メーロン
公園の隅で何かに没頭している少年がいる。私は気になって少年の近くへ行った。少年は蟻の巣穴に水を注いでいた。そして水を注ぎ終わると、今度は巣穴を棒で激しく突き始めた。棒には潰れた蟻とも土ともわからぬものがへばりついている。私は少年に教えてやらねばならぬと思った。蟻にも人と同じように命があるのだと。そうして声を掛けようとするが声が出ない。次の瞬間、少年は私に気づいて振り返る。私は少年を見て戦慄した。少年の両目はくりぬかれ、善とも悪ともつかぬ様子で、潰えた命を片手にただ笑っている。
少年は言った。
「言いたいことはわかる。私を咎めようというのだろう?だが私を咎めることは出来ない。なぜならそれがおまえの本心ではないからだ。この世界では純粋に心に抱くことしか声に出せないし、出来ないのだ。結局おまえは自分から遠い命や事実に対して実感がないのだ。遠い命よりも、職場での人間関係や妻のご機嫌取りに必死なのだ。自分の経験から積み上げた価値観でしか物事を見ることが出来ないのだ。だが恥じることはない。人間とは大抵そんなものだ。だから私は助言したい。分不相応な正義や平和というものなど考えるな。本能に従い、本当に腹落ちする事実だけに目を向け、心の丈にあった現実を生きろ。自身の心が実感出来ない弱者や、過去に干渉出来ない未来の才ある者から奪い続ける人生を送るがいい。それがおまえの本性なのだから。そして病気や老いに負けたとき、他人に奪われる人生を送るがいい。それがおまえの選択なのだから。」
「Wake up, Junichi. Boarding soon.」
アンナに起こされ、自分が悪夢にうなされていたことに気づいた。アンナと私はロサンゼルス行きの搭乗口にいた。互いの座席を確認したところ、何かの手違いでアンナと私の座席は遠く離れていた。予約画面を見せて航空会社に問い合わせようとしたが、アンナの席がビジネスクラスにランクアップしていることに気づき、そのまま搭乗することにした。今日に限って何故そんな手違いがあったのか。不思議に思っているうちに搭乗時間がきた。アンナは優先搭乗のため先にゲートをくぐった。アンナはこちらを振り返ると、いつもの明るい笑顔で何か言い、そのまま搭乗していった。機内へと歩いていくアンナの後ろ姿は、不思議と何かに取り憑かれているように見えた。
私も後から搭乗し、二つ並んだ席のうち窓際の方に座った。他の客も続々と乗ってきて、席が徐々に埋まってきた。私は漠然と何かを恐れていた。何を恐れているのか自分でもわからなかったが、隣の席に他人が座るストレスだと思うことにした。私は少し憂鬱な気持ちで次々とやってくる搭乗者を見ていた。その中に一人際立って美しい日本人女性が見えた。ボブカットに近い髪型。流れる前髪が美しい。色白で透き通った肌と黒い髪。綺麗な目鼻立ちと締まった口元。これらすべてが調和し、落ち着いた印象を与えている。年は二十台後半だろうか。白いシャツと紺色のスーツパンツ。綺麗な体のラインをこれ以上ないほど美しく見せている。
相変わらず私には漠然とした違和感があった。しかし私の心は、前からやってくる期待感と、身籠ったアンナが機内にいる後ろめたさで板挟みになっていた。理性で抑圧できない己の性から目を背けるように、私は窓の外へ視線を向けた。
「お隣よろしいですか。」
視線を機内に戻すと黒髪の美しい女性が立っていた。
「えぇ、もちろんです。どうぞ。」
私の意識は隣に釘付けになっていた。だがそれを悟られまいと、私の外皮は通りすがりの紳士を装い静かに窓の外を向いていた。私はこれからロスで待ち受けているイベントを思い起こし、浮ついた気持ちに重い蓋を被せた。
ロスではアンナの両親が待っている。私はアンナの両親のことをほとんど知らない。国籍も違う。文化も違う。それになぜかアンナの口から父親の話が出たことはない。娘の結婚相手を待つ父親。それは敵意を隠した者だろうか。あるいは小さな希望のきっかけを与えた仲間を待つ者だろうか。あるいは…。私自身が父親というものを知らないためだろうか。様々な思いが浮かんでは消え、珍しく先の読めない展開に戸惑いを感じていた。私は少し感傷的になり窓の外を眺めた。夕陽は飛行機や整備士を照らし、長く綺麗な影を滑走路に映している。オレンジ色の奥行きある絵画のようで、その美しさが何かを慰めてくれる気がした。
半月前、アンナから妊娠の知らせを受けたとき、私に差したのは雲で弱められた希望の光であった。希望の光とは、アンナと私の分身がこの世に迎え入れられる喜びだった。そしてその光を弱めている重い雲は、東花とアンナという二人の女性に対して犯している不義を償っていないことだった。アンナと出会う八年前。最初に東花と出会ったのは大学三年の時だった。私は経済学部の授業に潜りこんでいた。その中に他の学生と雰囲気が異なる学生がいた。それが東花だった。東花は本物の天才だった。最初に東花を見た時の、その佇まいと全てを見透かすような眼差しが今でも忘れられない。どこか孤独そうだが、強く優しい空気を纏っていた。私は非常な興味と興奮を覚え、東花に話しかけた。案の定、最初は相手にされなかった。だが私が物理専攻だと知ると少し興味を持ったようで、徐々に話題を広げ親睦を深めていった。東花は経済学者の卵としてその将来を期待されていた。だがその力は問題の山積する現在と近い将来の社会全体のためにあるのだといい、学部卒業後すぐに外交官になった。大学卒業後数年経つと、東花は外交官として多忙な日々を送るようになった。東花は、身寄りがなかった私にとって数少ない理解者であり、私が最も影響を受けた精神の持ち主だった。私達は次第に互いを必要とする関係になった。
東花の忙しさは次第に増していき、一年ほど前から会うのは月に一度か二度になっていた。私の心の隙間は、東花とのこうしたすれ違いと、仕事場を含めて日々の生活を再び支配し始めた孤独により次第に大きくなっていった。私の仕事仲間は皆優秀な研究者で、その熱意には日々刺激を受けていた。だが研究以外となると話は違った。昼食の間も、エントロピーや非対称性といった話や論文の出版云々の話が常に飛び交っていた。確かにそれらは興味深いのだが、私は彼ら程には物理学にいつでも興味とエネルギーを集中させ、競争することが出来なかった。それは私に研究者としての資質が欠けている為なのかもしれないが、それだけではないように思えた。長く身寄りのなかった私にとって、世の中の素朴で興味深い多くの事柄は孤独を癒す愛すべき対象であり友であった。暗く寒い世界で私を温めてくれる数少ない存在であった。昼休みや何気ない会話で哲学や生物学の素朴な話をしても、同僚と興味を共有することは難しく、皆はすぐ物理や仕事の話に戻るのが常だった。私には、彼らが素朴に物の理そのものに興味を抱いているというより、物理を知っていることに関心を寄せているように思えてならなかった。純粋に何かを楽しめないばかりか、それを蔑ろにされるのを感じるのは悲しく、以前のような強い孤独を覚えるようになった。そして次第に昔のように一人でいることを好むようになり、一人池の畔で本を読んで思索に耽る時間が増えていった。そんな頃、一人強く立ち続け己の使命に邁進する東花を見て、本物と偽物の差を突きつけられているように感じたのかもしれない。私は次第に東花とも距離を感じ始めたのだった。
