ことごころ
指輪好きなの買ってあげるよ、と言われた私は急いで、好きな指輪など無い、と返事をした。何故だか焦っていた。目の前にいる男に、その先の言葉を言わせたくなかった。
それは買ってあげるという男の上から目線にムカついてしまったからかもしれないし、そもそも好きな指輪などないのも本当だからかもしれない。私はアクセサリーに興味が無く、普段から時計以外は身に着けない。昔、祖母の形見の指輪を持っていたことがあったが、着けたその日に無くしてしまった。何処かでスッポ抜けたらしい。形見を無くしてしまったショックは大きく、その日のお風呂反省会は3時間にも及んだ。そして私は、今度から絶対に、本当に大事なものは身に着けず保管しておこうと誓った。
「指輪付けないと俺のになんないでしょ」
私の左手を握りながら冗談っぽく笑って言う男に対して私は、たとえ指輪を付けたとしても君のものにはならないのに、と憎たらしく思った。思うだけで言わなかった。言ってしまえば、また喧嘩になる。
ぎゅっと握られた指が、重く強張っていくのが自分でもわかった。自分の頭と体が、まるで他人のように遠く離れているように感じた。
──これは、もしかしたら、いや、もしかしなくてもプロポーズだ。
こんなに喜べないものだとは思わなかった。
嫌ってるわけではない。彼とはもともと古い友人で、付き合い自体は長い。年齢的にも結婚を前提にして付き合っていた。今だって一緒に出掛ける準備の途中だった。
──わからない。私は何故、こんなにも嫌なのだろうか。
男は笑顔のまま、こちらの様子を伺っている。言葉を待っているのか。私が結婚を嫌がっているとは夢にも思ってないだろうか。
私は、どうにかこのプロポーズを無かったことにできないだろうかと考えていた。今は結婚だとか指輪だとか考えたくない。何も返事をしたくない。せっかく今から映画を観に行く予定だったのに。しかも私が前から観たかった悪役が主役の映画だ。男とは映画の趣味があまり合わないのだが、今日は私に付き合う話になっていた。私は男から手を抜くように力を込めながら言った。
「今日の映画、何時だっけ」
だが手は抜けなかった。男の指に一層力が込められる。
「……まさかとは思うけど、この期に及んで迷ってる?」
話を変えようとしたのがバレバレだったらしい。訝しげな顔でこちらを見る男の顔には呆れと不信が滲んでいる。
「……何が問題?」
……それがわかったら苦労しない。私の頭には不遜にも、有難迷惑という四文字が浮かんでいた。結婚が嫌なのか君が嫌なのか分からないとはっきり言えたらどんなに楽だろうか。
「もしかして、まだ選択肢があるとでも思ってる?」
ああ、またこれか。……説教、そして、争いの気配が濃くなる。
「余計なことばっかり考えてるから、人生進まないんじゃないの?」
……この男の正論は、いつも私を追い詰める。本質を捉えて相手を追い詰めるのがとても上手いのだ。この男は、私が考えることは全て取るに足らないことなのだと私に理解させる為に、今までかなりの時間を費やしている。私が無能だと、お前は俺がいないと何にも出来ない人間なのだと、言葉を尽くして言い聞かせるのだ。
「結婚して、子どもを持って、初めて大人として社会で認められるんだよ」
お決まりの文句。お定まりの常識。私の中の偏屈な部分が鎌首を擡げはじめる。
──社会人になってからの“結婚”、そして“家族”とは、パーソナリティの説明も兼ねる。‘’自分を中心に安定して成立している家族‘’が、安定したパーソナリティを語り、安定した仕事、関係を約束する。周りにそう期待される。
無理、とはなかなか言えない。社会不適合者だとわざわざ告白するようなものだ。自分は不安定では無いとわかっているのに不安定だと思われるに決まっている。だから対外的には、いつかは結婚したいと思ってますよ、というスタンスを取る。
だがそろそろその言い訳も使えない。何故なら私はいい年なのに独身だからだ。
