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Q氏の決断

A~Zまで悪人を並べ立てようとしててやろうと思っています。

自分の中の悪を並べ立てれば、書いている本人の私は毒が抜けきって真っ当になれるかも知れません。

そう願を掛けながら、意外と悪が出てこないことに焦りながら、Qです。私です。書いたのは、2014年の11月。

命の選択を迫られる。しかも我が子の。そんな中で、人間性がどうしてもにじみ出てしまいます。私は、今でも自分を許せない。許せないのです。

 Day0

「明日、検査行ってくるから。」

「ああ。一緒に行かなくて、良いの?」

「いいよ。都心まで行かないとだし、予約夕方だから遅くなる。子供達お願い。」

「了解」

 何度も不要だと言ったのだが、どうしてもと妻が言う。私は不満を顔に出さないように注意して、

「気を付けて行ってよ、身重なんだし。」

 と付け加える。取って付けたような笑みを浮かべている自覚を持ちつつ、風呂上がりのビールを傾けながら、男はやっぱり気楽なものだと思う。


 三番目の子供ができた。上が9歳、下が5歳、そして今お腹の中にもう一人。

 共働きで、子供達は保育園に預けている。送っていき、迎えに行き、それなりに時間の制約ができて、お互いに仕事は制限されてしまう。

 妻は役職を降り、私は部署の配置転換を希望した。二人とも職場では日の目を見ない立ち位置だ。だが、それも悪くはない。

 子供達の声を聞き、子供達の友人とも遊び、子供達から学ぶことも多い。

 キャリアという面での仕事は後輩達に抜かれていったが、人生の厚みは子供達によってもたらされたと思っている。有り難いことだ。

 二番目の子ができた時、妻はこの子で最後だと言った。まあ、子供が二人もいれば、家計的にも子育てをする私達二人の体力的にも限界に近い。

 そうだなあ、この子で最後だなと私も思った。

 だが、もう一人いてくれても良いという気持ちがあった。下の子を抱きしめ、子供の匂いを嗅ぎ、脇腹をこそぐってやる。キャッキャと笑う。幸せだと思う。

 この幸せに、もう少し浸りたいと思った。

 下の子が四歳を過ぎ、少し手がかからなくなってきたら、私は妻を抱く時に避妊をしなくなった。上の子二人は、避妊をしなければ直ぐにできてしまった。まだ若かったから、こんなにあっさりできなくてもと苦笑いしたものだ。

 だが二人とも三十も後半に入ると、なかなかできにくくなるものなのか、それなりに努力が必要だった。

 子供ができた時、私はホッとした。そして、また赤ん坊に、自分の血の繋がった赤ん坊に会えることを妻に感謝した。


 子供を作るという行為は、男性は射精をして終わりだが、女性はつわり、出産と傍目で見ていても地獄のような時間が待っている。

 妻のつわりは割りと軽い方だったようだが、それでも炊飯器がご飯を炊くにおいでえずいていたくらいだから、男性にはその大変さは理解できるものではない。まして、出産ともなると。

 私は出産には希望して立ち合った。自分の子供がどうやって生まれてくるのか興味があったのと、どれほど大変な思いをして子供が生まれてくるのかを見ておきたかった。

 これは父親講座(これから父親になる人に対しての講義)の受け売りだが、その大変さを知っていれば、子供達への愛情のかけ方も変わると思った。言い方を変えれば、こちらが主眼なのだろうが、虐待やニグレクトをしなくなるだろうと。自戒をこめて。

 出産は、壮絶だった。妻の顔が見たこともない表情になり、聞いたこともない声を出していた。父親は何も出来ず、ただ側で立っているだけ。背中をさすっても、手を握っても、やはり最後は邪魔でしかない。なんともちっぽけな存在。