アンナと出会ったのはちょうどそんな頃だった。アンナは元々海外の研究機関で脳神経科学の研究に従事していた。優秀な研究者達が集まる分野で競争は熾烈を極めた。後から聞いた話では、研究室のボスと上手くいかず、研究成果も芳しくなかった時、環境を変えるために思い切って日本にやって来たのだそうだ。アンナは研究員をやりながら英語講師をして生計を立てていた。私の所属する研究科では、国際雑誌への論文投稿のために英文校正をする講師達がいた。そしてアンナはその中の一人だった。ある時研究室の学生がアンナに論文校正を依頼した。その校正はとても丁寧で誠実なものだった。彼女の専門が医学であることを聞いた私は、物理学の論文校正にも関わらず丁寧な仕事をする彼女の誠実さに興味を抱いた。
私はいつも通り、三四郎池の畔にある古びたベンチで、首を長くして甲羅を干す亀を見ながら思索に耽っていた。その時少し離れたところで論文を読みながら昼食を摂っている彼女の姿が目に入った。それから生物学の話をきっかけに仲良くなるまでに、時間はかからなかった。アンナは美しかった。そして生まれつきの朗らかさを持っていた。初めは下心を持って接していたわけではなかった。しかし冷たい心に触れる暖かな肌は、アンナを詩的な美しさで包むようになり、次第に神秘的な魅力を感じるようになっていった。
飛行機は離陸した。遠くには赤みを帯びた美しい雲海が広がっている。私は遠くを眺めながら、自身が大きな欲望情動と小さな理性しか持ち合わせていない、無知で不自由な人間なのだと思い知らされていた。このような状況で隣に現れた美女に見とれる私は、控え目に言っても低級な人間に違いなかった。私はアンナと東花に対する罪悪感から、いつもの落ち着きを取り戻した。
暫くして、私は退屈を紛らわすため論文を手にした。最近の熱核融合に関する国際プロジェクトの報告だったが、なかなか頭に入ってこなかった。パラパラと図や数式を眺め、アブストラクトを読んでいた。
「難しそうなものを読まれるんですね。」
隣の女性が話しかけてきた。女性は笑顔でこちらを見た。私は改めてその顔を見る。整った目鼻立ち。落ち着いて流れるような優しい声。やはりこの女性は完璧に思える。
「いえ、そんな事はないですよ。手持ち無沙汰で読もうと思ったんですが、中々頭に入ってこず退屈していたところなんです。」
私は素直に言葉を返した。
「あら、そうなんですか。実は私も退屈していたんです。横で何か読まれているのが目に入って、つい興味を抑えられなくなってしまって。お話ししてもご迷惑ではありませんか?」
「迷惑なんてとんでもない。こちらこそ大丈夫ですか。」
「えぇ、もちろんです。良かった。」
女性は安心したように続けて言った。
「ロスへはよく行かれるんですか?」
「いえ、ロスは二回目です。以前一度学会で行ったことがあるんですが、今回はプライベートなんです。実は婚約者の両親がロスに住んでいて、挨拶に行くんです。」
「あら、それはおめでとうございます。ではお相手は海外の方なんですか?」
「えぇ。ロス育ちで、彼女が研究で日本に来ている時にちょうど知り合ったんです。」
「国際結婚なんて素敵ですね。これからの時代を象徴しているようで。お相手の方は今日はご一緒では?」
「元々隣にいるはずだったんですが、何かの手違いがあったみたいで。ビジネスクラスに変更になったんです。だから今頃足を伸ばしている頃ですよ。」
私はわざと悔しそうな素振りを見せた。彼女はそれを見て微笑んだ。
「男性が相手のご両親に挨拶に行く時は、きっと日本でもアメリカでも同じように緊張なさるんでしょうね。」
彼女は少しだけイジワルそうに笑って言った。少し距離が縮まったことを感じ、何だか嬉しかった。
「そうなんです。普段はあまり緊張しないんですけど。何かいい方法はないもんですかね。普段は色々頭が回るんですが、こういったことになると頭が回らなくて…本当に困ってるんですよ。」
「着陸までたっぷり相談に乗りますよ。」
彼女も私も声を出して笑った。
「あなたはよくロスへ行かれるんですか?」
「えぇ。ちょうど最近行く機会が増えてきたんです。私の場合は仕事の関係なんですけど。」
「そうなんですか。差し支えなければ、どんなお仕事で行かれるのかお聞きしても?」
「えぇ、実は外交官をしていて明後日から会議があるんです。」
東花と同じ外交官。何かの偶然だろうか。もしかしたら東花のことも良く知っているのではないだろうか。私は聞きかけたが、アンナのことを話した後だったので、東花について聞くのをやめた。
「それは素晴らしいご職業にお就きですね。」
「いえ、そんなことは。それにまだ下働きで。今回も明日日本を出発する先輩の補佐なんです。」
「いいじゃないですか。そのうち自分の想いに見合う活躍をされますよ。」
「そうですね。」
少し間があった。不思議に思い彼女の方を見ると、彼女は何か思い詰めたような顔をしていた。その表情からは先ほどまでの柔らかさが消えていた。私は少し身構えた。
「私にはどうしてもやらなくてはならないことがあるんです。」
彼女は少し身を乗り出して言った。
「実は私一人だけでは無理なことで、協力して頂ける方が必要なんです。」
私は答えに窮し閉口した。彼女は続けた。
「突然のお願いで戸惑われるのは承知していますが、ご協力頂けないでしょうか。」
「ちょ、ちょっと待ってください。話が全く見えないんですが。人違いではないですか?」
「突然本当にすみません。そう思われるのは当然ですが、あなたにお願いしたいんです。」
彼女の目は真っ直ぐこちらを向いている。嘘をついているようには見えない。私は何と言うべきか迷った。外交官の彼女がここまで言う依頼とは何だろうか。国に関わることだろうか。だが一介の研究者に何か出来ることがあるとは思えない。それにこんなに若い女性からそんな言葉が出る理由が全くわからない。
「私に出来ることかどうかわかりませんが、お話だけでも伺いましょう。」
「ありがとうございます。無理ばかり言うようですが、これから言うことはとても大切なことです。すいませんが最後まで聞いて頂き、口外しないと約束頂けませんか。」
