1話 記憶喪失の二人
長い、長い夢を見ていたようだ。
急速に記憶から薄れつつあるそれは、おおよそ現実とは思えない光景だった。もはや顔も名前も思い出せず、辛うじて金髪だったことのみ覚えている女と向かい合い、何事かを話していた。
それらの記憶を尻目に、徐々に覚醒する頭を以て瞼を持ち上げれば、木漏れ日の光が目を射した。光に目を細めつつ、男は横になっていた上体をゆっくりと持ち上げる。
男の背丈は平均よりも高く、全体的に筋肉質でがっしりとしている。短く切りそろえられた髪は、染めたとしてもこうはならないだろうと思えるくらいにムラもなく真っ白だった。吊り上がった赤い目は、見る者にとっては威圧感を感じさせることだろう。
後ろ手で体を支えながら前を見れば、おおよそ人の手が入っていないように見える木々が乱立している様相が目に入る。左右、次いで後方まで見渡してみるが、前方と同様にぐるりと木々に囲まれているようだ。その場で目を閉じて体を回せば、先ほどまで向いていた方向を、視覚を頼りに当てるのは困難だろう。ただ、近くに川があるのだろうか、左手側から水の流れる音がすることから、元見ていた方向には大体の見当がつきそうである。最も、元の方向が分かるだけで方角まではわからないのだが。
「……どこだ、ここ」
思わずといったように、男は呟いた。周囲の景色に見覚えはなく、これといって特徴的な人工物なども見受けられない。というか、木しかない。どこかしらの森なり山なりの中なのだろうか、くらいにしか見当は付けられなかった。
そもそも自分はこんなところでいったい何をしているのかと、直前の記憶を探ってみるが、目覚める前に見ていた妙な夢以外には何一つ思い出せない。いや、直前の記憶どころか――
「……んん? いったいどういう――」
――何一つ、思い出すことができなかった。
自分が今まで何をしてきたのか、どこに行こうとしていたのかはおろか、産まれも育ちも、名前すらも覚えていなかった。
唯一覚えている夢を頼りにするのであれば、金髪の女が読んでいた名前が自分のものという可能性も考えられるが、あまり現実味のある光景ではなかったために、あまり当てにするわけにもいかない。
所持品などから身元がわからないかと、自身の服のあちこちを探ってみる。服自体は上下ともに新品というわけではなく何回か袖を通したようなものだが、こんな木に囲まれた森の中には似つかわしくないほどに小綺麗だった。
高級品というわけではなさそうだが白を基調とした長袖のシャツも茶色ベースの長ズボンも、作り自体はなかなかにしっかりとしていることがわかる。膝下まであるブーツも同様で、滑り止めに彫られている溝には土すら入り込んでいなかった。ズボンのポケットはどちらも空で、腕輪やネックレスといった装飾品もないことから、所持品から手掛かりを得ることはできないと結論付ける。
しばらく記憶の紐を手繰り寄せていた男だが、視界の端で動いた何かによって思考の海から現実へと引き戻された。獣でもいるのかと、即座に動けるよう体勢を整えて目を向ければ、足元に生い茂った草花に隠れて女が倒れているのが目に入る。
一瞬、夢に出てきた女かと男は思ったが、即座に否定する。夢で見た女は陽の光を受けてキラキラと輝く、それはもう見事な金髪だったことが強く印象に残っているが、目の前に倒れた女はそれとは似ても似つかぬ黒髪だった。
共通点と言えば、どちらも手入れが行き届いており艶があるということと、腰まである髪の長さくらいだろうか。目を閉じていてもわかるくらいに整った顔立ちと、自分と同様に森の中を歩くのに適した長袖長ズボン、膝下まであるブーツというのがアンバランスな印象を受ける。
女はたった今目を覚ましたところなのか、うにうにと口元を動かしながらゆっくりと目を開けた。そのまま二、三度瞬きをしたところで、まだ寝起きでぼんやりとしたままの瞳が男の姿を捉えた。
宝石のような青の瞳が男の姿を捉えて一呼吸分ほどの時間を置いて、大きく目を見開いたかと思うと女は勢いよく後退る。
「あ、あなた誰?!」
言いながら、なおも男から距離を取りながら女が問いかける。元は三歩ほどの距離だったが、今ではその倍ほどに距離が開いただろうか。どうやら驚かせてしまったようだと思った男は、両手を挙げて無害を示す。
「待て待て、別に怪しい者じゃ――」
言いかけたところで、男はふと思う。はたして本当に自分は怪しい者ではないのか、と。なにせ記憶がないのだ。自分にはそんなつもりはないが、世間一般で言う"怪しい者"である可能性は十分にあり得る。
「いや、怪しい者かもしれない……」
力なく両手を下ろし、男はそのように返した。
その言葉で女は気が削がれたのか、男から距離を取ることを止めた。代わりにジトッと半目を作る。
「あなた、自分で何言ってるのかわかってるの?」
「あー、いや、違う。俺が言いたいのは、例え怪しい者であったとしても、危害を加える気はないということで」
かける言葉を間違えたと悟った男は、弁明するように首を左右に振りながら答えた。再度両掌を女へと向け、無手であることを強調する。
「そこは普通、嘘でも怪しい者ではないって言うものじゃないの?」
軽く小首を傾げながら問いかける女に対し、男は胡坐をかき、後ろ手で頭を掻きながら言葉を返す。