 その果てに生まれてくる我が子。子供とその母親に感謝しない父親はいるのだろうか。

 最初の子が生まれてきた時、私は声もなく、ただただ涙があふれ出た。こんな幸せな時間があるのかと思った。

 小さな手は指を当てると握りかえし、ただただ無力な体は抱かれるがまま。小さくて軽い、軽いのに重いその体。

 二人目の時は、あっさりしたものだった。「お、出て来た。」覚えている感想は、それくらいだった。

 最初の子は女の子、次の子は男の子。最後は女の子が良いなと思っていたが、男の子だった。ちょっと残念に思った。

 エコーで男性器を確認した時、

「先生。そのおちんちん、切っちゃって下さいよ。」

 馴染みの産婦人科の先生にそう言ったら、大笑いされた。私は、この言葉を後々悔いることになる。

「じゃあお父さん。頑張って次四人目、作りましょうよ。そしたら女の子かもよ。」

 そう言われれば、苦笑いを返すしかない。


 年齢も三十代後半にさしかかり、出産可能年齢という意味でも、子供が大学行くまでの時間を考え、私達が働ける時間を考えると、ラストチャンスは過ぎ去ろうとしていた。

 一方的な思いだったかも知れないが、私はもう一人欲しいと思った。そして、子を授かった。

 妻は自分の年齢が三十代後半であることから、胎児の精密検査を受けたいと言い出した。

 無論、定期的に産婦人科の検査は受けている。何の問題も無いと言ってもらっている。なのに、何故精密検査を受けるのか、疑問だった。

 妻の答えはこうだった。都心に3Dエコーを撮れる施設が有り、そこの先生が胎児診断のスペシャリストだと言う。年齢も年齢なので、ダウン症じゃないかをその精密な3Dエコーで診断して欲しいというのだ。

 私は軽く考えていた。

「安心を買いにいくんでしょう?いいんじゃない?行っておいでよ。」

 費用も安くなかったが、それで妻が安心できるのならと、私は最終的に同意した。

 その検査が明日だという。明日の夕食はこうしてああしてと指示を受け、私はそれをメモに書き留める。

 明日は妻が疲れて帰ってくるだろうから、子供達は早めに寝かせよう、そんなことを考えていた。


 Day1

 この日は作業が立て込んでいた。現場で点検をしたり、治具を直したり。バタバタと夕方になり、そろそろ子供達を迎えに行こうかと思った時、現場で電話が鳴った。

「あ、奥さんから電話ですよ。」

 事務所にいる後輩の係長が、丁寧語で主任の私に電話を取り次いでくれた。

「どうしたの?」

 と聞かなければ、受話器からは何も聞こえてこなかった。風洞試験のための治具は大きな音を立てており、妻の泣き声は耳に届かなかった。

「ダウン症の疑いがあるって。」

 一瞬目がチカチカしたように思った。

「エコーで見る限り、おかしいって。」

「確かなのか?」

「腎盂に肥大があって、手の小指が短いって。」

 指の長さはともかく、腎盂って内蔵じゃないのか?内臓をエコーで見られるのか?そんなことしか頭に浮かばなかったが、頭の奥底ではもっと別の意識が働いていた。

「羊水検査した方が良いって。」

「ああ。」

「今から依頼書をファックスで送るから、それに署名して送り返して。」

「ファックス?電子メールじゃダメなの?」

「ファックス以外はダメだって。ちゃんと自分で署名して、それを送って・・・」

 最後は声にならなかった。

 どこをどう通ったのか、私は気が付けば事務所に戻り、複合機の前に立っていた。トレイには私宛のファクシミリが一通、出力されていた。

 羊水検査を希望すること、万が一検査でトラブルがあっても文句を言わないこと、そんなチェック項目が有り、最後に自署欄が不自然なくらい大きく取ってある。

 私は自分の席に戻り、一字一句を読み直した。

 何とか署名をしようとするのだが、手が震えてペン先を紙に下ろせない。

「どうかしたんですか?」

 隣の席の係長が心配そうに聞いてくれる。

「いや」

 とだけ応えて、名前を書き込んだ。

 いつも通りには書けなかった自分の名前を私はしばらく見つめていた。

 もし、この同意書にサインすることで、万が一にも子供に、母体に何かあったら。そんな迷いを見透かすかのように電話が鳴った。

「また、奥さんからです。」

 心配そうな後輩の顔に応えることもできず、回された電話を取った。

「五分以内に送って。じゃないと、今日検査できないって。」

「本当に要るのか、この検査。」

「羊水検査以外に、はっきりと調べる方法がないんだって。でも、かなり疑わしいって。」

 消え入りそうな妻に声に、私は声もなく頷き返した。

 同意書をファクシミリで送り、受信できた旨の電話がクリニックからあった。


 羊水検査とは、赤ん坊のいる子宮に針を刺して、羊水を抜き取るのだ。その羊水を検査することで、遺伝子異常があるかどうかが分かる。検査による事故の確率は充分に低く、検査が原因で死産や流産に至ることは滅多にないらしい。私が心配した、胎児に針が刺さることも充分回避されると言うことだ。