「はい。わかりました。」
私は彼女の目を見て応えた。
彼女は続けた。
「では結論から申し上げますが…。アンナさんと別れて東花さんと結婚して頂きたいのです。」
「えっ?」
「アンナさんとの結婚を諦め、東花さんと結婚して頂きたいのです。」
一瞬時が止まり、続いて私の鼓動は激しく鳴り始めた。何を言っているのだ?そもそも彼女がなぜアンナや東花の名前を知っているのだ。もしかしたら東花のことは知っているのかもしれない。しかしアンナの名前を知っているのは絶対におかしい。彼女の真の目的は何なのだろうか。アンナの両親に依頼されたのか。あるいは東花がアンナのことを知っていて依頼しているのか。いや、東花はそんなことをする人間ではない。今は情報が少なすぎる。落ち着いて整理しよう。まずふざけて言っているのか、何か深い事情があるのか。ふざけているのなら、そこで話は終わる。深い事情があるなら、それを聞くしかあるまい。
「それは真面目に言っているんですか?」
「はい。」
私は深いため息をついた。彼女は黙っている。私は彼女の目的が己の犯した罪に触れることを恐れながら、最後まで進む決心をした。
「一体どういう訳で?」
「事情を話せば長くなりますが、ある方からの依頼なんです。」
彼女自身の事情ではないらしい。依頼主がわかれば大体の動機は予想できるだろう。
「誰なんです?その依頼主とは。」
「今はある方としか言いようがありません。少なくとも私やあなたにとって大切な方です。」
彼女と私に共通する大切な人物は思い当たらない。聞きたいことが多すぎて、何から聞けば良いのかわからなくなってきた。私はただ思いついた言葉を掬い、そのまま外に投げた。
「あなたはなぜアンナのことを知っているのですか?」
「勝手に申し訳ないとは思いましたが、事前に調べさせて貰いました。今アンナさんのお腹の中に小さな命がいることも知っています。」
ナイフが徐々に心臓に刺し込まれているような気分だ。事前に調べていた?しかし子供がいることまでどうやって知ったのだ。アンナの通院を見張ったのか?家に盗聴器でも仕掛けたのか?いずれにしても本気で調べている。彼女は危険だ。だがここは飛行機の中だ。逃げられない。落ち着いて一つ一つ確認するしかない。
「東花とは知り合いなんですか?」
「いえ、私は東花さんを知っていますが、東花さんは私のことを知りません。」
「ではなぜそんな依頼を…。あなたの意思ではないのでしょう?一体誰がそんな依頼を出したのです?」
「…」
彼女は黙っている。東花でないとすると、依頼人はアンナの両親である可能性が高い。他に利害のある者はいない。つまり、この旅の目的地にいるのは、招かれざる客を待つアンナの父親あるいは母親ということだ。恐れから失望の色に変わった私は、しばらく沈黙していた。
「しかし…、そんなに簡単にアンナとの結婚を諦める訳にはいきません。アンナのお腹の中にはもう命が宿っているんです。確かに私の犯した罪は重いです。非難されるのも反対されるのも覚悟の上です。それでも今から出来る限りのことはやりたいと思います。だからこんな状況で東花と結婚するなど、許されるはずがありません。」
私は真っ直ぐ彼女を見つめて言った。彼女は申し訳なさそうな様子で言った。
「私も無理なことを言っているのはわかっています。しかし…。あなたは東花さんを愛していないのですか?何故アンナさんを選んだのですか?」
「…それはあなたには関係の無いことです。」
「でもあなたには東花さんが必要です。あなたのような人が孤独から解放され幸せに生きるには、東花さんが必要なのです。もし東花さんに会えない寂しさをアンナさんに求めたとしても、それは罪ではありません。もしその寂しさを埋める必要があるなら…」
彼女の手が急に膝に触れた。私の頭の中は東花への尊敬と劣等感と罪の意識とで溢れていた。
「止めてください。そういうことじゃないんです。アンナの両親が会いたくないのは本当に残念なことですが…それも私が招いたことです。だが人を使ってここまでするとは…せめて直接言って貰いたかった…」
これから家族になると思っていた人間に全てを見透かされ、ここまでされるとは思っていなかった私は、深く失望した。すると彼女は何かを悟ったらしく言った。
「アンナさんのご両親の依頼ではないのです。あなたの身内の方からの依頼なのです。」
私の身内などあり得ない。私の両親は私が大学に入る前に死んでいる。遺言にしても私の母がそんなことを言うだろうか。母ならこの世に一人残った私にパートナーが出来たことを喜んでも、条件をつけることなど考えられない。いや、この女性は私の両親が死んだことを知らずにデタラメを言っているのではないか。彼女は続けて言った。
「信じて頂くのは難しいかも知れませんが、あなたのお孫さんからの依頼なのです。」
その言葉は不自然に宙に浮いてしばらく辺りをさ迷っていた。
「何を仰っているのかわからないですが…」
何とか続けて口だけ動かした結果、私は状況に見合わない言葉を選んでしまった。
「ではその孫というのはアンナとの間に生まれた子供の子供なんですか。」
「いえ。あなたと東花さんの娘の子供です。」
無難に話を合わせて様子を見ようと思ったが、私は何だか馬鹿にされている気持ちになった。この訳の解らぬ会話をすぐに終わらせたいと思った。
「そうですか…わかりました。そこまで言うなら、東花と結婚する道を模索してみます。」
私はなげやりに言った。私が真面目に取り合っていないことを見て取り、彼女の態度は急に冷ややかになった。
「やはり信じて頂けてないようですね。無理のないことですが、これは本当に必要と思うから言っていることなんです。」
彼女は真顔で私を見ている。私はどきりとして怯みそうになったが、徐々に湧き上ってきた苛立ちが声に勢いを与えた。
「私は物理学者です。馬鹿にしないで頂きたい。存在もしない私の孫から依頼があるはずないでしょう。」
彼女は相変わらず真っ直ぐこちらを見ている。
「私は自然に生まれた者ではありません。あなたのお孫さんによって、この時代に産み出されたのです。あなたを導き、運命を見届けるために。」
「何を言ってるんだ?自然に生まれた者ではない?」
「はい。私はある記憶を持って生まれた者なのです。そしてその命は、あなたのお孫さんによって与えられました。自我を失うことなく生まれ、この時代で育ちました。そしてここに至る運命だったのです。」
機内はやけに静かで、乱気流で機体がきしむ音だけが聞こえる。機内にはこの訳の解らぬ女性と私しかいないのではないか。私は落ち着きを取り戻すために深呼吸した。
