている黒鹿毛の天馬を見つめた。すると黒鹿毛の天馬は鼻をブルブル鳴らしてリーナから離れ、地上に下っていく。着いてこいと言っているようだった。


 空を見ると、日が落ち始めていた。寝床に案内してくれるのだろうと考え、黒鹿毛の天馬に着いていく。


 目の前で闊歩する黒鹿毛の天馬が、大きな入口の洞窟に入っていく。察するに、黒鹿毛の天馬の住処だった。


「ブルルっ」


 洞窟の中に入ると、地面に藁が敷かれていた。眠るように促され、リーナは素直に腰を下ろし、体を横たえさせた。

 黒鹿毛の天馬も横に寝転がったかと思うと、しばらくして寝息が聞こえてきた。外を見ると、ポツポツと雨が降り出していた。


(……眠ったら、夢が覚めてしまうのかしら)


 それは残念だ、と気分が落ち込む。まだ天馬の姿で自由に色々なところに行きたかった。


(起きたくないな)


 心のなかでそう呟くと、寝ていたはずの天馬がいつの間にか目を開けていた。


(目覚めなければいけないよ)


 驚いて、深い色を灯す瞳を見つめる。


(あなた喋れたのね。でも――……)


(大丈夫だ、また会える。きっとね)


(本当? また、一緒に走ってくれる?)


(本当だとも。だけど、夢に囚われてはいけないよ)


(夢に?)


(ああ。見なさい)


 天馬がむくりと体を起こす。つられて起き上がると、その洞窟はさっきのものとは違う、ただの無機質な空間になっていた。


(夢はね、理想を映すんだ)


(理想を……あの本が関係しているの?)


(そのとおりだ。なんでもいい、行きたいところを願ってみなさい)


 行きたいところ、と言われて、すぐに王都の図書館が思い浮かぶ。


 すると景色が変わっていき、気づけば洞窟でも、無機質な空間でもない場所に立っていた。


 ふと自分の手を見て、ハッと驚く。


「天馬じゃなくなってるわ!」


(それが君の本当の姿なんだね)


 黒鹿毛の天馬の言葉にうなずく。周りを見渡すと、一生をかけても読みきれないような本がびっしりと並んでいた。


「来たことないのに……」


(君は今、本を介して夢を見ているんだ。だから、行ったことがなくても、こうなってしまうのさ)


「すごい! じゃあ、どこにでも行けるの?」


(そうだ。だから人は、この夢のような本に囚われてしまう)


 暗い声色の天馬に、リーナは表情を曇らせた。


「……あなたは、囚われてしまったのね」


 何も言わずに、天馬はこくりとうなずいた。


(今では、何もかもを思い出せなくなってしまったよ)


「きっと、世界を見てみたかったのよ。あたしもそうだから」


(そうか、そうだといいな……)


 天馬は笑っていた。それはどこか、諦めているようにも見えた。


(夢の中では、なんでも叶う。けれどね、なんでも叶うわけじゃないんだ)


「どういうこと?」


(私はもう、戻りたいと願っても戻れない)


 真剣な声色の天馬と、目を合わせる。


(今ならまだ間に合う。人というのは、失くしてから多くのものの大切さに気づくんだ。私は、その大切なものさえ忘れてしまったが……)


 黒鹿毛の天馬は物憂げにうつむいた。しばらくなにか考えている様子だったが、黒鹿毛の天馬は突然、リーナに問いかけた。


(君にはなにか、大切なものはあるかい?)


 リーナは、間髪入れずにうなずいた。


 優しい旦那様や奥様、お嬢様、同僚のシシー。他にもたくさん、大切な人がいた。


(じゃあ、大丈夫。夢なんか見なくても、君は大丈夫だよ)


 天馬は優しげに微笑む。リーナは顔を上げて笑った。


「……あたし、夢ができたわ」


(また天馬になりたい?)


「ううん……あのね、あたしやっぱり、自分のこの目で、世界を見てみたい。今はただの下働きだけど……必死でお金をためて、飛行機に乗って、世界中を旅するの」


(うん……いい夢だ。きっと叶うよ)


 低くて心にしみるような声に、リーナは思わず泣きそうになった。


「ありがとう……ありがとう」


(そうか。私が役にたてたのなら、よかった)


 リーナの意識が、深いところに落ちていく。


(忘れてはいけないよ)


(大切なものは、そこにあるのだから)


「あなたの名前は――」


(――)


 優しげな表情の男が、最後に微笑んだ気がした。






 バシャン、という音とともに、床が水浸しになった。だというのに、シシーは呆然とした顔のまま立っていた。


 何をしているの、と言おうとしたところで、喉がひどく乾いていることに気づいた。


「……リーナ……?」


「し、しー……?」


 喉が引きつって、うまく話せない。痛みを堪えながら、リーナは懸命にシシーの名を呼んだ。


「だ……旦那様! リーナ、リーナが、目を覚ましました!!」


 シシーのその言葉に、本当に危ないところだったのだと自覚した。






 リーナの仕事復帰は大変だった。

 お嬢様が心配性を発揮させて、雇っている側だというのにリーナの仕事を手伝おうとするからだった。


「お嬢様、あたしなら大丈夫ですから……」


「だめよ。またあんなに眠られては敵わないわ」


 ふくれっ面のお嬢様に苦笑いをする。


「お嬢様、リーナの仕事を取らないでやってくださいな」


 助け舟を出したシシーの言葉に、お嬢様は不満そうに「でも」と言い募る。


「お嬢様、あたしは大丈夫ですよ」


「前はきっと、疲れてああなったんでしょう? なら、今度は倒れないように仕事を減らさないと」


「十分減らしてもらいましたよ、暇になっちゃうくらい。あたしは獣人だから体は丈夫ですもの。今は図書室の掃除くらいしかやっていないから体力が有り余っちゃって」


「本の整理って大変じゃない。手伝うわ。私も久しぶりに図書室の本が読みたいし」


 また仕事に着いてこようとするお嬢様に、リーナは諦めたようにため息を吐いた。お嬢様は、なおも素知らぬ顔で図書室に向かって歩いていた。


「もう……ありがとうございます、お嬢様」


「それでいいのよ!」


 諦めて言うと、お嬢様はツンと澄ました顔で偉そうに言った。その様子に思わず吹き出すと、つられてシシーも吹き出して、終いにはお嬢様まで笑い始めた。



 ――ヒヒーンッ!



 リーナたちは、響いた天馬の嘶きに空を見上げた。




 ――コントレイルの道を、二頭の天馬が駆けている。


 キラキラの月毛の天馬と、ギラギラの黒鹿毛の天馬が、じゃれあいながら競走していた。

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