さっさとすればいいのに何故しない? パートナーがいるいい年の大人はこう言われる。
(その理由は様々だろうが)パートナーがいないのにいると言った場合もそう言われる。
特に理由はないと思っていた。したくなればすぐ出来るとも。だが今はっきりとわかるのは、私は結婚したくないという気持ちだった。
……もう言ってしまおうか。今日の映画は無かったことになるだろうし、これから何時間にも及ぶ説教が待ち受けているのだろうが言ってしまおうか。君と結婚したくない、ほっといてくれ、と。だが私の口から出たのはこの言葉だった。
「わかれよう」
男は溜息をつく。またか、と呆れた顔をしている。……まぁそうだろう。プロポーズをしたら何の説明も無しに別れ話になったのだから。
実のところ、今まで何度か別れ話をしている。全て私からだ。それでも別れていないのは、ひとえに彼が辛抱強すぎる故だった。私が別れ話を切り出すと、話し合うことで解決出来ない問題は何一つないとでも言うように、何時間だろうと私が諦めるまで拘束した。
「……いや、別れない。何で別れる別れないの話になった?映画行くんでしょ?」
そう。それなのに君が指輪だのなんだのって言うから。
私は男に取られた自分の手を思いっきり引く。あと少しで抜けそうだったのに、今度は腕を取られぎりぎりと握られた。私はもう逃げたかった。この男がいない場所に。だが男が腕を握る力はどんどん強くなっていき、私はとうとう痛みで顔を顰めた。逃げようと腕を引く私を宥めるように男が言う。
「待て、待て。話を聞け、真面目に」
「じゃあ、これ離して」
「じゃあ逃げようとするな」
「痛いんだって」
「逃げないか?」
「離して」
「……そうやって駄々をこねれば手を引いて貰えると思ってるのか?」
私は答えられなかった。男の言ってることはわかる。私がこうして聞き分けのない子どものような扱いをされる理由も。惨めすぎて涙が出てくる。
私が諦めたように力を失くすと、男の手もやっと離れた。だが掴まれていた二の腕がジクジクと痛む。きっと明日、青痣になるであろう痛みだった。男は長い溜息をついてから、私にゆっくりと話し始めた。
「……そんなに泣くほど嫌ならいいよ、結婚は。俺だって別に結婚しなきゃいけないわけじゃない。お前が不安だろうと思ったから言っただけ」
……そのせいで泣いたんじゃないんだけどな。男はそんな私の気持ちにはお構いなしに、私の手を引いて長椅子に座らせた。そうして自分は対面の椅子に座る。そして滔々と自分の苦労話を始めた。
仕事の話(忙しくて目が回るが俺がいないとどうにもならないから仕方ない、いいよなお前は重要なポジションにいないから、等々)。
同業者の話(本当になってない。俺ならあそこを使わない。何にも分かってない。成功してるふりだけ上手い、等々)。
家族親戚の話(くだらない奴ばっかりだけど世の中には認められてる。結局数字が全て。俺もそう育てられた。辛かったけど間違ってはいない、等々)。
いつものやつだ。不幸風の自慢話。私は呆れた。もう何回目だ、この話。
私は聞いているフリをする。男も私のフリに気付いている。勿論気に食わないのだろう。だから話をやめないのだ。
もちろん、彼が私とは比べ物にならないほど頭も体も忙しいことは知っている。今日だって無理やり休んだようなものだ。この発言に至るまでの経緯は想像するに余りある。だが聞くのが辛かった。何故辛いのかは分からなかった。一筋縄ではいかない自分の心に苛々した。
男の話は二時間程続いた。そして最後にこう言った。
「……でもさ、ここで決断出来なきゃお前はお前の親と同じようなろくでもない人生になるよ。俺が保証する。それに、愛だの恋だのって言ってられる歳でもないでしょ、俺たち。マイノリティがステータスだとでも思ってる?」