 針が充分に細いため穿刺に当たって麻酔は行われず、5ccほどの羊水を抜くらしい。

 検査結果は速報ではあるが、一週間ほどで出るらしい。

 検査から帰ってきた妻は、やつれて見えた。

「泣き疲れて、もう涙も出ない。もう寝るね。」

 私は妻がベッドに入った後も、インターネットで調べてみた。

 18トリソミー。

 佐藤秀峰氏のコミック『ブラックジャックによろしく』で取り上げられたのは21トリソミー。命の選択を迫られる医療従事者と両親。育てるのか、育てないのか。いや、育てられるのか。誰が育てるのか。そんな重いテーマのストーリを、私は自分なら迷わずに自分たちで育てると思いながら読んだ。

 折角授かった命。生きている命。目の前で動いている命。私にそれを絶つことなんて、できるはずがない。だが、その決断を、実際に迫られたらどうなのか。私は想像するしかなかった。

 疑われているのは18トリソミー。21トリソミーよりも、危険。

 ダウン症と言われるのは、一般的には21トリソミーであり、22対ある染色体の中で、21番目が一対(2本)ではなく3本あることを言う。同様に18トリソミーは18番目の染色体が三本あることを言う。

 私を戦慄させたのは、18トリソミーの子は死産になることが多く、また幸運にも産まれてきても、一年以内に死ぬことがほとんどだと言うことだ。

 私は妻から聞いた説明を疑ったわけではないが、自分でも調べてみた。どこも、同じような説明がされている。

「先生、そのおちんちん、切っちゃって下さい。」

 私はなんということを言ってしまったのだろうか。

 あの言葉をこの子が聞いていて、自分は要らない子だと思ったのでは無いか。だから、自分で自分を・・・廃棄に追いやるようなことを、したのではないのか。

 私は自分を責めた。自分の無責任な、愛情のない言葉が子供を傷つけた。無論、ちょっとガッカリを口にしてみただけだった。正直に言って、男の子だからと落胆しきったわけじゃない。だが、私はその言葉を口にしたのだ。

 言葉は音となり、波となって子供の体に届いた。そして、エネルギーを持った波が、子供の体に作用した。

 いや、まだ可能性の段階だ。しかも、エコーで見ただけのこと。決して絶望する必要はない。そう自分を慰めてみた。

 ビール程度で酔えるはずもなく、冷えた日本酒をあおった。12月。冬にあおる冷酒は瞬間体をカッと熱くさせても、酔いは回らなかった。


 Day2

 ずっと鉛が頭の中にあるようだった。

 気分も体も重く、早く時間が経って結果を知りたいような、でも聞きたくないような、複雑な気持ちだった。

 結果を知りたい気持ちは、問題がないという結果を聞けることが前提で有り、その逆は、前提も逆だ。

 仕事場ではいつも通り振る舞っているはずなのに、気が付けば点検項目を抜かしていたり、点検結果を別の項目に記入していたり、傍目にはぼんやりしているようにしか見えなかっただろう。

 だが、私はぼんやりしていたのではない。羊水検査の結果に対する自分の行動をシミュレーションしていたのだ。

 大括りに、検査結果でトリソミーだった場合。そうで無かった場合。シミュレーションは、トリソミーだった場合の最初の段階でつまずく。妻に、何と声をかければ良いのだろうか。


 暗い気持ちを、子供達に見透かされたくはなかった。

 子供達に話してどうなることでもなし、子供達も聞かされてもどうしようも無いだろう。

 結果がどうであれ、子供達に現実を見せたくなかった。

 自分が子供の立場であればどうかと考えてみたが、それであれば、きっと話して欲しいだろうと思う。家族なのだから。弟は、生まれていないとは言え、家族なのだから。そう、家族の一員なのだから。

