#105.呼び名
ルドア川河口の王領ブギ。海側にも川側にも大きな港を持ち、造船と海運が盛んな巨大な港町です。イブリックに行く時にも立ち寄ったそこを今、クラウド様が視察中です。なんて言いつつ、今居るのはブギの領主代理の館のバルコニーで、時刻は夜です。
因みに、普段は領主代理が使用しているこの屋敷で一番良い部屋を使っているクラウド様です。いえ、要求などしませんよ? 「王太子が視察に行く」と言っただけで、あちらが用意したのがこの部屋だっただけです。媚を売っても意味なんかありませんけどね。
バルコニーに出されたロッキングチェアに腰掛け、ワイングラス片手に足を組んで寛ぐクラウド様。絵になりますね。無愛想顔でなければ完璧です。
そんなちょっぴり不機嫌な旦那様に斜め後ろから声を掛けます。
「三日間。あっという間でしたね。ブギは広い街ですから見ていない場所も沢山あると思いますけど、ここからの景色は見納めです」
この館は丘の上にあるのでバルコニーからは港が一望出来て凄く良い景色なのですが、明日の午前中に造船所の視察を終えたら帰途に着きますから今日でこの景色も見納めです。まあ夜ですので、所々魔法や火の灯りが見えているだけで今は大したモノは見えていません。
「そうか? 私には長かった」
「……ずっと不機嫌でしたけど何があったのですか?」
正直予想はついていますが、一応訊いてみましょう。
「クリスは私を欲しいとは思わないのか?」
少しだけ振り向きだいぶ声を潜めて訊いたクラウド様。それに対して私は、普段の侍女として侍る位置から一歩半前に出て主の耳の横にまで近づきました。そして、クラウド様以上に声を潜めて応えます。
「欲しくないとは言いませんが、クラウド様が傍にいて下さるだけで私は不満にはなりません。抱いて下さるだけが愛ではありませんから」
まあ全く無ければそれはそれで不安になりそうですが。
「……男と女の違いか。私は傍にいる君を抱けないことが凄く不満だ。まだ離れていた三日間の方がマシだった」
……その割には随分とお怒りでしたけど。それに、
「視察の前の晩に私はちゃんとお待ちしていましたよ? 何で来て下さらなかったのですか?」
ああ、なんだかんだで訊き逃していたことをやっと訊けました。以前の疑惑の時と比べたら大して時間は掛かっていませんけどね。
「約束を破って悪かった。済まない」
「いえ、怒っているわけではなくて、理由を確かめたかっただけです」
自分の寝室に一晩帰って来ない理由なんて想像着きません。お陰でブギへの航路の初日は完徹でしたから大変でした。諦めて寝てしまえば良かったのですけどね。人に訊くことも出来ましたし。いえ、人に訊くのは恥ずかしくて無理ですね。催促しているみたいです。
「昼餐にリーレイヌを連れて行ったら母上に怒られた。クリスを大事にしろと」
え? レイテシア様が?
「レイテシア様に怒られたからご自分の寝室に帰って来なかったのですか?」
「あの日、クリスが動けなくなった原因を母上に見抜かれた。そして、あの晩はクリスに近づくなと厳命された」
私に対する気遣いにしても大袈裟過ぎる気がします。他に何かしら理由があるのでしょうか?
「レイテシア様は何故そこまで干渉なさったのでしょう? 一応成人した夫婦のことに口出しし過ぎのような気がします」
この間お産まれになった第三王女ナタリア様が関係しているとか? いえ、それは現実味がありませんね。
「キーセが産まれたあと母上が父上を拒否している時期があった。そしてそのことが原因で父上は少し荒れていた。その頃だろうな、父上がメリザント様に冷たくなったのは。まあメリザント様に原因が無かったとは思えないが。
それは兎も角、母上が父上を拒否していた理由が、父上の体力に母上が付いて行けなかったからだそうだ」
それは詰まり、
「丁度今の私とクラウド様と同じような状況ということですか?」
「クリスは私を拒否しないから全く同じではないが、母上からしてみたらクリスが我慢しているだけに思えたのだろうな」
いえ、体力的に付いて行けてないのは全く一緒ですよ?
