残暑厳しい秋の午後
俺は1人、メモを片手に歩いていた。
もちろん完全装備である。
神の剣は右手用、勇者の剣は左手用に背負っている。
メモには
『西に進み山を南に迂回して
川に出て左手に川を見ながら橋まで進み
橋を渡って西に進むと
大きな酒蔵に辿り着く』
と書いてあった。
そう、俺は酒蔵を目指して歩いていた。
徒歩で往復4時間程度の道程を若女将が酒を仕入れに出掛けてから2日目。
心配した大将(若女将の旦那)が迎えに出掛けてから18時間。
そろそろ冒険者に依頼しようと思っていたところに俺達が現れたと言う事だった。
幸い俺は冒険者協会とは無関係で女将が別の冒険者に依頼しても問題になる事は殆ど無い。
もし俺が5時間以上戻らなければ他の冒険者に依頼しなおす事になっていた。
仲間がお世話になっているお礼にと引き受けた事もあるが、自分の力試しも兼ねて依頼料は一切請求しない話をつけてきた。
ともあれ、2人とも陸路で行き、ルートもそれ以外無いと言うので、途中ですれ違う心配はほぼ無いそうだ。
片道7km程度の平坦な道程で、迷ったり事故にあったりする心配もそれ程無いと言う。
最初の山を南に迂回すると川が見えてきた。
大河と言うほどではないがそれなりの広さと深さはありそうだった。
メモの指示通り川を左手に見ながら西へ向かう。
少し歩くと川に架かる橋が正面に見えてきた。
なかなか大きな橋だった。
コンクリート製で幅10m、長さは50m程だろう。
橋の手前には詰め所があり、重装備の衛兵が6人程詰めていた。
詰め所の前にはかなり長い十文字槍が立て掛けてあり、物々しい雰囲気を漂わせていた。
俺がメモの指示に従いその橋を渡ろうとすると、慌てた様子の衛兵が3人、詰め所から飛び出してきた。
1人は槍を持ち出して、こちらに向けて突き付けて来た。
「今ここを渡るのは危ないからやめなさい」
「どっちかと言えば、俺の生涯でこの橋が必要なのは今だけだと思うんだが」
俺は衛兵の静止の声に咄嗟に反論していた。
しかも危ないのはお前達の方だろう、と俺は思った。
まさか反論されると思っていなかったのだろう。
困って詰め所の中を覗き込む衛兵達。
「なんだなんだー?」
中から出て来たのはオルソ程では無いが巨体で、全体的なイメージとしてガラの悪い感じの男だった。
十文字槍を手に取ると、これみよがしにグルグルと両手で回すと俺の鼻の先に鋒を向けて来る。
民を守る事を生業とする衛兵の、民に対する随分と高圧的な態度に俺は少しカチンときていた。
「対岸に仕事で用事があるから橋を渡りたい」
槍の鋒越しに大男を睨み付ける。
「橋を渡りたいのがお前だけだと思うなよ」
要するにみんなここで足止めされていると言う事だろう。
「あれを見な」
大男が突然大空に向けて槍を突き出した。
空を飛ぶ巨大な鳥の様な物が見える。
ブブブブブブ
それが近付くにつれて羽音が大きくなって行く。
「まさか」
巨大な蜂?
