表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/10

「えー、まじで? やべえじゃん」

 軽口を叩いているのは、大学生のとき、少しだけ勉学をともにした男だった。別に、同じ教室に居たからと言って特別に仲が良かった記憶はないが、数年後、すれ違い様、私のことを認知し、声を掛けてくる程度には、彼の中では仲が良かったとされているらしい。確かに、彼との関係は高校生のころのように無理をしていた一年のころに築いたものだったから、当時は会えば話をしたし、共通の友人も居て、グループ同士で昼食のテーブルを囲むこともあった。そういうのは、一般的には、無視するほど無関係でもなかったようだ。

 大学を辞めた、という経歴があると、人は「なぜ辞めたのか」という点を追及しようとする。それは、彼らから見た「普通」というレールから外れた行為だから、興味があるのだろう。見たことの無い生物を見れば、それをじろじろ見物してしまうことは私にもあるし、別に、悪だとは言わないが、どんな綺麗な言い方をしようと、余計なお世話に違いはない。私もそうだが、意味や理由を大事にしようとする向きが現世にはある。正当化する武器にもなるし、理解する手助けとなる場合もある。でもやっぱり、そんなことを求めるのは野暮だし、ましてや他人のその領域に土足で踏み入るなど、礼儀知らずも甚だしい。

 なんとか、という名前のこの男も、会話の取っ掛かりはそこだった。久しぶりじゃん、あれ、そう言えば桜木って大学辞めたんだっけ、何で辞めたの、今何してるの。そんな具合である。

 私はこれから仕事に行こうかというタイミングだったが、この場合の仕事においては、急ぐ必要はこれと言ってない。シフトでかっちりと割り振られているわけでもないし、彼らは与えたいがために私を雇っているだけなので、こなさなければいけないノルマも無い。だから、今回も急いではいなかった。だが、話を聞いてやるべきではなかったと思った。

 とりあえず定職には就いていない、と伝えると、彼は嬉々として、大学生のノリのまま、そう言ったわけである。こんな屑のような、名前もわからない相手にさえ私は自尊心を傷つけられ、劣等感を覚える。世の中って屑ばっかり。優しくも、易しくもない。

 いやいや、たった四年で人の名前すら忘れてしまう私が悪いんですよね、ああ、知ってます知ってます、はいはーい、わかってまーす。

「なあ桜木ってさ」スーツのネクタイを少し緩める。「実は俺らのこと、馬鹿にしてなかった?」

 唐突にそんなことを言われ、私は素直に驚いた。全くそんなつもりなどなかったのだから、当たり前のことだ。笑顔で居続けることが、却っていやらしい。

「そんなことはないけど」

「うっそだあ。俺らのこと下に見てたから、付き合いきれねえとか思って離れたんじゃないの? 俺、そういうのわかるんだよな」言うが、全くわかっていない。「別に良いけどさ、今更、あんな昔のこと」

 なるほど彼の場合においては、彼の自尊心のために、私に声を掛けてきたようだ。仲が良かったなんて、全く思っていないのだろう。同感だ。

「なら、私もう行くけど」

 言い置き、離れようとしたところを、腕を掴まれて制止される。溜息をついて、目を細め、猜疑心を顕に振り返ると、彼の笑みはもっといやらしいものへ変化している。

「社会って狭いよなあ」そんなことを言い出す。「俺の同僚がさ、行きずりの女と寝たって自慢してきたから、写真見せてもらったんだ。そしたらそこに写ってるのはお前だった。簡単に写真なんて撮らせるもんじゃねえぜ。なあ、別に用なんて無いんだろ、俺とも寝ろよ」

 男の顔を見た。笑みが、顔に広がり、グルグルと回転し、やがて、彼の顔は捩れて空洞になる。真っ黒の大きな穴が私のほうを向いて、その奥底からまだ何か言葉を吐いている。

 私は、もっとシンプルな意味で、吐きそうになった。

 腕を振りほどき、一歩退く。

「別に良いだろうが。減るもんでもない」

「うるせえ!」からからに乾いた喉から搾り出した叫びは、ほとんど声になっておらず、全く様になったものではない。「死ね!」

 でもまあ、なんでもいいや。

 走り出してからは振り返らなかった。私のことを振り返る人は何人かいたが、その背後に何かが迫ってくる様子はなかった。五分ほど走り続けて、ゆっくりとペースを落とし、考えることは、悔しいでも、悲しいでもなく、スニーカーを履いてきてよかった、なんてそんなものだった。

 こういうことは、今までにも何度かあった。美紀に言わせれば高校生のころからだらしなかった私は、性欲に埋もれた男たちにとっては格好の的だった。そりゃ、求められることを「得」であるとすれば、私は得をしているように見えるのかもしれないが、前にも言ったように、私はとりあえず生きていてそんなに得もしていないし、損もしていないと思っている。というのも、プラスマイナスを勘定すると、どちらにも傾かないからだ。

 見てくれがよければ得をする。ただ、そこに悪い評判が付きまとうと、結果的には損だってする。そういう話である。

 上がった息がなかなか戻らない。走ったのなんて、一体いつ振りだろう。こうやって、懐古主義になっていくのかもしれない。大人になったかどうかはともかく、年は取っている。それは間違いない。

