始まりの朝
薄くモヤがかかった肌寒い朝だった。
陽射しはほんのりと暖かく、冷えた肌に染み込んでくるようだ。
ふぅ、と溜め息をつき湿気で少しはねた黒髪を鬱陶しそうにかき上げると目つきの悪い、いかにも機嫌の悪そうな顔が現れた。
そこそこ整った顔立ちの青年だが、目つきの悪さが全体的な印象を悪くしているようだ。
朝露でしっとりと湿った草原に倒れていたため服はずぶ濡れになっていたが、張り付いた服の気持ち悪さが不機嫌な理由では無かった。
頭の先からつま先まで引きちぎられるかのような鈍い痛みと痺れ、そして激しい倦怠感に苛まれ一晩中草原で悶えていたのだ。
頭の芯まで痺れているようでうまく考えが纏まらないがどうしてこんな事になっているのか良く分からない。
仰向けで寝転がっている目の前を見慣れない変な虫がヘロヘロと飛んで行くのを見て、何か懐かしく感じていた。
考えろ。
ここは何処なのか。
昨日自分は何をしていたのか。
そもそも自分は誰なのか。
脳裏にいくつかのビジョンが浮かんでは消える。
コンクリート製の大きな建物。
建物の前にはグラウンドが見える。
同世代だろうか?
制服姿の優しそうな少年と少女3人。
懐かしく、温かく、そして寂しい思いが込み上げてきた。
そして視界が溶けて何も無い暗闇の世界。
結局、この場で目が覚めた時から、これ以外の記憶を引き出すことは出来なかった。
暖まってきたおかげか全身の痛みが和らいできたように感じた。
起き上がろうと試みるが腕の力が入らず、盛大に水飛沫を上げてうつ伏せに倒れ込んだ。
変な虫を下敷きにしたのを視界の隅で捉えていたが、どうする力も残っていなかった。
遠くの木陰で誰かがこちらを見て騒いでいるのが見える。
ん?やはり知っている。
彼等は知り合いでは無いだろう。
しかし、こうなる事は知っていた気がした。
今まで何度もこうしてきた様な気がする。
夢を見ている。
俺にはその確信があった。
そう、あの女だ。
「気味の悪いバケモノが」
そう罵られているのは俺達だと何故か知っていた。
よく夢に出てくる、名前も知らず、いつも逆光で顔も見えない。
豪華な鎧を身に纏い、一目で業物と知れる細身の剣を携えている。
「あんたを仲間だと思った事なんて一度もないわ!」
叫びながら剣を振るうと男の腕が床に転がった。
男は信じられないといった表情で自分の物だった腕と女を交互に見比べたが、ふと何かを思い出した様な表情を見せた。
「私が終わらせる!」
女の剣が再び翻り、哀しそうな目をした男の首元に叩き付けられる。
直前で目が覚めた。
ベッドだ。
天井は木の板を適当に充てがったような構造であちらこちらで打ち損じた釘が曲がったまま強引に打ち付けられている。
ベッドの横に大きな窓があり、太陽は見えないが陽射しは十分に差し込んでいる。
サイドテーブルには陶器の水差しとカップが用意されている。
掛け布団はかび臭く背中は痛い。
ベッドもマットレスもあまり良いものでは無いようだ。
恐る恐る上体を起こしてみると、痛みも違和感も無く起き上がれた。
服も恐らく寝間着だろう、みすぼらしいが案外着心地の良い服に着替えさせられている。
水差しの中を確認してみると濁った水が入っていた。
これは飲めない水だろ。
俺はひとつ溜め息をつくとザッと部屋を見渡した。
それ程広くない部屋だった。
簡素なテーブルに小さな椅子が2脚。
あとはベッドとサイドテーブルと俺。
右手に窓、左手にドア、あとはうっすら積もった埃位か。
状況から察するに、見覚えの無い所で倒れていた所をどこの誰とも知れぬ御仁に助けられた、と言った所か。
更に察するに、この御仁、経済状況もすこぶる思わしくないのだろう。