頭の先から尻の先までざっと見た感じ1m以上あるだろう。
サイズはともかく見た目は完全にアシナガバチだった。
「その“まさか“だ。奴等、橋の下の鉄骨に巣を作りやがった」
大男の説明通り、蜂は橋の下にあるであろう巣に戻って行った。
「で? お宅達は蜂を放ったらかしにして民に槍を突き付けてるって訳か?」
今日の俺は思った事が口を突いて出るみたいだ。
「俺達を雇っている人が、退治出来ないなら人を通すな、と命令しているからな」
これは半分は人災だ。
この衛兵もどきは個人が雇った冒険者の類いだろう。
腕の立たない“なり損ないのチンピラ“は魔物退治を投げ出して民衆の足止めを始めてしまった、と言う事だ。
「とにかくこの橋は俺達が預かってるんだ、どうしても向こう岸に渡りたければ泳いで行くんだな」
いつの間にか全員出て来たゴロツキ達が「ヒッヒッヒ」みたいな笑い声をあげる。
チンピラ博物館かよ。
この世界の仕組みはまだ良く分かっていないが、恐らく怪我をさせると、法とかそういう意味で面倒な事になるのだろう。
しかし、目の前の槍がどうしても気に入らない俺は大人しく引く気にはなれなかった。
「それで? 羽虫も切れないなまくらを見せびらかして嬉しいのかい?」
俺は大男を挑発した。
大男のこめかみに血管が浮き上がるのが見えた。
比喩的な表現としてはありがちだが、実物を見たのは初めてかも知れない。
「抜きな、飾りで背負っている訳では無いんだろう?」
大男が俺の背中の剣を見て言った。
「抜く程の価値があるのかは知らんけど」
俺は大きく1歩下がりながら、右手で神の剣を抜いた。
大男の槍が真っ直ぐに俺に向けられているのを一瞥して、俺も同じように剣を突き出して見せた。
「見ろ、アイツ剣の使い方も知らんのか!」
取り巻き共が俺の構えを見て嘲笑の声を上げたが俺は全く取り合わなかった。
「それが貴様の構えか? 手加減はしてやるつもりだったが気が変わった」
大男は右足を前にして体の前で楽な姿勢で構えていた槍を持ち替え、左足を前に出し、槍の柄の端を持った右手を限界まで後ろに引き絞った。
一撃必殺の突きでも打つのだろう。
俺はつまらない見世物を見せられているような視線を送り、何の工夫も駆け引きもなく1歩、歩き出した。
あまりに無造作過ぎて反応出来なかったのかは不明だが、普通に歩く2歩目が地に付くまで大男は微動だにしなかった。
間合いとしては、充分過ぎる程、大男の槍の間合いだった。
我に返った様に槍を突き出してくるが俺は構わずもう一歩踏み出す。
俺の剣の右を縦十字ですり抜けた槍は大男の右手のスナップで素早く90度捻りを入れて横十字に変化した。
敵の剣をすり抜けた後で首を刈り取る必殺の一撃だった。
俺は左足を40cm程左に踏み替え、大男の槍を紙一重で回避した。
突き出した剣はそのまま大男の鼻先に向けたままだ。
大きく踏み込んで来た大男は勢い余って俺の剣の先端で鼻の頭に軽い刺し傷を作った。
慌てた大男は引く槍で俺の後頭部を狙いながら後ろに跳んだ。
さっきの突きと比べれば、いくらかは鋭かったが正直に言って、あくびの出るような退屈な攻撃だった。
俺は大男に向けた剣を手首の返しで左に翻し、左足を大男の方に1歩踏み出しながら槍の柄に剣を振り下ろした。
重い槍頭が急に無くなり、バランスを崩した為に豪快に転倒する大男を見下ろしながら、俺は背中の鞘に手早く剣を収めた。
俺つえぇ。
勇者御一行様が強過ぎてイマイチ実感が湧かなかったが、一般的に考えると俺相当強いんだな。
俺はたっぷり1分間、無言で大男を睨み付けてから取り巻き共に目を向けた。
恐らくこれ以上無いくらい目付きも悪く、不機嫌そうな顔をしているのだろう。
目の合った取り巻き共が口々に悲鳴をあげながら逃げて行った。
実に情けない。
俺は大男に視線を戻すと左手で勇者の剣を抜き、全力で振り下ろした。
大男の指スレスレの所に振り下ろした勇者の剣は、大事そうに掴んでいた槍の柄を簡単に切り裂き、地面を30cm程えぐった。
思ったより威力が無いな。
俺は右手で神の剣を引き抜くと大男の握った柄の反対側に叩き付けた。
振り始めは軽く、振り下ろしている間はとてつもなく重い。