 ひとつ深呼吸をしてから、伊能家を訪れる。雪路さんは相変わらずの柔和な笑みで私を迎え入れる。笑いかけてくるなら、こういうほうがいい。出してくれた水が、身に沁みる。

 部屋に入るなり、目なんてろくに見えてやいないくせに、

「何かあったのか?」

 正孝はそう言った。表情でわからないなら、息遣いとか、足音とか、そういう機微から判断しているのかもしれないが、そんなものまで察知されてしまうと、私は身じろぎひとつできなくなりそうだ。

「別に何も無いですよ」

 ソファに腰を落ち着けて、深く身体を沈めていく。自分で買うつもりはないが、大きくて柔らかいソファは、安心する。

「それなら良いが」彼はいつものベッドから立ち上がり、例の如く対面する位置にやってくる。「いや、正確に言うならば、何かあったとしても、僕には関係がない、かな」

「ええ、そういうことです」なんだか可笑しくなって、私は声を出して笑ってしまった。「あなたに私のことは関係なんてない」

 社長のことを考えないアルバイトが平気で蔓延するように、アルバイトのことを気にしない社長だって山ほど居る。どうだっていいし、そもそもが誰だっていいのだ。気にするだけ疲れるし、疲れたら仕事の能率が悪くなって本末転倒もいいところだ。お互いにして、関係ないと言いきれるほうがいっそ清々しい。取り繕うのは、無意味だ。

 正孝が、私に何があったのかなんて、いちいち気にする必要はないし、気にされたって私も困る。それを説明する必要もないし、きっと彼だって説明されても困る。淫乱だ尻軽だと馬鹿にされるのが今の私の立場なんだと、どんな顔をして言えばいいのだ。まあ、彼に顔なんて見えないのだけど。

 それに結局、私自身がその立場を作ってしまったのは自覚しているし、だから甘んじてその評価を受けると思っている部分も、ある。あんな風に下心丸出しで来ない限りは。どうせなら下半身丸出しで来たほうが応対してやったかもしれない、面白いから。

 なんて、下らないことを考えるのはなぜだろうか。傷がついたからか。その傷を見て見ぬふりしようと、必死になっているのか。そうなら、恥ずかしい。自分でひけらかすくらい、どうだっていいと思っているはずなのに、本当はずっと、気にしているのだろうか。

 気にしているんだろう。だって「美紀になら、何を言われてもいいかなと思える」と、考えたことを覚えているから。それは美紀の存在の重要性を再認識させる言葉であると同時に、ほかの人間には何も言われたくないと、自分の存在そのものをコンプレックスに感じていることの証明でもある。コンプレックスに感じているから、「気軽な女」を誇示している。金持ちと違って、優れてなんていないから、それを顧みると、落ち込む。

 できれば、自分は汚い女なのだと、思いたくなんてない。でも、事実私が歩んできた道は、汚いのだとは思う。汚れた道を歩けば、身体だって汚れてしまう。ただ、私にはほかの道が見えなかった。順当に大学を卒業するレールなんて、そもそも走っていなかった。

「いつか」や「誰か」がそのうち来るなんて、思ってなんていない。これで良いのか、これが良かったのか。自問は飽和するほど考えた。良いと思えたことなんてないけど、とりあえず生きている、生きていられる。じゃあいっか。結局はそうやって言い訳して、見て見ぬふりを続けてきた。必死になっていた。そんなことは、知っている。

 でも、じゃあ、どうすればよかったの。私はどこから間違い続けていたの。どうして誰も正してくれなかったの。何で導いてくれなかったの。

 純粋な恋愛をして、ちゃんと大学を卒業して、親とも仲良く、定職にも就いて、いつかは誰かと結婚して。そういう道に、何で連れて行ってくれなかったの。

 こんな劣等感まみれの道の果てに、私を待っているのは、死しかない。生きる、なんて意味もわからない行動の末には、肉体的な劣化しか訪れない。毎日毎日、何かを忘れて、息を切らして、ただ死んでいく。誰にも必要とされず、結局ずっと「誰でもいい」穴に嵌ったまま、ようやく私にしか入れない穴を見つけたと思ったら墓穴なんて、そんなの悲しすぎる。いや、正確に言えば桜木家の墓にも入れないから、私を迎える最後の穴は「無縁仏」か。最後まで誰でも入れる穴だった。いっそ笑えてくる。

「泣いているのか?」

「目も見えないくせに、よく言いますよ」私は、笑って、溢れてきた涙を、拭う。「泣いてないですよ。何で悲しくもないのに泣くんですか」

「泣くのは瞳を潤すためだ。悲しくなくても涙は出る」ただ、と彼は続けた。「僕にはそう見えた、という話だよ」

 わざわざ、皮肉を繰り返す気にもならなかった。

 それは、たったそれだけの台詞に、安心してしまったからかもしれない。なぜか。

 なんとなく、彼は今、ちゃんと私のことを見たような、そんな気がしたせいだろう。目も合っていないのに、そもそもお互い顔だってろくに見えないのに、何でか、そう思ってしまった。

 でも、すぐに、理解する。

 彼は、与える人間だからだ。立場を。私は彼の前では「気軽な女」という立場で居なくて済む。ただの「話し相手」でしかないんだ。私の経歴とか、背景なんてものは、関係がない。ただ、今、会話をするだけの相手だから、後のことはどうだっていい。なんて解釈は、好意的過ぎるだろうか。

 悲しくもないのに、笑ってもいないのに、流れてくる涙は、瞳のためでしかない。そう思えるだけで、今はいい。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