一ノ世界の旅人さん
家への帰り道は憂鬱だった。なぜかといえば、今日返ってきた数学のテストが98点だったからだ。
間違えたのが大問1の(2)番、先生が0点を取るものがいないように作ってくださったサービス問題だったのが憂鬱さに拍車をかけた。
練習では一度も間違えなかった場所だったのに間違えてしまった。
だから、わたしは駄目なんだ。
わたしはいつも本番に弱い。父様がわたしのためを思って怒ってくださっているのに、怒られて、殴られて、夕飯を抜かれるのが、怖くて、こんな小学生でも解ける問題を間違えてしまった。それもよりにもよって父様がいつにもまして不機嫌なこの時期にこんなミスをしてしまった。
母さんが家を出て行って以来、冬になると父様の機嫌が悪くなる。そんな傷心の父様の前で父様が気に入らない不甲斐ない私でいるのが嫌だった。
鳥肌が立ったのは寒さのせいではなさそうだ。
木枯らしが吹いた。
顔にかかる風も不快だ。
「ねえ、そこのキミ。ちょっといいかな?」
後ろから声がした。ここは他に人気のない道なので、おそらくわたしに声をかけたのだろう。
「あの、どちらさまでしょうか?」
ここまで判断して反射的に答えてしまった。
わたしは駄目な人間、いや、人間未満だ。知らない人と話してはいけないという父様の言いつけを破って、つい返事をしてしまった。
「まだ、キミとボクとはショタイメンだ」
その人は中性的な声と顔つきをしていたので性別は分からなかった。ただ目と声は優しかった。
その人は黒いマントで全身を覆っていた。
「ボクは旅人 マガリだ。キミのコトはなんてヨべばいいかな?」
「マガリ…さん?」
変わった名前に少し面食らった。聞き間違えではないのか気になって思わず聞き返してしまった。だから私は駄目なんだ。
マガリさんは微笑んだ。
本当にマガリという名前なのか不審に思ったが日本人放れした風貌から海外の方だと辺りを付けて納得した。
「わたしは高槻ですけど、何か……?」
わたしは首をかしげながら言った。
「Ms.高槻 キミはナニかホしいモノがあるかい?」
「欲しい物ですか……?ちょっと分からない。 お役に立てなくてごめんなさい」
わたしはなぜかマガリさんの言葉についつい答えてしまった。
この質問はアンケートでもしているのだろうかと気になった。
ここで、冷静になって改めて考えてみると、全身黒いコーデの名乗る性別不詳の人は普通は間違いなく変質者か不審者と言われることに思い至った。
欲しい物を言ったらそれを餌に誘拐しようとしてくるとかなどといったあまりに幼稚すぎる手口が脳裏をよぎったが、高校生相手に手口が幼稚すぎるのでそれはないだろう。
とりあえずわたしはマガリさんの元から立ち去っていこうとした。その時、さっきまでの不安がかなり和らいでいることに気がついた。
マガリさんは不審者で変質者だが、礼を言おう。
「マガリさん、すこし楽になれました。ありがとうございます」
マガリさんは唇を尖らせて不機嫌そうにこう言った。
「そうかい、ソレはヨかった」
マガリさんの尖った唇が魚みたいだったのが妙におかしかった。
「ふふふっ、すいません。ちょっと、おかしくて。ふふふっ」
これがツボに入るというものなのだろう。唇を尖らせるという何気ない動作が妙におかしかった。
笑ったことで欲しい物に一つ思い至った。
「自由な一日。わたしは何の予定も入っていない一日が欲しいです」
テストとか勉強とか父様の事とかがどうしようもないほど馬鹿らしくなったので、自由な一日を欲しいだなんて言ってしまった、夢みたいな話だからこそ言葉にする抵抗が薄かった。
「承知した。Ms.高槻、満月の下まっさらな24時間を与えよう」
マガリさんは間髪入れず両手を大きく広げながら答えた。
マガリさんは冬の暗闇に消えた。
消えた途端、耳鳴りがした。