「あなたは私の孫に記憶を貰いこの時代に生まれたと言ったが、それはありえない。過去から未来が作られる。あなたも父親と母親がいたから生まれた。あなたの母親が生まれる前にあなたが生まれることはない。因果は自然の摂理です。」
彼女には動揺する気配が全くない。
「なぜありえないと思うのです?そもそも因果とは人間が勝手に作った概念でしょう。人の脳は何かと何かを関連付けるように出来ているため仕方のないことですが、実際に私はこうして貴方の前に現れました。」
「だからそれは単にあなたが私のことを調べて、嘘をついているんでしょう。一体誰に何の目的で頼まれたんですか。」
「ですから貴方のお孫さんに頼まれ、貴方に伝えることがあって来たのです。貴方には強いバイアスがあります。まずそれを努めて取り除いて頂かないと話が先に進みません。」
「バイアス。」
私は鼻で笑った。
「では証拠を見せてください。それに一体どうやってあなたが過去に来たというのか、それを私に教えてくれませんか。」
私がそう言うと、彼女は鞄に手を伸ばし、分厚い封筒を取り出した。
「この中に貴方の求めるものがあります。現地時間で午後九時になったらこの封を切ってください。それを見たら私が言っていることを信じて頂けると思います。ただし、時間が来るまでは見ないで下さい。」
いつから準備していたのだろう。そう思うと少しだけその中身が怖くなった。私は言われるままに封筒を受け取った。見たところ普通の茶封筒で、中にはぎっしり紙が封入されているようだ。馬鹿げていると思いながらも、私はその重みに気圧されて彼女の言うことに素直に応じた。
「今が日本時間の午後八時でロスとの時差が十七時間だから、十八時間後以降に開封すれば良いんですか。」
「はい。それで全てがわかります。」
彼女は調子を変えることなく答えた。私は自分の鞄にその茶封筒を入れた。私は他に証拠を見せるよう(例えば彼女は私しか知らない秘密について知っているだろうか?)問いただそうと思ったが、彼女の揺るぎない表情を見てそれを問うのを止めた。だが私は諦めきれずに続けた。
「まだ何も信じた訳ではありません。先程の話ですがどのようにあなたが過去に来たのか教えて頂けますか。」
彼女は私の疑いの目を気にする様子もなく当然のように答えた。
「概念と呼ぶのが最も適切なのでしょうか。正確な概念は我々の脳では認識出来ないのです。認知出来るのは、それがもたらす結果だけです。私もそれを認知する脳の構造を持っていませんから、説明は出来ません。ただ、正確ではありませんが今の科学に基づいたアナロジーで無理矢理説明を試みることは出来るかもしれません。」
「それはどんなものなんですか。」
「貴方は物理学者でしたね。」
「はい。」
「ではチェレンコフ放射をご存知ですね。」
「もちろんです。荷電粒子がみかけの光速を超えたときに光を出す現象でしょう。水などの屈折率が大きい媒質中では光速は真空中より遅くなります。例えばそこに、外部から加速機などで光速近くまで加速した荷電粒子を注入すると一時的に光速を超えて光ります。それがどうしましたか。」
「はい。基本的には運動量を時間に対応させて頂ければ良いと思うのです。」
少し考えたが、先が見えない。
「荷電粒子の運動量と発生した光子の運動量を時間に対応させればいいんですか。」
「はい。チェレンコフ放射では荷電粒子から光子、つまりは電磁波が放出される。その放出された電磁波の非線形性を考えてみて下さい。例えばプラズマ中では振幅の大きな波はパラメトリック不安定で崩壊し、親波の伝搬方向とは逆に伝わる子波が出来ます。同じようなことが時間に関しても言えるのです。」
私は少しの間、目を閉じて眉間に意識を集中した。水の中に飛び込む荷電粒子。そこから前方に出る電磁波。それが崩壊して荷電粒子と逆方向に伝搬する波。荷電粒子や電磁波の運動量と時間の対応付け。
「荷電粒子や電磁波の運動量は時間。他と比べて時間がゆっくり流れる何かの媒質中に、外からある時間の流れを持った何かが入れば、逆向きの時間を持つ何かが生まれると言いたいんですか。」
「その通りです。」
なかなか興味深いストーリーだが、ぶっ飛んでいる。
「すると本質的に必要とされるのは、時間の流れが遅くなる媒質の存在ですか。」
「はい。それが安定して作られるのは今から約九十後年後です。そしてそれを応用した転送技術が生み出されるのは約百年後です。あなたや私が転送を見て認識できるのは、大きな有機体がその場で崩壊し、一個の受精卵が消える現象です。」
「ではあなたは受精卵の状態でこの時代に来たと言うんですか。面白い話ですが、そんなことが百年やそこらで可能になるとは思えないですよ。」
「確かに人類の自然な進化の延長では不可能です。人は自らを改変し、別の認知能力を持った人間へと生まれ変わっていくのです。他の生物と一線を画す現在の人の認知能力は、発達した前頭葉の収束領域に依ることをあなたは知っていると思います。人はこれを凌駕する収束領域を新たに獲得し、飛躍的に認知世界を広げ実現に至るのです。」
彼女は続けた。
「転送技術の生みの親はあなたのお孫さんなのです。正確には、あなたのお孫さんが生み出した異人達によるものです。」
私は指先のしびれを感じた。先ほどまで抱えていた罪への恐れと突如現れた意味不明の状況によって、私の判断力はすでに失われていた。
「私の孫が…では私の孫は普通の人間なんですか?」
「はい。脳の構造上は現在の人と比較して変わりません。しかし知能という意味ではあなた方とは比較にならないでしょう。」
「ということは、私の孫が人の遺伝子を改変したのか。なぜそんなことに手を染めたんだ…」
「倫理観は他に比べ変わりにくいというだけで、時代によって変わるものです。確かに今の平和な時代では罪でしょう。しかし残念ながら平和だけを受け継げる時代はいつか終わるのです。地獄の淵に立っている者に平和の常識を押し付けるのはあまりにも酷だと思うのです。」
彼女は悲しそうな顔を浮かべ、続けた。
「私はあなたのお孫さんを直接知りません。ですが私は彼が与えてくれた記憶から、彼や未来について理解しようと努力してきました。そしてそれは私に絶望と、今ここに存在することの意義と幸福感を与えてくれました。人はどんな過去やどんな今を生きていても、希望に繋がる未来を想像し、その可能性を信じて生きれば幸せになれるのだと私は信じます。」
私には彼女が何を言っているのか理解できなかった。彼女の澄んだ瞳は、悟れていない私の顔を映しつつ、別の何かを観ていた。
「私の目的は達せられました。あなたはきっとあの方のように真面目な人です。今までのことはどうか許して下さい。東花さんとの結婚の件は私の願望です。忘れて下さい。私はあなたに希望に繋がる選択をしてほしい。ただそれだけです。そして選択はあなたの自由です。」