いろんな意味で長居したく無い物だ。
しかし最も思わしくないのは俺の記憶だ。
思い出せん。
ひどく頭でも打ったのだろうか。
結局どこから来て、何をしていたのか全く思い出せない。
自分の名前すら怪しいものだ。
ガチャ
思ったより建付けの良さそうな小気味の良い音を立てて開いた扉の向こうには、思いのほか身なりの良さ気な老人が立っていた。
「体調は如何ですかな?」
声の張りや話し方からは長老とか村長とか、そんな感じの雰囲気を感じ取れる。
「あ、あぁ、おかげ様で…」
何となく面食らったせいか、物凄く久しぶりに声を出したせいかは分からないが、間抜けな返答をしてしまった。
「おぉ、これはすまない、誰か、新しい水と食事を持って来なさい」
俺が冴えない声を出したのを何か勘違いしたのだろう。
部屋からのそのそと出て行きながら家の誰かに指示を飛ばしている。
「あ、私が行きます」
少女のような声が聞こえた。
パチパチと薪が燃える音や複数の男女の話し声が聞こえていたが、扉が閉まると何も聞こえなくなった。
驚いたのは特に勢いを付けて閉めた訳でもないのにピッタリと扉が閉まった事と、何より防音性だった。
注意深く耳を澄ましてみるが自分の呼吸と鼓動しか聞こえない。
言い得ぬ不気味さに眉をひそめていると
ガチャ
扉が開くと幼い雰囲気を残した少女が立っていた。
さっきの声の主だろう。
美しい少女だった。
キリっと整えられた目鼻立ちに薄く桜色の唇。
大きな瞳がキツめの顔立ちを柔らかなものにしていた。
ロングのブロンドは半ばほどから緩やかなウェーブがかかり全体の印象をより柔らかなものにしていた。
端的に言えば好みだった。
彼女は配膳台車を俺の前まで運ぶと首を傾げて俺の目を覗き込んできた。
「ご飯、食べられますか?」
俺はこの時からこの少女の事が好きだった。
具が殆ど無く、味の薄いスープだったがそれでも俺は何杯もおかわりした。
旨いと思ったし、腹も減っていた。
そして、彼女が運んで来た水はとても澄んでいた。
「ありがとう、とても美味しかったよ」
彼女の持って来た鍋の中身をすっかり平らげてしまった俺は、有り難いやら申し訳無いやらで礼とも詫びとも知れぬ感謝の言葉を口にしたが、彼女は特に気に止める様子も無く、ひとつコクリと頷いた。
「もう暫らくゆっくりとお休み下さい」
それだけ言うとそそくさと部屋を出て行ってしまった。
何となく取り残された様な気になった俺は、寂しい気持ちになりつつも言われるままにベッドに横になった。
あートイレ行きてー。
思えばいつから行っていないのか見当もつかないが、一度思い立つとなかなか引っ込んではくれない。
部屋から出て行くタイミングを何となく探りつつ、ベッドの上でそわそわしていると
ガチャ
俺が勝手に呼んでいるだけだが長老だ。
「何かお困りの事はありますかな?」
俺は内心ガッツポーズを取った。
「実は小用が…」
長老はひとつ頷くと
部屋の片隅を、指差し
「そちらでどうぞ」
等と言ってくる。
指の先、壁を見ると何やら取っ手が見えた。
あぁ、そうだった。
引っ張るとトイレが出て来て用を足したら戻す。
昔からそうしていたでは無いか。
長老が部屋を出て行った後、俺は恐らく数日分解き放ったが、思ったより量が少なかった。
だがそれよりも、きっかけがあれば記憶が蘇る事が分かった、その事実の方が収穫だった。
何故だか小用を足す場所は、それ用の器が用意されている部屋を想像していたのだが、俺は昔からこうして用を足していた気がする。
どうやら記憶が混乱しているらしい。
もう少しだけ休ませて貰おう。
目を閉じるとあの少女の姿が脳裏に浮かび、何となく幸せを感じていた。
悪くない、な。