途端に私の胃が底に落ち、その隙間を埋めるように一遍に感情が押し寄せた。箍が外れるとはこういう事を言うのだろう程の激流だった。怒り。怒り。怒り。悔しさ。そして悲しさ。言葉にならない感情は、涙と嗚咽となって溢れた。同時に私は自分の幼い頃の家族を思い出していた。
私の親は、親としての機能を果たしていなかった。“居ないほうがいい父親”が時々家にいて、実の母親はいなかった。私は祖父母の養子だった。
幼い頃は世界に対する呪いにあふれていた時期もあったが、今では不幸が当たり前のことで、幸福が特別なことなのだとわかるくらいには分別がついた。感傷的なことを言えば、幸も不幸もだれにでも訪れているし、それは何層にも重なり人生に横たわっているのだし、総合的な判断など死ぬときにしか出来ないだろうし、もしかしたらそれどころではなく出来ない人のほうが多いかもしれない。(総合的、という言葉は少し適切ではないかもしれない……人間その時その時の感情に支配されている。死ぬとき、その一瞬の感情が総合的だという幻想かもしれない)
はたから見たら幸せそうな家族が、実は本当に幸せであることもあれば、家族としては機能していない場合もあることも知った。世界が拡がり、家族との繋がりも殆ど無くなった。世話してくれた人は皆死んだ。親から連絡でも無い限り(それは大体金の無心なのだが)、嫌なことを思い出すことも減っていった。
そんな私自身酷いと思っていた家族をも否定された時、心で一番幅を利かせていたのは、間違いなく怒りだった。自分ごと否定されている気がしたのだ。そして、私はまだ、幼い頃の家族にとらわれているのだと気が付いた。
何度、過去は切り捨てろと自分に言ったかわからない。“家族なんだから”という言葉は、昔から大嫌いな言葉だった。“家族なんだから”苦労を押し付けられて当然だとでも言いたいのか、と。私の知らない所で消えてくれと何度願っただろう。……それでもなお、絡まってくる家族という呪縛のようなものを捨てることが出来ていなかった。
……ああ、そうか。
だから私は、新しく家族を作ろうなどとは思えないのかもしれない。生物は自分が育てられたようにしか育てられないと聞く。岩にぶつかって死んだカモメの親は、岩にぶつかって死んだ可能性が高いらしい。岩の回避の仕方を子どもに教えていないのは、親ですらその回避の仕方を知らないからだ。もちろん回避の仕方を自分で覚えるカモメもいる。だが私がそのカモメだとは思えない。わざわざ愚かなカモメを増やす必要はない。不幸を増やしたくない。自分以外の人間の不幸の責任を取れない。私自身が新たな呪縛を作ってしまう可能性が高い。
……それに、子どもを産んで育てられる余白が私の人生にあるとも思えなかった。そして恐らく、私にはその能力が無い。誰の期待にも応えられない。
私は泣きすぎて痛みはじめた頭で、ぼんやりと目の前の男のことを考えた。
彼は智に働いて角が立つを地でいく人間で、それをなんとも思っていない強さがあり、智に働けもしない人間を馬鹿にしているのを隠そうともしない。
私は逆に、情に掉せば流される人間で、私を馬鹿にするこの男を面白がりながらも見下して、心の平穏を保っていた。お互いがお互いを馬鹿にして見下して、思えばなんと無理のある関係なのだろうか。
だが少なからず尊敬していた。それは事実だ。頭の回転が速くて強い人だ。口数は多いし性格は悪いが、私は彼の知性に惹かれたのだ。彼と話をするのは楽しかった。
そして、彼は私を尊敬してはいない。それも事実だろう。彼は私のことを一体なんだと思っているのだろう。どうしてこの人は私を痛めつけるのだろう。
敵か味方かと聞かれたら、今は間違いなく敵だと思えた。どこまで叩いても復活するものだと思っているのだとしたら、私の耐久度を過信している。それとも私を鍛えているつもりなのだろうか。……これからも一緒にいるために。
そう考えて私は背筋が凍った。結婚という契約をしてしまえば、これからも、これが、一生続くのか。