木枯らしの音がした。心なしかマガリさんと話している間そういう雑音は聞こえなかった気がする。
マガリさんは不審者だったのか、変質者だったのか、妖怪だったのか、知りようがないが、一つだけ確かなことは心臓の脈打ち方が半端じゃないってことだ。
「なんだったんだろう、今の」
わたしはそう正直な感想を述べてから足を家へ向けた。
その足取りは不思議なほど軽かった。
家の扉のノブに手をかけた。すると途端に幸せな気持ちは消えた。
わたしは憂鬱な日常に戻ってしまったのだ。
「ただいま」
大きな声で挨拶した。
父様は小さな声で挨拶するとぶつことがある。
だから、挨拶は大きな声でしなければならない。
「おかえり」
むすっとした声が返ってきた。
この声の感じは二番目に機嫌が悪いときだ。
父様が一番機嫌が悪いときは、優しげな声になる。この時期で甘い声じゃないのは幸運だ。
わたしは、靴を脱いで靴箱に入れた。
「今日は数学のテストが返ってくる日だったな。満点だったっか?」
父様は静かにおっしゃった。
「一問、間違えてしまいました」
わたしは、少しでも心証をよくしようと、少しでも丁寧に、少しでも反省していると思われるように、言葉を振り絞るように言いました。
「笑えない冗談だな」
父様は、そうおっしゃり表情をピクリとも動かさずにお酒の入ったグラスをわたしに投げられた。
わたしは反射的に目を閉じた。
「イマ、Ms.高槻にシなれてはコマる」
目を開くとマガリさんがグラスを持っていました。
なんで、マガリさんがここに?
でも、とりあえずお礼はしなければいけない。助けてくれたようだから。
「あの、その、あろがとうございます」
ただ、事態に付いて行けずたどたどしいお礼になってしまった。
「どうです、Ms.高槻。コノ男をドウしたい?」
父様は動きを止めてられていた。
今、この世界にはわたしとマガリさんしか動いていないみたいだ。
まるで時が止まっているみたいだ。
「えっと、どうしてここまでわたしのためにしてくれるんですか、マガリさん?」
思い返せばこれまでわたしなんかにここまでしてくれた人間はいなかったように思える。
なのに、マガリさんが、どうしてわたしなんかのためにこんなことをしてくれるのか不思議だったので思い切って聞いた。
「Ms.高槻、キミが主人公だからサ」
マガリさんの口から意味深なワードが出てきた。
「えっと、主人公ってなんですか? それと、わたしがもしも仮に主人公だとしてもなんでマガリさんは助けてくれるんですか?」
疑問が次から次へ口からあふれた。
「Ms.高槻、主人公とはヒトつの世界に一人しかいないキチョウなソンザイで、ボクがベツの世界へイくためには主人公のテツダいがカかせないのサ」
「手伝いって?」
「満月の下で、Ms.高槻 キミのホしいモノをササげることでボクはツギの世界へイけるのサ」
マガリさんの言葉には一つ矛盾というか疑問というか謎があった。
「あれっ、でも満月の下で自由な一日って不可能じゃない?」
そう、わたしは自由な一日をマガリさんにねだった。でも、自由な一日は満月の下で完結することはありえない。
「イマのようにトキをトめて自由な二十四時間をツクるツモリだったんだ」
わたしは絶句した。わたしの現実からかけ離れすぎたことが多すぎたからだ。
「それで、ハナシをモドそう。Ms高槻キミはコノ男にドウなってホしい?」
「えっと、その」
わたしは息を大きく吸い込んだ。
「わ か り ま せ ん」
そうやって、言葉を吐き出した。
「ソウかい。Ms.高槻、キミにトってコノ男はナンなんだい?」
父だ。保護者だ。親だ。いろんな言葉が頭を渦巻いた。
でも、そのどれも口に出すのは躊躇われた。
理由は言葉に出来そうにない。
「Ms.高槻、キミがイいたくないのならコノ男に聞こうか」
また耳鳴りがした。
父様が動きを取り戻された。