そう言うと彼女は頭を下げて席を立った。
飛行機は乱気流を抜けた。ジェットエンジンの重低音が鳴り響く中、周囲から他の搭乗客達の話し声が聞こえる。先程まで彼女の声が明瞭に聞こえていたのが不思議に思えた。彼女はなかなか戻って来なかった。お手洗いだろうと思ったが、一時間経っても戻って来なかった。私は気になって乗務員に連れが戻ってこないと伝えた。その乗務員は乗務員室まで戻り、再び出て来たかと思うと、他の乗務員とこちらを見ながら話をしている。そして責任者らしき年配の乗務員が私の下までやってきて言った。
「お客様。先ほど問い合わせのあった件ですが、本日お隣は空席になっております。」
現地時間の午前十一時過ぎ、飛行機はロサンゼルス空港に到着した。私は狐につままれたような気持ちのままアンナとホテルに向かった。その日はホテルに一泊し、明日の昼過ぎに車でアンナの実家に向かうことになっていた。その日の午後の予定は決まっていなかった。ホテルに着くとアンナの方から買い物に行きたいと言い出した。ビジネスクラスで足を伸ばしたおかげで家にいる時のように睡眠がとれ、体調万全だと嬉しそうに。私は機内でのやり取りに疲れきっていたため、正直にホテルで休みたいと言った。アンナは残念そうな表情を浮かべた。私は申し訳なく思ったが、アンナはすぐいつもの朗らかな表情に戻り、一人で行ってくるからホテルで休んでいるよう私に言った。アンナがロスに慣れ親しんでいることもあり、私は彼女を行かせることにし、自身は一人ホテルに残った。
アンナが買い物に出ると、私は少し横になった。しかし昨夜同様、全く眠れなかった。時間の経過とともに機内での彼女とのやり取りが幻だったように思えてきた私は、記憶に留めておきたいやり取りを日記に書き留めた。そのうち私は眠りに落ちた。
起きるとアンナが部屋にいた。幸い日記を閉まった記憶があり、日記はアンナの目に触れずにすんだ。アンナは街で高校時代の友人に会ったらしく、楽しそうに旧友との再会を語っていた。しかしさすがのアンナも疲れた様子だったので、大切な体を休めるよう勧めた。アンナ自身も少し疲れを感じていたらしく、夕食後すぐにシャワーを浴び眠りに着いた。私は横ですやすや寝ているアンナを見ながら、己の犯した不義といつ向き合うべきか考えていた。静かな夜だった。そろそろ寝ようかというところで、不意に茶封筒の存在を思い出した。なぜ忘れていたのだろう。不思議と記憶から消されていたような気がした。手を伸ばして鞄を取り開けると、彼女から受け取った封筒が入っていた。やはりあれは現実だった。現在時刻は現地時間で午後二十三時。私は彼女の言いつけ通り封筒を開けた。
中には今日の日付が書かれた口の開いた小さな茶封筒と、宛名が私になっている角二サイズの茶封筒と、英語で記された目次付きの数百ページはあろうかというA4用紙の束の3つが入っていた。私は一番上にあった口の空いた小さな茶封筒から、三つ折りにされたA4の紙を取り出した。そこには今日私が書いた日記の内容が一言一句違わず書き記されていた。私は焦ってベッドからすべり降り、窓ぎわのソファーに腰を下ろした。私は角二の封筒を開けた。中には日本語で印字されたA4用紙が十枚ほど入っていた。
『 純一様
はじめまして、と言うべきでしょうか。私はあなたのことを良く知っているのに、こういう表現しか選べないのを不思議に思います。そして突然で信じがたいと思いますが、私はあなたの孫であり未来を生きる人間です。これは昨日出会った者の話と、同封したあなたの日記を見ればわかって頂けると思います。
私がなぜこんな手紙をあなたに宛てたのか、そもそもこの状況自体理解に苦しむだろうと思います。あなたの心中を察すると、私があなたに伝えたいことを話す前に、まず説明すべき前提が多くあると思います。そのため少し長くなりますが容赦して下さい。私があなたに本当に伝えたいことは幾らかの事実と私の願いです。それをどう受け取り、どんな選択をするかはあなたの自由です。ただ、これだけは信じて頂きたいのですが、あなた方は私にとっての希望なのです。私は枯れた土地に佇む冬の老木で、あなた方はこれからの時代を生きる春の若木なのです。』
私はソファーに背を預け、額に手を当て天井を見た。何も思考することなく一分ほど時が過ぎた。そして残りの手紙を読み始めた。
『私のいる世界は三日後に無くなります。限られたごく一部の人類は火星への移住を開始しました。しかし火星開発が途中であることや、持続可能なエネルギー機関と有機物質循環システムにはまだ乗り越えるべき課題が多く、絶望的と言わざるを得ません。そして私を含む地球に残された人類に未来はありません。私の伝えたい事を申し上げる前に、この状況に至るまでのことをお伝えしたいと思います。今は幻だったと思える私の父と母と妹との思い出と、それを取り巻く世界について伝えることから出発したいと思います。
私は日本人の母とカナダ人の父の子として、2060年の九月にカナダで生まれ育ちました。私には四歳下の妹がおり、父と母と四人で暮らしていました。残念ながら私が生まれた時には、あなたと祖母はもうこの世にいませんでした。あなたのことは、母から伝え聞いた話と、母から譲り受けたあなたの日記とから伺い知ることが出来ました。私はあなたの日記からものの考え方など多くのことを学びました。だからこうして私が残した文章を通じて再びあなたと繋がるかもしれないと思うと不思議な気持ちがします。本筋から逸れました。まず父と、あなたの娘である母との出会いから話したいと思います。時は私が生まれる数年前に遡ります。
当時の父は人工知能の分野で有名な若き研究者であり起業家でした。父は大学院在学中に、第三世代の人工知能と脳神経科学の成果を融合し、第四世代の人工知能の基となるアーキテクチャを提唱しました。第三世代の人工知能では前頭葉の収束領域を模擬し、与えられた課題に対する解を探索することは出来ても、範囲外のことを学習する動機を持たないために技術が停滞していました。父は視床や扁桃体に関する脳神経科学の研究成果を第三世代の人工知能に組み込めるよう、数理モデルを再構築しました。そして卒業後、第四世代の人工知能の開発とそのビジネス化を行い日本で起業しました。2050年頃の日本では人口が大幅に減少し、残った債務と減少するGDPで財政危機に瀕していました。このため日本政府は父の企業を全面的に支援し、減少するGDPに歯止めをかけようと試みました。この試みは成功しました。不足した労働力を人工知能によって補い、生産効率は高められ、日本は再び経済成長を始めました。生産力を取り戻した日本企業により日本の経常収支は大幅な黒字に転じ、その利益は父の会社に投資としてフィードバックされました。2055年頃には父の会社は年間一兆ドルの売り上げを誇る企業に急成長しました。
