八
正孝は苦悶の表情を浮かべている。かれこれ半時間何も会話が生まれていないのは、ある意味ラッキーだったし、別の意味では苦痛だった。こんなことになるなら気安く「生きるってなんですか」なんて聞かなければよかった。この間のように「そんなものは結果でしかない」とかなんとかと、言ってくれるものだと思っていたのに。彼こそ流動的であったことを失念するとは。
顎に手をやり、長い髪で顔を隠している。そういえばかれこれ三度目の邂逅となるが、まともに顔も見ていない。
「もういいですから」
「もういいとはなんだ」
私の言葉に顔を上げると、きょとんと表情を落として訊ねてくる。
「もういいって言うのは、長いから、もう考えなくて結構です、ということです」
「桜木萌子は、自分のために思考をしている人間を目の前において、もういいからと簡単に切って捨ててしまう人間だったのか」
「そういう人間だったんです」
「わかった、じゃあやめよう。それは永遠のテーマとなるわけだ」
もはや段々、適当なだけの人間なのではと思えてきたが、それはそれで別に、困るところはない。
なぜ彼に対し「生きるってなんですか」と尋ねてしまったのか。多分、美紀と会ったのが大きかった。順風満帆を体現するように彼女の人生は充足されていて、一方で私のそれはどうなのだろうかと、考えてしまった。同じ「生きる」なのに、どうしてこう変化してしまうのか。同じスタート地点に立っていたはずなのに。生まれてから、死ぬまでに、一体いくつ意味のある事象を行うのか。そんな、当て所もない、齧ったこともない哲学に触れてみようとしたら、頭がこんがらがって、それなら、正孝に聞いてみよう、と至った。なんとなく「そんなものは結果でしかない」と言ってもらえれば、まあ、考えることなんて無駄ですよね、とか返事をできたかもしれない。そういう思考に溺れれば、もう少しは生き易くなるんじゃないかな、って、期待していた、かもしれない。他人から寄せられる期待なんて、重圧でしかないのに。
しかし彼にしてみても「生きる」というテーマは、簡単に結論の導けることではないらしい。「生まれてくる」ことに関してはなんでもないように答えていたのに。以前彼の言ったように、生きている以上立場が存在することは、理解できる。私の場合におけるそれを明言することは、今のところ難しいが。それでは「生きる」とは立場を全うすることなのか、というと、どうも頷けなかった。それこそ、流動的だからだ。変化し続ける。だから、全うするほどそこに固執していない。じゃあ、生きるってなんだろう。
ショートケーキの苺を頬張ってから、正孝はすらりと長い脚を組む。
「人間は、いつか必ず死ぬ」
私も、ショートケーキの苺を頬張ってから、煙草に火をつけた。
「そりゃ、死にますね」
「当たり前のように言うが、どうして死ぬのが当たり前だと認識している? 世の中には気付いていないだけで死なない者も居るかもしれない。その可能性を排除し、なぜそう言った?」
揚げ足を取っているつもりも無いのか、眠そうに深呼吸をし、目頭を掻いている。
「とりあえず言えるのは、大抵の人間はいつか死んでいくので、死なない人間が居たとしても、証明するまで生きていられません。引継ぎ引継ぎで観測していくにしても、途中、齟齬や改竄が起こる可能性はある」
「証明できないものは、存在しない?」
「まあ、愚かな言い方をすればそうですね」
「じゃあ、桜木萌子は何を持って、人は死ぬと考える? 思考の停止か? 心肺の停止か? 社会的迫害か? それとももっと別の意見を持っているかな」
「私は」今、生きているのだろうか。「そうですね、その人が死んだ、と思った瞬間が、人の死です」
「ほう、つまり?」
「その人の人間性、つまり思考において、自身は終了したのだと感知すれば、そこで死亡です」
「それじゃああるいは、死は錯覚かも知れないな」とうとうあくびを噛み殺している。「でも同時に、君は死なない人間の可能性を再浮上させたが、その心理は?」
「再浮上なんてしていないですよ。肉体的劣化は必ず平等に訪れる。少なからず、桜木萌子調べでは。そうなると、劣化の末、自分はもう生きていられない、とそれこそ、錯覚するわけです。人間は、言葉を介するようになると、自分が人間であるものだと認知します。そして同時に、人間はいつか死ぬものだ、という概念を理解する。だから自分もいつかは死ぬのだと、認識する。肉体的劣化により不自由を来たしてくると、自分はそろそろ終わってしまうのだと、考えざるを得なくなる。死という概念を知っているから。だから、人間、イコール、人間であると自覚している者は、必ず死にます」
「なるほどね。死なない生物が在ったとしても、それは自身を人間ではないと思い込んでいるから、すなわち、人間は死ぬ、とそういうことか。なかなか面白い」
言いながらも、それは眠気を覚ます程度ではなかったらしい。
そろそろ、四時間が経とうとはしている。ただ私のほうから「今日はこれくらいにしておきますか」と発言することは、許されない。それは、どの会社でも同じだろう。ただのアルバイトが、社長に向かって「今日はやめときましょうよ」なんて言えるわけがない。よほどの馬鹿でない限り。