 妻も私と同様、子供達の前では明るく振る舞っていた。

 子供達が寝室に入ると、顔の表情が一気に暗くなった。

「わたし、ダウン症だったら、堕ろすから。」

 私は耳を疑った。

「ダウン症の子を抱えてなんて、仕事できないよ。」

「子供よりも仕事なのか?」

 配慮を欠いた一言だったが、後の祭りだ。

「じゃあ、どっちかが仕事辞めて子供にかかりっきりになるの?無理でしょう?経済的にも、精神的にも。

 二人とも仕事してなんぼって思ってるじゃない。そういう価値観でしょう?

 それに、もしもよ、ダウン症であったとして、そのまま大人になって、そこからどうするの?お姉ちゃんやお兄ちゃんに面倒見てもらうの?あの子達だって、自分の家庭を築くのよ?わたし達親が、生まれてくる子より長生きできるの?普通は無理よ。」

「でも、いろいろそういう子のための施設というか、サークルというか、あるだろう。」

「だからって、どれだけ時間と手間とお金とがかかるか、分からないじゃない。」

「調べてみないと分からないじゃないか。それに、そんなものと命とを天秤に掛けるのか?」

「そんなものって何?お金のこと?じゃあ、うちにあるお金全部つぎ込んだら、病気治るの?」

「そうじゃないだろう。」

 噛み合わない話しが延々と続いた。グサグサと、心に鉈が食い込んでくる。ズタズタにしあいながらも、私達はお互いに鈍く深く切りつける言葉を吐き続けた。


 Day5

 自分のエンジニアとしての生き方に、ある程度誇りを持っている。真摯に仕事に向き合ってきた。その上で、自分が信じることも見えてくる。

 技術に生きる人間だからこそ、感覚というものは大事だ。

 仕上げ工程の最後の一手間、最後の一仕事がものの良さを決める。それは、感覚によるものだ。

 いくら検査成績書に良い数字が並んでいても、最後に感覚で仕上げないと、その製品はお客様に喜ばれない。

 工場での大量生産品ではない。一品一品、ほぼカスタムメイドがうちの部署の仕事だ。私は二十年近いキャリアの中で、自分の感覚をある程度信じるようになっていた。

 出来上がった製品に、最後の仕事をする時、それが良い感じだとその製品は問題を起こさない。何か引っかかるものを感じると、その製品は不具合ばかりを起こして、度々手元に戻ってくることになる。この感覚は、まず間違えたことがない。

 技術系の人間が何を言うのかと、妻にも笑われ、友人からもからかわれる。だが、私は自信を持っている。何か、空気のようなものがあるのだ。

 私は妻から聞かされていた話に、違和感を覚え始めたのだ。

 なにか、おかしいと。

 私はずっとその事を考えていた。

 仕事が終わり、子供達が寝室に入ると、私は今まで産婦人科で撮って貰ったエコーの写真や、エコーの動画を見始めた。それらは記録として、DVD-RWに記録されている。

 妻も黙って横に座った。この二日ほど、わたし達の間ではお腹の子の話しはしなかった。触れてはいけない話しのような気がしたのだ。

 大きな黒い空洞に、ポツンと白い影が見える。6週目くらいだろうか。初診の時の映像だ。

「ああ、いますね。赤ちゃんですよ。」

 ゴボゴボという雑音の後、ビデオから産婦人科の先生の声が聞こえる。二人の子供達のはしゃぐ声が混じる。

「あなた、弟が生まれた時なんて言ったか、覚えてるの?」

 妻が娘に声をかけている。映像は、カーソルだけがあちこちと動く。

「結婚しないって言って泣いたのよ。」

 娘の笑い声が入る。

「赤ちゃんできて、嬉しい?」

 先生の声。

「うん。」

 子供達の声。

「君はお兄ちゃんって呼ばれるんだよ。」

「もうお兄ちゃんだよ。」

 保育園では四歳にもなると下の歳の子の世話をするようになる。だから、園でお兄ちゃんと呼ばれるのだ。

「そうかそうか。」

 この上なく、幸せな情景が浮かんでくる。私は、目から涙が溢れ出した。

 なのに、なのにダウン症なのか。隣に座っている妻のお腹の中の子は、誰にも治せない病を得、誰にも顔を見てもらえずに死んでいかなくてはならないのか。例え生まれても、一年も生きられないのか。誰にも言葉を掛けることなく、走ることはおろか、歩くこともなく死んでいくのか。この子が。目の前の白黒の粗い画像の中に映っている私の子が。