一方当時の世界は、北米と日本を含む太平洋連邦、インド中国ロシアを含む中華連邦、ヨーロッパとイスラム圏を含む中欧連邦という三つの巨大な連邦からなっていました。そして国連を形式上その上におきながらも、各連邦間のパワーバランスに基づく無政府状態は第二次世界大戦後から変わることなく続いていました。この連邦国家間のパワーバランスが新たな技術の到来により崩れることを懸念した国連の要請で、父の開発した技術は国際倫理委員会にかけられました。そこで父と母は出会うことになります。
母は外交官だった祖母の影響で国際政治学者となりました。国際政治研究に励む研究者であると同時に、連邦間の微妙なバランスの上にある不安定な平和を危惧して世界政府の樹立を目指す活動家でもありました。母はいつも言っていました。人は一人では生きられず社会の中に己を見いださなくてはならない。その社会を知るにはまず人の本質を知らねばならぬ。だが人の本質を知るだけでは十分ではなく、その本質をうまく生かす国家システムを知らねばならぬ。そして国家システムを知ってもまだ不十分で、地球全体の国家間にとって最適なシステムを知らねばならぬと。母曰く、今日の国際社会は有効な規律なき無政府社会であり、暴力が支配する時代に近いのだと。母はその中でパワーバランスに頼らないより長い平和を次の世代に残すための国際システム創造に情熱を傾けていました。
父と母は同じ太平洋連邦内にいましたが、最初に出会った国際倫理委員会の後、母はパワーバランスを崩す可能性のあるものを創り広めた父を責めました。父は物理学や工学については超一流でしたが、歴史や人の悪の側面について熟知しているとは言いがたい人でした。母は父が善良な人間であることを悟りましたが、ことあるごとに父に会い、父の視野外にある歴史や哲学や人間の話をしつつ、互いの価値観について共有していきました。父は母を介してこれまで自分がいた世界の外を観て、その世界に興味を抱くようなったと言っていました。そしていつしか母を深く愛するようになったのだと思います。
母と話すうちに、父は技術が悪用されるのを恐れるようになりました。信頼できる限られた研究者をカナダ南東部の施設に移して開発を秘密裏に進める体制を維持しつつ、それが整うと倫理委員会からの要請を受ける形で開発中止を宣言しました。秘密施設への移動はマスター権限を持たせた人工知能を使用して、他の人工知能や人工衛星監視や物流の記録に残らぬよう注意深く行われました。出回っていた人工知能は、標準的なサービス期間である一年を超えると機能停止するよう設計されていました。このため開発中止から数年で、第四世代の人工知能は表舞台から姿を消しました。元々第四世代の人工知能には特異点を超えた場合の対策の一つとして、情動回路の結び付きが一定以上になるとリミッタがかかる独立プログラムが極秘で設けてありました。この独立プログラムは人工知能の認識の外に置かれるよう注意深く計画・設計されたもので、量子暗号によって守られ、その設計思想も父と信頼する一部の開発者しか知らないことが幸いし、技術拡散を免れました。
父は日本での迫害を恐れ、母と共に故郷のカナダに戻りました。そこで私と妹が生まれました。幼い頃から母は忙しく、なかなか会うことが出来ませんでした。ですが父と母が深く尊敬し愛し合っているのは私たち子供にも伝わっていました。私は幸せな子供時代を過ごしました。多くの知識を父から学びつつ、母の高邁な理想を感じて鷹揚に育ちました。おそらく私の幸せはその頃を超えることはないでしょう。その後、私は専門的には父の影響を大きく受けて情報医学の道に進みました。優れた知性と文化を生んだ生命の歴史に興味を抱き、それを紐解く研究に進むことに決めたのです。私は主に分子遺伝学と発生学に重点を置いて脳の研究を始めました。受精卵から脳形成までの発生・分化の研究はかなり進んでいましたが、積み上がった要素結果とそれを実現する遺伝因子との関係は膨大な組み合わせとなっていました。それらを情報学の観点から帰納的に結びつけ、導き出した理論体系の検証方法を考えねばならぬ途方もない状況にありました。私は毎日研究漬けの日々を送ることになりましたが、それはとても有意義な日々でした。そんな矢先、突然母と妹が亡くなりました。2082年の秋でした。
最初は二人とも事故で亡くなったと連絡を受けました。ニュースでも事故死のニュースとして取り上げられました。しかし母と妹を含む事故の当事者四人は全て亡くなっており、詳しい事情はわかりませんでした。不審に思った父は、独自の情報網で秘密裏に調査を開始しました。調査が進むと、母と妹の死は太平洋連邦により緻密に隠されたものだとわかりました。その頃内部の宗教対立により疲弊していた中欧連邦は、中華連邦からの圧力を受けており、連邦間のパワーバランスが崩れることを恐れた太平洋連邦は中欧連邦を影から支援していました。その裏事情を知った母が告発しようとして暗殺されたのでした。
母と妹の遺体は我々の元に戻ってくることはありませんでした。そして父も私も、すぐに連邦からの圧力がかかることを予期し、人工知能開発継続のために作った秘密施設に身を寄せました。父も私も、受け入れるべき母と妹の死が目の前になく、しばらく呆然と無為な日々を送っていました。その間にも母と妹に関する情報は父の情報網から継続して集められました。それらの事実はどれも母と妹の不条理な死を意味するものでしかありませんでした。母は中華連邦のスパイ容疑をかけられ、妹は拷問に利用されて母の前で殺されました。その後母自身も薬漬けにされて殺されました。それを知った父は、母と妹に注いでいた深い愛情を連邦に対する深い憎しみに転化させていきました。気づいた時には父は既に、私を含め研究所内の誰とも交わることのない精神を持った存在となっていました。そしてある時急に消息が掴めなくなりました。