と言っても、会社のことを、社長のことを考えていないアルバイトなんてものは、世の中にはたくさん居るだろう。そりゃ、アルバイトなんだし、不都合が生じたらいつでも辞めたり辞めさせられたりする、言うなれば「不定職」なのだから、そのくらいの意識でもいいのかもしれない。実際、私だってそうだ。従事する気も、貢献する気もさらさらない。私の場合は少し違うが、大抵は小遣い稼ぎなのだから、仕方ない。ただ、それでも、余りにも世の中には馬鹿が多すぎる。それは、アルバイトである、社員である、という認識の差以前に、人間として、思考が足りない。何をしてはいけないのか、どのような迷惑が生まれるのか、そういうことを完全に意識の外に追いやって、その場の勢いや見栄で下らないことを披露する。同時に、ネット社会の恐ろしさもよく理解していないから、大きく燃え上がってから、ようやく事の重大さに気付く。いや、気付けば良いほうだ。
それを悪だと糾弾する気はない。誰だって間違いをするし、馬鹿に違いはない。完璧な人間は居ないし、失敗してやっと学べることも世の中には多くある。ただ、それにしても、もう少し、と思うのが、正直なところだ。
私は人生でどれほどの失敗をしただろうか。どれほどの失敗をし続けている。いつになったら学習するのだろう。こうやってアルバイトを渡り歩くのはともかく、男を渡り歩くのはいつになったらやめられるのだろう。これは、失敗か。馬鹿か。まあ、そうなんだろう。でも私は、それを悪だと糾弾しない。そして、誰も私に「強いる」ことはできない。一般の、正義を。
「世の中には、間違いが多くある」
眠りこけるように頭を揺らし、出てきた声音はくぐもっている。半分、寝ているように見えた。
思考を盗み見でもされているのだろうか、と思ったが、私は口を挟まなかった。
「しかし、それは、誰から見た場合の間違いなのだろうか。世の中には間違いが多くある、という発言は、傲慢だ。間違いなのか、違いなのか、それすらも判別できない、自分のことを真実であると思い込んでいる輩の、身勝手な暴言だ。僕は目が見えない。例えば、目の見える桜木萌子から見て、それは間違いなのか? 君がそうであると言っているわけではないが、人はみな目が見えるべきだ、という真実によって、僕は往々にして間違いにされる。より不幸なのは、どちらだ? 視覚よりももっと大事な何かを、それは欠如している。何より僕は」
「与える立場、ですよね」煙草をもみ消すと、立ち上がった。「四時間経ちました。今は自分に睡眠を与えてやってください」
正孝は一瞬呆気に取られたように言葉を呑んだが、すぐにくつくつと笑い出し、
「ああ。君にも給料を与えてやろう」
「そりゃどうも」
「礼を言う必要はない。それだけの労働をしたのだから。働かせてもらっている、なんて認識が、必ずしも正しいわけじゃない」
「ま、そうですね」恐らく正孝はどこかで働いたことなど無いのだろう。そんな気がする。だからそんなことを言える。そう思う。「でもとりあえず、ありがたく頂いて帰ります」
「うむ。それじゃあ、今日はこれまでだ」
言うなり、身体を重そうに引き摺って、ベッドにもぐりこんでしまった。
階下で雪路さんから封筒を渡される。今回も「気持ち」を込めておいた、という旨を伝えられた。私は封筒をつき返し、その分は抜いてくださいと申し出た。彼は素直にそれを受け入れる。こういうとき、なぜとかどうしてと聞いてこないのは、ありがたい。多分、下民の自尊心になど興味ないのだろう。いや、そんな人ではないか。
新しい口紅を塗って、家族の愛を耳につけたところで、自分自身も、周りの人間も、途端に何かが変わるわけではない。そんなことは当たり前だ。買ったまま読まない本も、いつか残した半分ずつのパフェも、全部、無駄でしかない。気持ちなんて不明瞭な要素は、何かの起点にはならない。前にも言ったが、人格なんてものは早々変わらない。可能性なんてない。気持ちひとつで世界が変わるなら、それを知っているなら、誰だってネガティブになんてならない。
何かを「当たり前だ」と言い切るにおいて、その基準、観測対象は当然私ということになる。他人を観測対象とすると、それこそ情報の伝達において齟齬や改竄が行われる可能性がある。それは、他人同士は根本からの理解ができない、という自論に通ずる。自分の思う「A」を他人も「A」と受け取ってくれるかは、不確定なことであり、同時に、他人同士である以上それを確認することも不可能なのだ。
だから「当たり前だ」と言い切るのは、あくまでも私はそう思っている、という、結局は、エゴイスティックな考えに過ぎない。でも、まあ、世の中の大半はそういうもので、誰かのエゴが、蔓延しているだけだ。私の思考も、私の思考だと思っているだけで、誰かの受け売りに過ぎず「エゴイスティック」も、ただの勘違いかもしれない。思考こそが人間性であるが、それが自分自身の生み出したものかは、わからない。というより、大部分は、頭の良い人間が創造したものだろうと思う。スマートフォンや、そこにおける検索機能だったり、システムというものと同じで、思考も、頭の悪い人間は、既存のものを利用するしかない。だから、私の自論でさえも、本質的には、誰だって良いものなのだ。私が主張しなければ、別の誰かが主張する。同じように、頭の良い人間が考えたことを受け売りする。私のような末端は、媒体でしかない。誰かから、誰かへの。
生きるとはなんだろうか。私は今本当に生きているのか。では、死ぬとはなんだ。死んでいるとはどういうことか。
それは、私が大人なのか子どもなのかと同じで、境界も曖昧だし、判断基準も、万別なのだろう。誰かから見れば、私は、死んでいる。そういう話でしかないのだと、受け入れるしかない。答えは用意されていないし、誰かが採点してくれるわけでもない。そういう意味では、永遠のテーマだとかなんとかと言って投げ捨てたほうが、楽なんだろう。
死ぬときになれば、死ぬとはどういうことなのか、生きていたとはどういうことなのか、多分勝手に理解する。それまで適当に生きてみても、まあ、悔いは残るかもしれないが、別に、死ぬわけではないだろう。