槍の柄はもちろん真っ二つだが、70cm程ある神の剣の刃は全て地面に埋まり、こちらは思った以上の威力だった。
なるほど。
実験の結果にほぼ満足していた。
「あぁ、どうでも良いけどあんた、動いてたら指が無くなるところだったぞ」
俺はかなり投げやりに大男に声を掛けたが、いつの間にか気を失っていて話を聞いてはいなかった。
「はぁー」
俺は大きな溜息をついた。
シャーロッテとレフレッシ、2人が少しいないだけでこんなにも心が荒んでしまうものかと俺は思った。
俺は目を閉じて自嘲気味に首を横に振った。
目を開けると目の前には子供たちが集まっていた。
目を閉じていても気配で察していた俺には、特に驚きも無かった。
「兄ちゃん凄い!」
少年達が憧れの目で俺を見ているのが分かった。
そう、民衆は常に『弱きを助け強きを挫く者』に憧憬するのである。
弱き者から搾取する者は、いつか現れる勇者を引き立てる為だけに存在している。
そういう意味ではお互いに自らの役割を全うしたと言えよう。
「あの、お兄ちゃん」
俺の右後ろから静かに近付いてきた少女が遠慮がちに声を欠けてきた。
その子は10代前半の黒髪のロングヘアーの持ち主で、レフレッシに少し似た感じの少女だった。
俺の腕を握るその手からは、遠慮がちな態度とは裏腹に、絶対に離さないと言う意志が伝わってきた。
俺は初対面と思えないその子の手を振り払う気にはなれなかった。
「どうかしたのかい?」
俺はこのひとり旅で恐らく初めて微笑んだ。
彼女の名前は“さくら”。
物心ついた時から父親と2人暮らししているそうだ。
父親は道先案内の仕事をしていて、決して裕福では無いが幸せに暮らしていたそうだ。
ところが昨日急に道を封鎖され、彼女の父親は『橋を渡らないルートで対岸まで行きたい』と言う男の依頼を受けて夜中に西へ向かったらしい。
時間から考えて宿の大将の可能性は高い。
「いつもなら2時間もすれば帰って来るのに、パパに何かあったらどうしよう」
昨日の夜出掛けて今が正午過ぎ。
何も無い、と言う訳には行かないだろう。
年端もいかない少女の親がいなくなるというトピックに何故か心が痛む。
「俺が君のお父さんも探してあげるよ」
「あの、私も一緒に行って良いですか?」
俺が引こうとした腕を、さくらは離そうとしない。
「怖い思いをするかも知れないよ?」
俺の言葉に、さくらは真っ直ぐに見つめ返してきて、コクリと頷いた。
彼女の事も守ってやらなければ。
これは責任重大だ、俺は心の中で呟いた。
さくらの案内で橋から西に500mほど川を遡った。
そこは川幅が広く、流れが穏やかだった。
中洲もあり、これなら歩いて渡れそうだ。
「橋を使わないならここを渡る筈です」
さくらはそう言うと手早く靴を脱ぎながら川に入って行った。
薄手のキュロットスカートを捲り上げなくても濡れない程度の水深だ。
俺の靴は防水処理が施された革製の長靴に、鎖かたびらを組み合わせた構造になっていて、長靴より浅ければ問題無く歩ける。
俺はそのまま、さくらの後ろを歩いて渡った。
中洲にはこぶし大の砂利が転がっていて、なかなか歩き難い。
ふと橋の方を見ると、橋の下の巣にぶら下がる体勢で巨大な蜂が8匹、何かの作業をしている。
巣はまだ作り始めたばかりで、蜂の大きさから考えればそれ程大きく無いのだろうが、それでも橋の近くを通る人間と比較して直径10m程あるように見える。
レフレッシがいたら一瞬で炭に出来ただろうが剣で巣の始末をするのは難しそうだ。
中洲をわたり切り、残りの川も渡ろうとさくらが川に足を入れようとした時、さっきの羽音が聞こえてきた。
さくらの体を引き寄せて頭を低く下げさせた。
西の山の方から飛んで来た巨体蜂は俺達の頭上を飛び越して巣へと戻って行った。
近くで見ると中々の迫力である。
巣に戻った蜂が俺達に襲い掛かって来る様子が無い事を確認して、俺達は川を渡った。
「パパ!」
さくらは橋脚の裏側を見ると小さく声を上げる。
橋脚の陰で身を潜めている2人の男の姿を見た俺は、覚悟を決めるしかなかった。
まだ残暑の厳しい秋の午後、俺達の肝だけはキンキンに冷えていた。