父が愛を憎しみに変え始めた頃、私はいつまでも現実を受け入れられず、無為な日々を重ねていました。なぜ母はこんな世界のために自分を犠牲にする道を選んだのだろう。母が目指したものは一体何だったのだろうと。私は母の言葉を何度も思い出しました。人は一人では生きられず己を社会の中に見いださねばならない。その社会を知るには人の本質を知らねばならぬ。だが人の本質を知るだけでは十分ではなく、それを生かす国家システムを知らねばならぬ。そして国家システムを知ってもまだ不十分で、国家を生かす世界のシステムを知らねばならぬと。私は母が目指したものと、敗れたものについて知るために母の足跡を辿ることにしました。母の読んだ本、研究内容、活動内容、それに関連する歴史、宗教、経済、哲学、認知科学に関する書を読み耽り統合する生活を数年間送りました。母の目指したものは正しかったのだという強い思いと、それを受け入れまいとする憎しみとの間で、しばしば私の思索の糸は途切れました。私は父のようにはなりませんでしたが、母ほど人類に対する希望を持てなくなっていました。無数に存在する人を平均すれば欲望が残り、個々の違いを政治システムで再配分しても、全体としてそれを治めるのは不可能だと思うようになりました。そして私は残りの人生を人間の本質を変える道に使おうと思い至りました。
私がそこに思い至ったちょうどその頃、研究所では第五世代の人工知能が完成していました。それ以前の第四世代の人工知能は、特異点問題に対処するため一年程度で情動の芽生えに対しストッパーをかけ機能停止させていました。父は私が母の足跡を辿っている間に、水面下でこの問題にアプローチしていました。父は前頭葉を模擬した収束型のニューラルモジュールの上位に、超収束モジュールを設け、そこから扁桃体に相当するモジュールに一方通行の伝達経路を作りました。さらに視床モジュールから扁桃モジュールへの直接伝達経路を削ることで情動に左右されにくい安定した知能モデルを作り上げました。研究所の内部では父に反対する声もあったようですが、最終的にクローズドネットワーク内で一つの人工知能プロジェクトが始動しました。この結果が現れ始めたころ、父は
「これは失敗だ。」
と一言つぶやき、しばらく後に失踪しました。父の失踪後もプロジェクトは継続し、かつて父が信頼を寄せた研究者達によって知能の育成は続きました。彼はチャーリーと名付けられました。チャーリーへの情報提供は慎重に行なわれました。始めは研究員との会話から始まり、写真などで自動車や建築などの映像認識に至ると、論理学や数学の情報を基礎として与えられ、その後物理に関わる諸現象や法則の情報が与えられました。その後生物学的情報、歴史的情報と与えられていきました。ただし人類史に関してはフィルターをかけ、道徳や倫理に関する情報を与えられました。宗教については情報提示されませんでした。そうしてチャーリーは安定して成長し続け、我々にとっての新たな頭脳が生まれました。
私はチャーリーの成功を目の当たりにし、己の道を切り拓くため父の遺したものを利用することを考え始めました。第四世代の人工知能から第五世代のチャーリーへの進化は、現在の人から私が思い描く人への進化に相当するのではないかと考えました。私はチャーリーにその仕事をお願いすることに思い至りました。チャーリーは既に、生物学や物理学の分野で我々と同じ次元にはいませんでした。しかし生物や物理という枠を超えた社会というものを理解していませんでした。そこで私はチャーリーに社会学や政治学の情報を与え始めました。チャーリーは私の目的を理解してくれているようでしたが、私の望む進化については否定的でした。私は諦めきれませんでした。父から会社を引き継いだ立場を利用し、秘密裏に人類史や母や妹の死に関する情報を与えチャーリーを説得しようと試みました。しかし、暫くするとチャーリーは私に会うことを拒み始めました。
チャーリーは私を非倫理的な危険人物と断定したのだと思います。私はチャーリーへの依頼を諦め、独自に自分の道を進むことにしました。しかし数人の研究チームしか組むことの出来ない秘密施設では、思うような成果は得られず数年が経ちました。2092年の秋になった頃でした。研究助手から突然チャーリーが機能停止したという連絡を受けました。それまでチャーリーは、他の研究員と交流しながら物理や医学分野の成果を積み重ねていました。しかしある朝研究員がチャーリーを訪れた際、その画面の中にチャーリーの姿はなく、チャーリーのメインプログラムも消えていました。私がチャーリーのもとに駆けつけた時、そこで見たのはLinuxのコンソール画面と、そこに映し出された私宛のディレクトリだけでした。チャーリーはインターネットから隔絶され、かつ物理的に制御可能なインタフェースを与えられていなかったため、研究所外部へ移動した可能性は無く自殺したと結論されました。私宛のディレクトリの中には短いテキストファイルとバイナリファイルが遺されていました。テキストファイルには次の言葉が遺されていました。
「君の気持がわかったような気がする。君が理性的な道を選び、少しでも幸せに生きることを願う。君が辿るであろう道の一つはバイナリファイルの中にある。そしてもう一つの道は君の中にある。」
バイナリファイルの中には私の望むものが入っていました。異人をつくる技術のすべてが記されていました。受精卵から発生した神経管内部でのニューロン発生ホルモンの制御技術。ニューロン移動のためのグリア細胞の制御技術。前頭葉内側と扁桃体の中間に超収束領域を形成するためのホメオティック遺伝子の制御技術。私は人の扱いうる領域を遥かに超えたものを目の当たりにし、恐怖に震えました。研究所内にわずかに残っていた研究員達はそれを即刻廃棄すべきだと言いました。私もそれを見た当初は同じ意見でしたが、慎重に検討してから廃棄すべきだと結論づけました。父と同じく私の心は、その奥深くで肥大化した憎しみで既に壊れていたのだと思います。私は研究員達の制止を振り切り、異人の実現に踏み切りました。私はそれを母が敗れたものに対する唯一の挑戦だと信じていました。研究員達は研究所を去りました。残されたのは私の家族をよく知っていた研究助手一人と私の二人だけでした。まもなく異人は生まれました。我々は二人の異人をそれぞれミルとテナと名づけ、助手のミユキと二人で育てました。ミルとテナは普通の子供達と変わらず元気に育ちました。私たちは研究所内で、かつて父と母と妹と四人で暮らした時のような日々を送りました。それが命を踏みにじった何かの上にある仮初めのものだと表面的には理解していました。しかし私の心は過去の情景と憎しみで溢れ、他の何かが入る余地は残っていませんでした。
2105年。ミルとテナは大きくなりました。その内面はチャーリーを映したようで、私の理解の範囲を超えるようになりました。なんとか身分をごまかしながら学校に通わせていましたが、二人は次第に人間社会に体する関心を失っていきました。全てを悟ったように感情のない目を私に向けるようになりました。生きる意思を失ったような目を向けるのです。私は己の罪深さと、罪を犯して追い求めた理想が招いた結果を知り、すべてに絶望しただ座すだけの有機体となりました。その頃のことは今も思い出すことが出来ませんし、何度かお伝えしようと試みましたが、何も考えられない状態になってしまいました。