「クリス。クリスは我慢しているのか?」
寂しそうに揺れる赤い目が私を見ています。
「我慢なんかしていませんよ。愛する旦那様に抱かれることに厭がある筈がありませんから」
「旦那っ」
あ、旦那様呼びは頭の中で良くしていましたが、口に出したのは初めてですね。王太子様相手だと違和感が多少ありますが、皆がクラウド様と呼ぶので私だけの呼び方が欲しかったのです。あ、でも他にお妃様が出来たらその方も旦那様と呼んでしまいますかね?
「王太子様を旦那様と呼ぶのはおかしいでしょうか? 私だけの呼び方が欲しかったのですけど」
「いや、二人キリの時はどう呼んでくれても構わない。……そうか考えたことが無かったな。
クリスティアーナ。クリシィではあまり変わらないか、ティアーナでは長すぎだな。スティいや、ティア、ティアで良いか?」
何故クラウド様が私をどう呼ぶかに話が変わったのでしょう?
「良いですけど、普段間違えて呼ばないで下さいね」
「ああ分かっている。それより母上に怒られない方が大変だ」
「旦那様は夢中になると私が嫌がらない限り止まりませんからね」
まあ私も人のことは言えませんが。
「ティアが私をほったらかしにしない限りああまで夢中にはならない」
……根に持ってますね。
「ご免なさい。これからは出来る限り旦那様の所に戻ります」
「私も何も言わずに約束を破った。連絡しないで悪かった」
謝り合って微笑み合った私達。あと何回こんな優しい時間を過ごせるでしょうか?
クラウド様はまだ一年生なので魔法の授業は専科ではなく基礎鍛練に終始していますが、二年生に成れば専科の授業が始まります。詰まり魔法戦士や魔法使い、諜報員として専門的な魔法を学んで行くことになるのです。
ただそこに一つ問題が生じます。魔法使いや治療師ならば退役後の方で済むので問題にはなりませんが、講師にも体力が必要となる魔法戦士や諜報員はそうは行かないのです。しかし、若い魔法戦士や諜報員は基本的に第一線で働くべき特化した人材です。貴重な人材の彼らを講師として魔法学院に置いておくのは酷く非効率と言えます。
とは言うものの、幾らハイテルダルやデイラードに動きがあるとは言え、今は戦時中ではありません。警戒の必要はありますが戦場に人を送っているわけではないのです。もっと言えば、ルギスタンとの停戦協定を結んだ以上、ブローフ平原へ割く戦力は最低限に留める必要があるでしょう。
そんな状況ならば、こういうことが起きても何ら不思議はないのです。
夏至休暇を終え魔法学院に戻ったクラウド様。勿論私も一緒に戻ったわけですが、戻って直ぐ、あとを追うように魔法学院に来た身内がいました。ただ、この方は数ヶ月に一回入れ替わる近衛騎士と交代で学院に来たわけではありません。魔撃科の特別講師として来たのです。
近衛騎士団入団二年目にして“現役最強”の呼び声高きこの方は、つい一ヶ月半前に挙式したばかりで、紛れもなく私の、
「お兄様はいつまで学院に?」
特別講師は特別ですからそう長い時間ここに滞在しませんよね?
「二週間だよ。本当は一ヶ月なのだけどクラウド様が配慮してくれたようだ。あとで礼を言っておいて欲しい。まあクラウド様が居るうちは何度か来ることになると思うけどね」
魔法学院男子寮の第一棟。その一室、比較的狭く使われていなかった部屋で掃除をしながら会話をしている私達です。
「そうですか。時間が有ったらお茶でもしましょうねお兄様。お姉様とのことも聞きたいですし」
「ん? まあ良いか。あ! クリス!」
え? 何ですかいきなり低い声で。
「はい?」
振り向くと怒気を浮かべたお兄様の顔が間近にありました。
「結婚式の時ミーティアに何を吹き込んだ?」
「吹き込んだ? 男性にも女性にも色々あるという話をしただけですよ?」
男性には色んな性癖があるし、女性も人によって感覚が違うという話で「怖がってても試してみなければ何も判らない」という話をしたのですよ?
「では何故私が縛ったり縛られたりする男になるんだ!」
お姉様ぁ!
2015年11月中は毎日零時と十二時に更新します。