 あれは夏の日だった。家族四人で産婦人科に行った。娘は目を丸くしていた。あの産婦人科に行くのは、弟が生まれて以来だ。結婚しないと泣いた娘は、命の誕生に目を見開いていた。息子はまだ、何が起こっているのか分かっていない。ただ、弟か妹が来ると言うことだけは、分かったようだ。

 映像が他の日に移っていく。

「大きくなったよね。ええと、体長はね。あ、お尻を向こうに向けちゃったよ、測れないな~。」

 先生が子供達におどけて見せているのが見えるようだ。

「順調順調。何もありません。えっとね、次もまた二ヶ月後ね。」

 また切り替わる。

「いいよ、いいね。順調、順調。大きさも問題ありません。」

 予約を入れていても、小一時間待たされる。なのに、妻の診察時間は十分も無い。なんだか損したような気分になったのを覚えている。診察が短いと言うことは、問題が無いと言うこと。何より有り難いこと。

 また切り替わる。

 カーソルが忙しく動く。顔がはっきり見える。ここがお鼻だねえと先生の声が聞こえる。カーソルが黒い穴の周りをクルクルと回る。それが嫌なのか、顔をぷいと横に向けてしまって、見えなくなった。笑い声がスピーカから聞こえる。

 私と妻も、画面を見ながら笑う。

「元気だねえ。順調、順調。」

「お母さんのお腹も大きくなってきましたよ。」

 下の男の子の声がする。笑い声が起こる。

「お姉ちゃんさ、助産師さん、ならない?」

「どうして?」

 上の子が不思議そうな声を出す。

「二回も赤ちゃん産まれるところ見たらさ、助産師さんに縁があると思わない?」

「産婦人科医ではなくってですか?」

 私の声だ。

「医者はダメダメ。何かあったら責任取らされるわ、既にホワイトカラーエグゼンプションだわでろくなこと無いの。助産師さんの方が良いよ。」

「じゃあ、なる。」

「ホント?じゃあね、資格取れたら、うちおいで。」

「良かったな、もう就職先が決まったぞ。」

 隣で妻が笑う。泣いている。両手でお腹の膨らみを愛おしそうに撫でながら、笑って泣いている。

 クリニックに行くまでは、何かとお腹に向けて言葉を掛けていた妻が、今では言葉を掛けていない。はらはらと流れる涙は、お腹の膨らみに落ちていく。

 私も手を伸ばした。お腹の膨らみに触れた。堅い。しばらく手を置いていると、何かがぐるりと動いたような感触が伝わってくる。いや、気のせいかも知れない。

 こんなにも元気なのに。こんなにも元気なのに、18トリソミー?