「だから、お前は駄目なんだ。……………………誰だお前?泥棒か?出ていけ!!」
父様はそういうとマガリさんに殴りかかられた。
反射的に右手で腹を守ってしまう。
肘に拳を当てればそんなに痛くないけど父様は怒られるんだよな。
「一つ教えてクダさい。あなたは、Ms.高槻のナンですか?」
マガリさんは消えた。かと思うといつの間にか父様の後ろにいた、
「何言ってんだ。高槻は俺だ」
父様はそうおっしゃりながら、一瞬首をかしげられた。
父様がわたしと目が合われた。
「そいつは俺の娘だ」
後ろを振り返られながらマガリさんに拳を振るおうとなされた。
「オヤコでしたか。Ms.高槻、ハナれましょう。キミのオヤはコウフンしている」
マガリさんは父様の拳を避けながら指を鳴らした。
パチンと鼓膜に響いた。
尻に違和感を感じる。
いきなり暗くなったのか目がぼやける。
どうやらわたしは座っているようだ。
目が慣れてきた。
ここはいつもの学校の教室のようだ。
蛍光灯は消えているが、窓から入る月明かりで意外と明るい。
わたしはわたしの机に座っていた。
マガリさんのことは夢だったのだろうか。
学校の壁にかかった時計を見ると7時を回っていた。
腕時計は先月父様が壊された。それ以来新しい腕時計をねだるのは躊躇われた。
今から30分以内に家に帰れはしない。
門限を破ってしまった。
わたしは携帯を持っていないので父様に弁解するには駅前の公衆電話を使う他ないが、残念なことに良い言い訳を思いつけない。
正直に学校で寝てたというわけにはいかないし、病院に行ってなにか診察を受けてみて、待ち時間が予想外に長かったという言い訳はどうだろう。
一体、いつからが夢だったのだろう、まさか授業中も寝てたりしないだろうか、でも数学のテストの間違いは夢であればいいなどとたわけたことを考えだしたわたし。
だが、ここにいても意味はないのでとりあえず動こうとした。机の横にかかっているはずのかばんを取ろうとするとかばんがなかった。
足に違和感を感じたので確認したら靴を履いていなかった。
この高校は土足制で今日は体育もなくて靴を脱いだのは家だけのはずだ。でも、学校と家を往復しているはずは時間的にありえない。だが、さっきまでのが夢ならわたしの靴がない説明がつかない。
「すまないね。Ms.高槻、ゴウインなテをツカってしまった」
後ろから声がした。
振り返るとマガリさんがいた。
つまりさっきまでのことは全て現実でマガリさんの不思議な力で学校へ瞬間移動したということだろうか。
そんなことが出来るマガリさんはいったい何者なのだろう。
マガリさんは自分を旅人と言っていた。マガリさんは別の世界へ行くと言っていた。
つまり、マガリさんは別の世界から来て別の世界へ旅をしている旅人ということなのだろうか。
つまりこの疑問を要約して聞いた。
「マガリさんは異世界人なんですか?」
「異世界人、そういうヨびカタもデキるね」
マガリさんがわたしの推測を認めてくれたことで胸の中に安心が広がった。
「マガリさんはどんな世界から来たんですか?」
次の疑問をマガリさんにぶつけた。
「ボクの世界はどんなトコロなんだろうね?」
マガリさんは自分の世界を知らないのだろうか。心なしかマガリさんは少し困っているように見えた。
「マガリさんは自分の世界を知らないんですか?」
「ウまれたときから、ボクは旅人サ」
「辛くないんですか?マガリさんは」
「これがツラいのか、ボクにはワからない、ワかりようがない」
「そうなんだ。そういう物なんだ」
考えてみれば携帯電話を持っていないわたしは携帯電話のありがたみを知らない。
それと同様にマガリさんには世界に永住する苦労も喜びもわからないのだろう。
そんな事を考えながら何の気なしに呟いてしまった。
「わたしも旅人になろうかな」
「ボクは旅人 マガリだ。キミのコトはなんてヨべばいいかな?」