「それが、俺も今しがた目を覚ましたところなんだが、どうにも以前の記憶が無いみたいでな。自分がどういう人間なのかもわからないんだ」
「記憶が無いって……それって、記憶喪失ってこと?」
驚きに目を丸くして問い返す女に対し、男は頷きをもって答えた。それを受けて男から目を逸らした女は、考え込むように顎に左手を添える。
「ふ~ん、それなら仕方ない、のかな? それにしても記憶喪失かぁ。それじゃ、自分の名前とかも覚えてないの?」
再度、男に向き直った女は男に問いかける。対して男は頷きながら、
「そう、だな。なんとなく、これじゃないかっていう名前はあるんだが……それで、いろいろと教えてもらえるか? ちなみに、お前の名前は?」
できれば自分の名前をはじめとして、この状況について説明が欲しいところだ。こんな何もない森の中に二人して倒れていたのだ、まさか無関係ということはあるまい。
「私? 私はね……あれ? 私、は……」
だが、言葉を途切れさせ、目線を地面に落とした女の顔がみるみるうちに青ざめていく。次第に浅く速い呼吸を始めたかと思えば、両手で頭を抱えだした。その姿に、何故だか先ほどの自分の姿を重ね、嫌な予感がしてくる。
そして、女は言葉を溢した。
「私……私……何も覚えて、ない……」
しばらくの間、なんと声をかけていいのかわからなかったため黙って女を見ていた男だが、沈黙に耐え切れなくなりついに声をかける。
「あ~、その、大丈夫か?」
それでもしばらくの間、頭を抱えてうんうん唸っていた女だが、やがてのろのろと顔を上げた。ペタンと力なく両腕を下ろした女は、何度か口を開け閉めし、
「私も、記憶喪失、みたい……」
と小さく呟いた。その言葉に、嫌な予感が当たったな、と思いつつ男は一つため息を吐いた。なにせ、現状についての情報が手に入るどころか、何もわからない人間が一人から二人に増えたのだ。
「二人して記憶喪失なんて、何もわからないじゃない……」
そう言って女は項垂れる。
見るからに落ち込んだ女に対し、なんと声をかけていいのかわからなかった男だが、それでも何かを言わなければと思い、口を開く。
「いや、何もわからなかったわけじゃない」
「え?」
顔を上げた女に対し、男は真剣な表情を作って答える。
「何もわからないということが、わかった」
「石を投げられたいの?」
言いながら、女は傍らに落ちていた石を右手で掴み投擲の構えだ。慌てて男は弁明に走る。女の細腕では投げられたところで大した速度は出なさそうだが、それはそれとして当たれば当然痛いだろう。
「いやいや、別に冗談を言ってるわけじゃなくてだな」
「冗談じゃないほうが問題なんだけど?」
「まぁ聞け。俺達二人じゃ何もわからないということがわかった。つまりだ」
「……つまり?」
右手の人差し指を立てながら、男は諭すように続ける。
「他の人を頼ろう」
それを聞いて、女は振りかぶっていた腕を下ろし、石を地面へと転がした。しかし、男に向ける目は懐疑的なままである。それはそうであろう。なにせ、辺り一面はどこまでも木しか存在せず、人の気配など皆無なのだから。
「その、"他の人"がいないから困ってるんじゃない!」
怒気をあらわにする女に対し、男は宥める様に両手を動かす。
「そいつをこれから探そうっていうんだ。いくらなんでも全人類が死んじまったってことはないだろうし、探せばどこかしらにはいるだろう?」
男の提案に、女は少しの間俯いて考えを巡らせていたようだが、すぐに顔を上げて問い返す。
「もっともな意見ではあるけど、当てはあるの?」
「ない」
一言で言い切った男に対し、女は無言で再度石を拾い投げの体勢に移行する。それを見る男は、今度は慌てることなく言葉を続ける。
「ないんだが、ここでこうしてても何にもならないだろう?」
「それはそうなんだけど……」
「それでとりあえず、移動しようと思うんだが……一応聞くが、一緒に来るってことでいいか?」
男は立ち上がり、尻に付いた土や葉を払いながら問いかける。なにせ互いに記憶のない今、二人は見ず知らずの赤の他人といった状態だ。元がどういった関係か、そもそも無関係なのかもわからないが、別れて行動するという方法もあるのである。
「ん~……まぁ、こんな森の中で一人にされるよりかは、誰かと一緒のほうがいい、かな?」
「どうにも不満そうなのが気になるが……話はまとまったな。どれくらいになるかはわからないが、よろしく頼む」
起き上がるのに手を貸すように右手を差し出せば、女は存外素直にその手を取ってくれた。立ち上がる際にかかった力は小さく、男から見れば女は随分と小さく見える。この森の中で一人にすれば、たちまちのうちに死んでしまいそうだ。出来るだけ気にかけてやった方がいいだろう。
「ん、よろしく。ええと……なんて呼べばいい?」
「あ~っと、そうだな。名前がないのは不便か……」
名前と聞かれて、思い当たる名前は一つだ。自分の名前かはわからないが、当面の間は借りておくことにしよう。
「ヴァンだ。俺のことはヴァンと呼んでくれ」
「ん、わかった。私は……リーゼ。リーゼって呼んで。改めてよろしく」
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