 いや違う。絶対に違う。私の感覚が、そう言っている。私は、ここで少し肩の荷が下りた。

「違うよ、絶対に。だって、こんなに元気なんだぞ?こんなに元気なのに、18トリソミーなんておかしいだろう。」

 妻は映像の続きに目を向けたままだった。

「先生だって、口癖のように順調、順調って。」

 妻は口を開かない。

「どう見たって、何の問題もないよ。ただの、元気な赤ちゃんだ。」

『僕には分かるんだよ。』その言葉は飲み込んだ。


 Day6

 いよいよ検査結果を明日聞かされる。

 胃の辺りのむかつきが、もう収まらなくなってきて、常に胃酸が口元まで上がってくる。極度に緊張しているせいだと思う。

 私は自分に何度も言い聞かせた。大丈夫だと。

 私は自分に言い聞かせると同時に、妻にも言い聞かせていた。

「大丈夫、絶対大丈夫だよ。」

 この言葉を何度発しただろうか。

「もう、それ言わないで。」

 妻が苛立った声で言った。

「もし結果がそうじゃなかったら、どうするのよ。」

 私は押し黙った。

「トリソミーだったら、やはり堕ろすのか?」

「仕方ないじゃない。」

 私は、ゾッとするほどの冷たいものを感じた。どうしてそう割り切れるのか。

「かわいくないのか、自分の子だぞ。」

「じゃあ、生まれたからって、幸せにできるの?」

「幸せになる、ならないは本人次第だろう。」

「何も出来ない赤ちゃんのまま死ぬのよ。何がどうできるのよ、しかも自分でって。無責任じゃない。」

 妻は金切り声を挙げた。

「自分の運命のまま、生き切ることができれば、それで充分じゃないか。そこで命が尽きるのは、それこそその子の運命だ。

 その運命を、俺達が断ち切って良いのか?」

「生まれてきたら、外の世界を見たら、もっと生きたいって思うわよ。お父さん、お母さん、お姉ちゃん、お兄ちゃんの顔を見たら、絶対そう思うわよ。だけど、それを断念して死んでいくのよ?それって、酷いことじゃない?」

「だけど、俺達は神じゃない。勝手に命を奪って良いわけが無いじゃないか。」

 色んなことで衝突してきた。結婚当初は味噌汁の濃さで喧嘩をした。私は塩辛いくらいの味に馴染んできた。赤だしが好きだったが、妻は控えめな味付けが家の味だった。

 結婚指輪をするしない、結婚記念日にディナーに行く行かない、子供の小遣いの額、教育方針。互いの価値観がぶつかり、それなりに折り合ってきた。お互いに、折り合える議題だったと言える。だが、命の価値観は?折り合えるのか?折り合うとかそう言うものなのか?

「じゃあ、聞くけど。あなた、耐えられるの?

 生まれてきた我が子を腕に抱くの。唇が大きく裂けているかも知れないわ。口裂け女みたいにね。でもね、それでもあなたの腕の中で、お姉ちゃんやお兄ちゃんと同じように、眠ったり動いたりするわ。笑ったりするかもね。

 手を動かしたり、指を握ったり。口をすぼめたり。

 でもね、その子が死ぬのよ?

 何も悪いことしてないのに。何にも悪くないのに。死ぬの。

 あなたの目の前で、力を失って、死んでいくの。なのに何も出来ないのよ、わたし達。

 あなた、それに耐えられるの?」

 それでも、仕方ないじゃないか。ソレハ、カミガキメタコトダ。

「その後も、お姉ちゃんとお兄ちゃんにちゃんと今まで通り向き合える?あの子達、それを見てどう思うかしら?

 この子を殺す罪はわたし一人が着れば良い。わたしが全部被るの。だって、わたしの子よ?だから、わたしの責任でこの子を堕ろすの。あなたは苦しまないで良い。

 お姉ちゃんとお兄ちゃんに、この子が死ぬところを見せたくない。きっと、心が壊れてしまう。」

 ソンナニ、ヒトハヨワイモノダロウカ。

 シヌコトモ、イキルコトモ、ミテオカナクテ、ジンセイトイエルノカ。


 Day7

 町中はクリスマス一色だ。賑やかな音楽が鳴り、きらびやかな飾りが気分を盛り上げようとしている。

 だが、私達二人の気持ちは、まるで別世界にいるようだった。気持ちは沈みきり、世界は光を失い、灰色の中を歩いていた。

 私達は、まるで事務的なこと以外は口を利くこともなく、ただ、クリニックに向かった。


 クリニックの扉を開くと、まるで北欧の家の中に入ったような、木の素材がふんだんに使われた内装が現れた。良く絵本で見る、サンタの家のようだ。

 私は、正直ゲンナリした。そういう気分ではないのだ。敷居を低くし、患者のストレスを下げたいという気持ちは分かるのだが、今の私にはリノリウムの床に、ペラペラの合板の壁の方が気分に合う。

