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3話 黒い獣

 見るからに普通の生物とは異なるその黒い獣に、ヴァンの思考は一瞬途切れた。呼吸をするのも忘れ、大きく目を見開き視界にその全身を収める。

 比較的小柄なリーゼと比べても頭一つと半分は背の高いヴァンだが、それでも目の前の獣は見上げるほどに大きかった。これで草食であれば多少なりとも安心できるところだが、目付きや鼻ずら、ぴんと立った耳など見ても狼のそれと似通っており、あまり期待ができそうにない。獣は低い唸り声を上げながら、二人のことを見下ろしている。


 ヴァンは目の前の獣から目を離さないまま、一歩、二歩と後退る。目の前の獣がどういうつもりかはわからないが、野生の獣とは往々にして警戒心の強いものだ。これ以上の刺激さえ与えなければ、この場を去る可能性は十分にある。


「ヴァ、ヴァン……」


 後ろから、怯えるようにリーゼが服の袖を引いてくる。無理もない、とヴァンは考える。ヴァンですら目の前の獣から受ける威圧感は相当なものだ。より身長差のあるリーゼは尚更であろう。


「静かに。ゆっくり距離を取るぞ」


「ん、うん……」


 後ろ手で後方を確認しながら、二人して獣から一歩、また一歩とゆっくりとだが遠ざかる。極力音を立てず、呼吸すらも最低限に退き続け、彼我の距離が二十歩程に離れたころだろうか。


「ガアアアァァァァァ!」


 突如として雄叫びを上げた獣が、二人の方へと走り出した。二人を獲物と見定めたのだろう。見た目ではそこまで俊敏な動作とは言えないが、大きさが大きさだけに一度の歩幅もなかなかのもので、みるみるうちに距離が縮まっていく。


「リーゼ、お前は逃げろ!」


 対してヴァンは、退くのではなく敢えて前に出ることを選択した。ヴァン一人であれば、走って逃げるという道もあっただろう。しかし、傍らにはリーゼがいる。先程の疲労具合を見るに、例え走って逃げたとしても瞬く間に追いつかれてしまうのは明白だ。

 そして、リーゼを置いて一人で逃げるという選択も、ヴァンは端から取る気がなかった。過去の記憶が無い今、確かにリーゼとは知り合ったばかりである。自身の命を賭けてまで助けるほどの義理はないのかもしれない。


 しかし、リーゼは小さく弱い女性だ。ヴァンの中の常識では、女性は守られるべき存在であるし、本人に頼まれたわけではないものの、リーゼはヴァンにとってすでに守るべき対象であった。

 大声を上げ己を鼓舞しながらも、ヴァンは冷静に現状を分析する。何も、目の前の獣を倒す必要はないのだ。少しでも時間を稼ぐことで、獣が考えを変えて退いてくれればそれでよい。そのために向かうのは向かって右側、獣の左腕側だ。半ばから断ち切られたそちら側であれば、比較的安全に立ち回れるだろうという判断からだ。


 ヴァンは獣の左腕側に回り込みつつ、自身の右拳を握りこむ。とにかく回避に徹するべきかとも思ったが、獣の標的をリーゼに変えられても困るのだ。注意を自身に向けさせるためにも、少しは脅威だと認識してもらう必要がある。そのためにも――


「あああああぁぁぁぁぁっ!」


 ――駆ける速度を緩めないままに、最高のタイミングで右拳を前へと突き出す。一瞬、拳を痛める可能性が頭をよぎったが、今はその考えを振りほどく。後のことよりも、今を乗り切るのが先決だ。

 腰を回し、体重を乗せた一撃は吸い込まれるように獣の左わき腹へと突き立てられた。鈍い音を立てて突き立てられたそれは、明確な破壊力を反動としてヴァンの右腕に伝えてくる。人間相手であれば、少なくとも骨の二、三本は折れてもおかしくはない一撃だ。その一撃がもたらした結果を確認すべく、ヴァンが獣を見上げれば――


――今の一撃を意にも返さず、大きく右腕を振り上げた獣の金の瞳と目が合った。


 咄嗟に後方へと足を運ぶが、それよりも獣がその右腕を振り下ろすほうが早かった。狙い澄ましたかのようにヴァンの頭部を狙ったそれに対し、出来た行動といえば左腕を上げて頭部を庇うことだけだった。


「がっ……!」


 全身に力を入れ耐えようと試みるも、なすすべもなく地へと叩き伏せられる。頭をしたたかに打ち付けたが、それよりも直撃を受けた左腕のほうが深刻だ。芯から響くような激痛に、折れていることを確信する。不思議なことに、全身の血が燃えるように滾っているのを感じる。


「く……そ……」


 辛うじて右腕で上体を起こして見上げれば、獣は追撃を加えるべく再度右腕を振り上げるところだった。次の一撃は耐えられないだろう。獣から距離を取りたいが、今の衝撃で体が上手く動かない。そのまま獣は振り上げたその右腕を振り下ろさんとし――


 ――飛来した石が頭部に当たり、獣はぴたりと動きを止めた。


「このっ、このぉっ! ヴァンからっ、端れろぉっ!」


 声の方向へ顔を向ければ、先程の場所から一歩も動かず、リーゼが獣へと投石を試みていた。二度、三度と放たれる石は、残念ながらそれほどの距離でもないにもかかわらず一投目以外は目標に命中していなかったが、獣の注意を引く役割としては十分だった。獣は振り上げていた右腕を下ろし、足元に倒れるヴァンからリーゼへと顔を向ける。