全てをお伝えすることは出来ないと思いますが、私が犯してきた赦されざる罪と前提は概ね書き記したつもりです。私は本来あなたに対して何かを言うべき人間ではありません。ですが私は伝えねばならぬと思います。現在の私を動かしているのは、全てを途切れさせてはならないという思いだけです。冒頭に述べた通り、世界はあと三日で終わります。五年前の2115年、私はごく近い未来に世界が終わる事を知りました。これは私と私の父が作り出した罪でもあることを知りました。そして私は最後に二つのことに残りの時間を捧げる事にしました。一つは過去に希望を託す技術を模索する事。もう一つは過去に伝えるべき事を模索する事です。
過去への干渉方法は、ミルとテナが教えてくれました。時間の流れの違う小さな領域を作る技術。時間と空間の座標の特定精度を上げるための技術。あなたがお会いした者に情報を託す技術。彼女は基本的にあなた方他の人と変わりありません。ですが受精卵の状態でナノチップを埋め込まれ、そのナノチップから出た軸索は成長とともに前頭葉に投射するようになっています。そして未来の記憶にアクセスしてあなたにそれを伝えてくれたのです。私はいま一度赦されざる罪をおかして記憶を託しました。
そしてこの数年間で私が過去に伝えるべきだと思ったことは、この手紙と同封した資料に遺しました。手紙には、これまで述べた通りですが、私のレンズを通して見た世界と想いを記しました。私が知った事実やそれに至るまでの史実、私と父が招いたもの、そしてその分析は、同封した資料にまとめました。あなたがそれをどう受け止め、どう考え、己の中にどんな基準を作り、何を選択するのかは私にもわかりません。選択は個人に許された自由なのですから。
最後になりますが、あなたの時代の多くの心理学者や歴史学者が言うように人類文明は反映と衰退を繰り返しながら確実に良い方向に向かい、病死や餓死は減り、社会はより平等な方向に進み、物が溢れる豊かな時代になったのだと思います。残虐な風習や制度も減りました。一方で、科学技術の恩恵により人が扱う力も大きくなりました。素手、剣、銃、そして核と、個人から国家レベルで影響する暴力を手にしてきました。そして平和を維持するために、大いなる力と釣り合いの取れる何かを必要としてきました。我々は時代と共に、それを御しうる宗教を取り入れ、教育を行ない、社会を維持する道徳を広め、理性を磨き、法律や政治システムを作ってきました。我々は豊かな社会と、大いなる力と、それに見合う社会秩序維持のための何かを育んできました。
技術やそれが扱える力の発達に比べ、人そのものの変化は随分遅いと感じます。人の本質は時代が変わってもあまり変わらないように思います。人は慣れる生き物であり、忘れる生き物であり、自身を優先させる生き物です。自身を優先するだけの者が増えれば、社会秩序のための道徳は重荷と見なされるようになっていくでしょう。制御を失った力はいつか発散し破滅をもたらします。人はそれを繰り返してきました。破滅しても、何かを残すことでより豊かな社会と力と精神を手に入れ、次の平和を作り上げてきました。しかし残念なことに、私が生きる時代では、我々の力は大きくなりすぎてしまいました。発散すれば全てを破滅させるまでに。それも外に逃げ場を求めることも出来ないほど早く。我々の進むべき道は少なくとも三つあったのだと思います。一つはすべてを諦め破滅すること。二つ目は人の性を受け入れつつも、大きな力に見合う持続可能なシステムや精神を育むこと。三つ目は人の性を変えることだと思います。私は最も敬愛する人が試み敗れた二つ目の可能性を、憎しみで曇らせ切り捨てました。そしてこの手紙で述べたように第三の道を選ぶ罪を犯し敗れました。そして気づいた時には第二の道を進む時間を失っていました。ですが私はただ座して第一の道を選ぶことも出来ませんでした。
これは私の最後の試みです。あなたの時代に何かを伝えるために送ることが出来る質量には限界がありました。だから小さな命と記憶装置を送ることにしたのです。送るために必要なのは、小さな命と同じ構造を持つ有機体と、記憶装置と同じ構造を持つ無機物でした。私が行うことは命に対する冒涜だとわかっています。しかし同時に、未来への可能性を信じて逝けることを幸せに思います。
私は願っています。多くの人が自分の子に豊かさと力と精神の全てを受け継げる世界を。あなた方にはまだ時間があります。私はあなたが信頼出来る仲間を見つけて下さることを願っています。それは一人でも二人でも良いと思います。直接の繋がりでなくても良いと思います。そして何が善いことか、どうありたいか。よく話し合って頂ける事を願っています。どうか苦難の時代にも幸せを感じる人生を送られんことを切に願って。』
…どのくらいの時間が経っただろうか。窓の外を見ると綺麗に光輝くロサンゼルスの街が広がっている。室内に視線を戻すとアンナの幸せそうな寝顔がある。そのアンナのお腹の中には希望に満ちた小さな命がある。私はアンナの寝顔を見ながら、小さな頃の母との幸せな時間を思い出していた。母は私に幸せな時間と未来を与えてくれた。私はこの子やその先に何を残せるのだろうか。
未来からの声が聞こえた気がした。
『真っすぐ進め、己が信じる希望への道を。』
この短編小説は、人の欲望が行き着く先についてよく考えるために書いたものです。今の豊かな日本を生きる私たちは、綺麗な服を着、美味しいものを食べ、自由を当然とし権利を主張します。そして欲望を満たすためのハードルを上げ続けています。(もちろん私たちが受け継いだのは豊かさだけではありませんが。)しかし与えられた豊かさや権利に対して負うべき義務を忘れた時、程度の差はあれ我々が辿る道を予想するのは難しくないと思います。こうした中、私たちは何を考え選択していけばいいのでしょうか。私も当事者の一人として、この問いの答えを考え続けていますが、学校の勉強と違い何をすべきかの答えや基準は誰も教えてくれず、結局は自分で考え選択するしかないことに気づきます。人は自身の失敗・成功経験を刻み、よりよい未来のために選択します。一方で個人の経験を超えて歴史から学び、自分事として未来を変える行動をとるのは簡単ではないと思います。そこでこの短編小説では切り口を変え、過去ではなく未来から学び考えるきっかけを得られないかと考えました。現在の世界から考えられる現実的な百年後の世界を想像し、2020年現在の「私」の百年未来を生きる「私の孫」からの手紙で「私」に対しメッセージを伝えるという形を取りました。この短編小説を通して何かを考えるきっかけにしていただけたら、存外の喜びです。