 小綺麗な受付の女性が、妻の名前を呼ぶ。私達は、診察室に入った。

 先生の声は診察室の外からも聞こえていた。

「アカンアカン、それはそこ置いといてもらわなあかんねん。頼むわな。」

 私はノックをして入った。

 ギョッとした。

 名手というのは、変わっている人が多い。きっと、この先生もそうなのだろう。

 豹柄のパンツに、派手な色のセーター。胸の辺りで豹が大きく口を開けている。

「あ、今晩は。えらい待たせて御免なあ~。」

 ホームページ上では、スーツを着た、インテリな女性医師の写真が上がっていた。

 目の前にいるのは、大阪のおばちゃんだった。せんべいとたこ焼きを持っていても、何の違和感もないだろう。

 きっと、初めてここに来た人なら、ネット上の写真が詐欺なのか、目の前の姿が詐欺なのか迷ったはずだ。

「座って。ま、座って。ご主人もご足労おかけして。」

 確かに、あのインテリ美女の片鱗が伺えるが、テレビから抜け出したような、やはり大阪のおばちゃんだ。

 私は妻に、『この人がその先生なのか?』と目で問うた。妻は私の意図に気付いたのかどうか分からないが、頷いた。

 先生は無駄に手足をわちゃわちゃと動かした後、いきなり私の手を取った。

「ちょっとお父さん。これ、お父さんの手?」

 意味が分からない。

「あら~、そうやったんや。これ、遺伝やんか。」

 隣の助手のような人を先生は見やる。

「ああ、そうですね。」

 ピンクのエプロンが似合っているまだ若い女性だ。ちょっとだけ眉根を寄せて私の手を見つめている。

「あ、こっちね、エコー撮影技師です。プロのね、難し資格を取りましてね、この子が撮る写真がまたよう見たいところが撮れるんですわ。」

 うんうんと私は頷く。

「でね、お父さん。最初の日に奥さんと一緒に来て欲しかったわ。そしたら、奥さん怖い思いあんまりせんで済んだんですよ。」

「あの、私の手が、何か?」

「こ・ゆ・び」

 私の小指の第二関節を先生は爪でひっかいている。

「短いのよ、お父さん。」

 手が小さいの間違いじゃないのか?自分の手の小指がおかしいなんて、今まで思ったことがない。

 私は妻の手を取って見比べてみた。何がどうだと?

「あんね、ここの指の真ん中の部分が、短いの。分からはります?」

「指全体じゃなくて、この真ん中の節がですか?」

「そお。中節骨いいます。」

 指の付け根を第一関節と言うのであれば、第二関節と第三関節の間だ。

 ああ、言われてみれば、そうか。私は妻、先生、エコー撮影技師と全員の手を見せて貰った。まあ、そう言われてみれば、そうだ。

「いやあ、いややわあ。これ分かってたら、いやホンマ、お母さんこの一週間怖かったなあ。」

 どういうことなのだ。

「速報値なんやけどね、羊水検査の結果、問題ありません。それとね、お父さんのこの指見たら、もう間違いないわ。」

 エコーで赤ん坊の小指の第二関節と第三関節の間が短いのが分かったそうだ。腎盂にも腫れが認められたが、指が大きなチェックポイントだったとか。

 先生は手を打って大笑い。

 ここはもう、釣られて笑うしかない。妻を見ると、ボロボロ泣いて笑っている。世界は、ようやく色彩を取り戻した。


 DayX

 三番目の男の子は、元気に生まれてきた。三歳になった今、四歳上の兄と対等に戦っている。プラスチックの刀でチャンバラしては負けて泣いている。

 お兄ちゃんとテレビを見て大笑いして、保育園に行って喧嘩して、風呂に入っては暴れまくっている。

 どこからどう見ても、ただの元気な男の子。私の直感は、間違ってはいなかった。


 あれから、良く妻とはあの先生の話をする。豹柄の先生だ。

「ずっと、あの調子なのか?」

「そう。あの格好で、深刻な顔して『ダウン症かも知れへんわ』って。」

 それはそれは。何と言うか、色々泣きたくなるような。

 今となっては、笑い話だ。後日、いつも通っている産婦人科の先生にも報告した。羊水検査というストレスを受けたことは、話しておくべきだと考えたからだ。後ろめたさを感じたが、産婦人科の先生は何とも思っていない風だった。