……無理だ。これがずっと、この先も続くだなんて無理だ。
いつか壊れる。私が。私の頭が破れてしまう。
「……落ち着いたら飯でも行こう。映画はまた今度にすればいい」
男は男で落ち着いたのか、優しげな口調に戻っている。
だが、違う。もう嫌なんだ。もう無理なんだ、君とは。
君との子どもを育てていくなど考えられない。君も私も、子どもを作ってはいけない人間だ。考えてはいけない。新たな不幸を生み出す行為だ。
……かと言って私が他の誰かと上手くいくとは思えない。ここまで私に執着する人間は他にいなかった。
ありがとう、こんなに執着してくれて。
君以上に私のことをここまで傷付けられる人間は他にいない。
だがもう二人に問題が無いフリはもう出来ない。
自覚してしまった。
この勝負はもう負けだ。私たち、二人の負けだ。
今まで何度も君を傷付けた。
私が君に傷付けられたと思うたびに。
防御反応だった。
君に傷付けられた分だけ君を傷付けたかった。
これはどちらが先だったか、という話でもないのだろう。
争いの歴史は、大義名分論の歴史でもある。
君には君の、私には私の大義名分がある。
でももうこれ以上、君が傷付く顔は見たくない。
今までの喧嘩で言ってしまった言葉は全て私の本心だ。
君が変われないように、私もきっと変われない。
そしてこれは情なのか、愛情なのか、分からない。
だがきっとどっちも似たようなものだろう。
どうすればいい。どうすればわかってもらえる。
「どこか買い物でも行こうか。なんか欲しい物ある?」
私は首を振る。物じゃないんだ、欲しいものは、君の魅力は。
私が好きだった人を貶めるのはやめてくれ。
物で、私の心変わりを誘うような真似はやめてくれ。
「ほんと、お前の拗れ方は可愛くないね」
そう言って男は困った顔で笑う。
譲歩してくれている。私の拗れた頭に。
分かっている。分かっているからこそ、こうして別れ難く思いはじめてしまう。同時に、共有している場の流れを相手に預けない隙のなさを感じる。
「不満を言い合ってもキリがないよ。お前の悩みは俺の悩みじゃない」
……そして君の悩みは私の悩みではない。分かっている。そして同時に思う。──これは自分の価値観を彼に押し付けていることになるのだろうか。申し訳ないという気持ちが途端に溢れる。
例えば今すぐ自分のくだらない考えを押し込めて、私が彼に結婚を申し込んだとしたらどうなるのだろう。幸せになろうとすればなれるのだろうか。世の中の人間は、どうやって結婚を決意出来ている?幸せになるという確信など誰にも出来ないだろう。あるのはきっと、幸せになろうとする決意だ。私にはその決意がないから出来ないのだろうか。
彼はもうきっと呆れている。結婚したい気など失せただろう。言っても今は断られると思うと、また胃が捩れた。……私は、こんなに勇気が要ることを彼にやらせて、あまつさえ泣いたのか。私は不幸に酔っ払ったあげくに、大人になりたくないと泣く子どもなのかもしれない。傷つきやすく、柔らかく、そしてみっともない、幼稚な心だ。
私はとりあえず、シャワーを浴びてくると言って席を立った。男はテレビをつける。途端に有名な俳優の不貞のニュースが流れた。
世の中には変わらないでいられることなど何も無いのだろう。幸も不幸も、捻れて捩れて、世の中に複雑に絡んでいる。結婚は点の一つに過ぎない。だからきっと、全ては心持ち次第なのだ。不幸にあっても幸福だと思いこめる心が健全だとは思えないが……。だが結婚しなければ先に進むことが出来ないのか?子どもがいなければ人間として不完全なのか?
ぐるぐると考えを巡らせながら服を脱ぐと、強く握られた二の腕に赤い痣が出来ていて、触ると少し痛かった。明日にはこれが青くなり、そして段々と薄くなり、何事も無かったかのように見えなくなる。幾度もの争いの後、何でもない顔をして彼と付き合っていた私のように。
浴室の白い蒸気の中を、細い雨のような水がずっと降っていた。