「ばっ……逃げ、ろ」


 興味の対象がヴァンからリーゼへと移ったようだ。獣はヴァンの足元から離れ、リーゼの方へと一歩踏み出す。


「あ……」


 それに怯んだのか、リーゼは一歩二歩と後退ったところで尻餅をつく。震える指先で投げた石は獣まで届かず、途中で点々と地面を転がっていった。

 痛みのせいだろうか、心臓の鼓動を強く感じる。全身を巡る血流が熱を持ったかのように熱い。そんな中で、ヴァンの思考は急速に冷えていった。このままでは、獣の右腕が今度はリーゼに振り下ろされるであろう。あの華奢な体では、ヴァンのようにはいくまい。一切の抵抗も許されず、その先に待つのは死だ。


 なんとかできるのは自分だけだと、ヴァンは痛む体に鞭を入れ、右腕を支えに体を持ち上げる。獣は先程とは異なり、ゆっくりとリーゼへと近づいている。今ならまだ間に合う。

 先程のように、ただ殴りかかるだけでは足りない。殴られた時の衝撃によってか、命の危機を体が感じているのか、自身のエネルギーとでもいうべきものが全身を巡る熱として感じられる。その熱を、右腕に集めるように集中する。細かい理屈はわからないが、この熱を獣にぶつけることで現状を打開できるとヴァンの本能が叫んでいる。


 立ち上がり、一歩獣へと歩を進める。相手はまだ振り返らない。

 もう一歩先へ進む。鼻先を動かした獣がこちらを振り返る。

 さらに一歩踏む出す。獣は完全にこちらへと体を向け直す。


 そこから先は駆け足だ。折れた左腕はその痛みを絶えず主張してくるが、今この時ばかりは見て見ぬ振りだ。全身から集めた熱を獣へと叩き付けるべく、右腕を引き絞る。

 対して獣も右腕で迎撃する構えだ。体格差があるということは当然、腕の長さにも差があるということになる。必然的に獣の一撃が先に振るわれることとなり、ヴァンはそれを紙一重のところで避け――


「ぐ、ぁ!」


 ――ることは叶わず、左わき腹を深々と抉られることとなった。傷口から鮮血が噴出し、飛沫となって宙を舞う。ぐらりと上体が倒れかかるのを、踏み出した右足に力を入れることで防いだ。

 相手の左腕は存在せず、右腕は突き出した体勢だ。すぐさまの追撃は考えられず、反撃には絶好の、そして最後の機会であろう。

 ヴァンはただ本能に従い、全身の熱を放出するように獣へとその右腕を振るった。

 それは、傍から見ればなんてこともない動作だっただろう。ただ、ヴァンが振るった拳が空を切るだけに見えた。


 しかし次の瞬間、黒い奔流が溢れた。


 起点はヴァンの右腕の付け根あたりだろうか、闇のように黒い光が水のように溢れ、一瞬のうちに腕全体を覆った。光はそれで留まることなく膨張し、獣を突き抜け、まるで質量をもっているかのようにその後ろの木を二本、三本となぎ倒す。

 それはまるで、巨大な黒い槍が獣を刺し貫いたかのような光景だった。

 その黒い槍はそれだけに留まらず、さらに数本の木を吹き飛ばす。最後に一際大きな木を半ばまで抉ったところで、黒い槍は跡形もなく焼失した。


 後に残されたのは先程黒い光に包まれ、今は何故か血塗れとなったヴァンの右腕と、胸から背にかけて大穴を穿たれた黒い獣だ。獣は全身を震わせながら一歩二歩と後退り、力を失ったように仰向けに倒れこんだ。

 地響きを立てて倒れる獣の姿を確認し、ヴァンも獣と同様に仰向けに倒れこむ。衝撃に思わず咳き込みつつ、怪我の程度を確認する。顔だけ持ち上げて下の方を確認すれば、抉られた左わき腹からは絶え間なく血が流れだしているのが見て取れた。


「ヴァン、大丈夫?!」


 躓きながらも駆けてきたリーゼが、傍らで膝立ちとなる。大きく開かれた目は未だ血の流れ続けるヴァンの左わき腹へと釘付けだ。


「大丈夫、とは、言い難い、な」


 呼吸も荒く、途切れ途切れに言葉を返す。先程まではあれほど全身が熱かったというのに、今は急速に熱が失われてしまったかのように冷えていた。


「あぁ、こんなに血が……どうしよう、どうしたら……」


 リーゼが傷口に手を当てるが、当然ながら傷を防ぐことはできない。刺激された傷口が余計に痛むだけだ。


「悪い……」


 それ以上を言葉にできず、ただ唇を震わせる。全身からも力が抜け、意識が少しずつ薄れていく。ただぼんやりと、あぁ、このまま死ぬんだろうな、という考えが思い浮かぶ。目覚めたら記憶が無く、当てもなく森を彷徨い歩き、奇妙な黒い獣と出会ってこのざまだ。悔いの有無以前にわけもわからないことだらけだったが、死ぬのは不思議と怖くはなかった。


「待って、待ってよ……お願い、一人にしないで……」


 呼びかけ、目に涙を浮かべながらも必死に血を止めようと傷口に手を当てるリーゼの姿が視界に映る。目元を拭ってやりたいとも思うが、腕に力が入らない。四肢の感覚は朧げになり、やがて声も聞こえなくなる。そのままゆっくりと目を閉じて――


 ――瞼の向こうで、何かが光った気がした。

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