森人
歌が好きです。
歌うのが好きです。
ただそれだけの思いで書きました。
残酷な描写は控えめですがご注意ください。
しんと潜む夜の闇にぽっかりと浮かぶ、くるりとした月が冴え冴えと輝いている。
人気のない深い森の中にぽつんと立っているのは青い屋根にクリーム色の壁をした小さな、けれど頑丈に作られた家。
家の前にはハーブが埋まった小さな庭、裏手には家畜たちが寝息を立てて心地よさそうに寄り添いながら眠っている。
右手には物置と、それなりに広い畑。左手には10本ほどの果樹。
ひとりかふたりくらいならば容易に養える敷地の範囲を囲むのは虫よけの香木で作られた柵と、獣よけの匂いの強い草。それに淡い光を放つ蛍玉。
やわらかな夜露に濡れたハーブが月明かりに光を弾き、幻想的に庭を彩る。
よく手入れされた芝生はさくさくと控えめな音を立てて足元をわずかに濡らした。
空を仰ぐ。
けして変わらない月の光に、心が落ち着くのを感じた。
変わらないものはないと誰かが言っていたけれど、それでもこの月だけはかわらないで欲しいと思う。
ただ静かにこの世界を見つめ、夜の闇を変わりなく照らし続けて欲しいと。
口を、開いた。
喉の、腹の奥から、心の奥底から声を上げる。
これまで感じていた希望も、絶望も、懇願も、悲哀も、全てを自分から押し出すように、歌を歌う。
頭を空っぽにして、己が何を歌っているかもわからないほど強く、遠く、喉を枯らすほどに唄を詠う。
届かない何かを掴むことを望むように腕を広げ、喉を晒し、震える声を月に捧ぐ。
誰もいない、広い深い遠い森の奥でただひとり生き延びることを選んだ。
誰もがきっと、望んでいた。
誰もがきっと、走り続けることを望んでいた。
誰もがきっと、彼らが望む場所にたどり着くことを望んでいた。
そしてきっと、だれもが村に唯一の幼子に生き延びて欲しいと、願ってくれていた。
頭の片隅を掠めた何かを振り切るように、一層声は高く、腕は震える己を抱きしめる。
声は、歌は、人が誰もが持つ最初の楽器であり武器なのだと、行商人が戯れに教えてくれた。
悪意を持って声をかければ傷つけ、善意を持てば癒し、友愛を持てば親しみを、敵意を持てば殺すことも可能なのだと。
そして歌は、その人しか持たぬ、唯一無二の楽器であり、心に溜まった澱をさらけ出すための自衛手段であると。
辺境の村を周り、商いを行うその人はしかし立場に似合わぬ博識さをもって幼子や村人に様々な言葉を教え、文字を教え、数を教え、その手に持った楽器で歌を歌うことも多くあった。
その行商人が、王都から追われた名のある人物であることを薄々感じていても、誰もそのことを口にしなかったし、行商人自体も、『行商人さん』や『先生』と呼ばれる方が喜ぶような人だった。
その人も、今は村の皆とともに災害という名の飢えた魔物の群れに立ち向かい、土の中だが。
歌う。詠う。唄う。謳う。謡う。唱う。咏う。謠う。
ただ、歌う。
ただひとりの、血が濃すぎた村に生まれた最後の幼子。
十にもならぬほどの小さな子供が制御できぬほどに溢れる魔力を目当てにやってきた飢えた魔物たち。
博識である行商人ですら驚き、その知識をもってしても、半分ほどしか抑えることができなかった、膨大な魔力。
ヨダレを垂らして獲物を見定める魔物たちに包囲された村。
震えながら手に武器を持つ、険しい顔をした村人たちからは、軽く食べやすく保存のきく食料を。
魔力を操り、剣に炎を纏わせる行商人からは、幼子でも扱えるサイズの小さなナイフと頑丈な靴を。
怯えて泣きつく幼子を抱きしめた父と母からは、出来たての丈夫な服を。
行きなさい。
大丈夫、すぐに追いつくから。
安全な場所で、待っていなさい。
生きて
さあ、走って!!
幼子は、走った。
行商人が先頭に、村人が左右に、殿を務める両親に、幼子は守られ、魔物の隙をついて、その身に余る程の魔力に物を言わせて、言われた方角へ走り続けた。
今まで暮らしてきた全てとの決別を、幼子が経験したのはわずか8つの時だった。
その日の深夜、彷徨うことなく村の人々が作ってくれた安全な場所にたどり着けたのは、奇跡だった。
ぐしゃぐしゃの顔のまま、気絶するように眠りにつき、数ヶ月待った。
沢山の家畜たちと眠り、地下の保存食と、畑の作物でどうにかこうにか食事を作り、洗濯も掃除も、時に魔力の暴走で埃だらけのびちゃびちゃになることもあったが、なんとか暮らしていた。
幼子が村に向かったのは一年後。
そこには村のあとも、魔物もいない、真新しい木が生えただけの森の一部になっていた。
異様な繁殖力を持つ森の木の養分になったのだと、言われずとも幼子はわかってしまった。
口を開けた幼子から、ぽろりと歌がこぼれ落ちる。
村人と、両親と、行商人と、皆でささやかな祭りを催した時の、陽気な歌だった。
最後の一音を響かせて、口を閉じる。
月は既にその身を隠し、うっすらと太陽の光が空の端から登り始める。
目覚めた家畜たちの鳴き声が響き、花びらから朝露が滴り落ちる。
爽やかな空気を存分に孕んだ風が体を通り過ぎ、新しい一日を運んできた。
今日も一日、変わりなく同じ日であるようにと祈り、家に向かう。
さあ、まずは腹ごしらえをしなければ。
お読みいただきありがとうございました。