 ただ、豹柄先生のクリニックに比べ数段劣るエコーの画像からも、気付いていたと先生は仰っていた。

「でもね、問題ないと思っていました。まあ、もうちょっと大きくなってね、あれっと思ったら検査をお薦めしようかと思っていましたが、その可能性はかなり低いかなと。」

 私達は苦笑いした。焦って動く必要もなかった。わざわざ怖い思いをする必要もなかった。万事、産婦人科の先生に任せておけば良かったのだ。だが、そのことで妻を責める気にはなれない。ネットという情報の波の中で漂い、迷った妻をどうして私が責められるだろう。それでも私の子を、生んでくれようとしたのだから。

 私達の間で、あの日の決断について話し合うことはない。結局、私達は幸運にも決断をする機会はなかったのだ。有り難いと思う。そして、でももし、あの時決断する必要に迫られたら、自分たちはどう決断したのだろうかと考える。

 私は堕胎に同意したのだろうか。エコーの映像の中で、あんなにも元気に動いていた我が子を。今でも時々考える。そしてあの選択を迫られた日より、前ほど自分の意志に自信を持てないでいる。命の選択を、突き付けられる恐ろしさ。

 あれ以来、私は妻を抱けなくなった。いくら避妊をしていても、後ろめたさとあの選択の恐怖がついて回るのだ。妻がどう思っているのかは分からないが、私は、もう楽しめない。

 子供が膝の上に飛び乗ってくる。頭からは干し草のような子供特有の匂いがする。私はそれを胸一杯に吸い込む。離したくない。この命を、離したくない。私は思いきり子供を抱きしめる。

「痛いよお」

 子供が笑う。

 私は一生自分を許さないだろう。

 決断できなかった自分を。正直に言えば、妻の決断に傾いていた自分を。私は、この子を殺すことに同意していたのだ。例え、それが18トリソミーという条件付きであったとしても、条件次第ではこの子を殺すことに同意しかかっていたのだ。

 実際のところ、自分が最終的にどう決断を下したかは分からない。過去のことに「もしも」を付けて考えることに意味があるのかは疑わしい。ただ、この子を全力で守れなかったかも知れない自分を私は許せない。親として、無条件に子を愛する人間では、私はなかったことは確かだ。

 自分を責める必要はないのかも知れない。普通ではない状態だったのだから。だが、やはり許せはしないと感じている。

 卑怯だった。

 私は妻の決断に自分の罪をなすりつけようとしていた。妻がそう言うのだから、妻がそこまで言うのだから。だから、この子を殺すことになっても、自分のせいではないと。私は、自分が卑怯だったと認めざるを得ない。善人の仮面を被り、妻の優しさに甘えきり、私は自分を逃がすことに躊躇いつつも同意しかかった卑怯者だ。

 いつの日か、私がこの子を体を張って守る機会が来るまで、私は自分を許しはしないだろう。自分の命と引き替えに子供を守る、その事以外にどうやって自分の子供への愛を認証できるだろうか。そんな日は来ないことに越したことは無い。いつまでも子供達の笑顔を見ていたい。しかし、私にその権利はあるのだろうか。

 果たしてその日まで、私に審判は下らない。


言霊という言葉があります。言葉には、力がある。

私は、それを否定できません。言葉、いえ声というのは、音です。つまり波なのです。

波ですから、当然エネルギーを持っています。

私が不用意に発した言葉。ただ、ブラックジョークを披露したかっただけ。でもそれは、余りにも適切ではありませんでした。

私が発した言葉は波というエネルギーを持って、お腹の子供に当たった。マイナスのエネルギーは、彼に命を諦めさせた。その可能性が、あった。いまだにそれを思い出すと、申し訳ない気持ちでいっぱいになります。

幸い、我が子はダウン症ではありませんでした。言葉が悪いのは承知しますが、「ラッキー」だったのです。そう思いました。私は、決断しなくて済んだのですから。

でも、もしダウン症だったら、私はどうしていたのでしょう。自分という人間の個性というものに、不信を抱いた事件でした。

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