七
「それで、今は何してるわけ?」
スーツに身を包んだ美紀はそのかっちりとした印象とは裏腹に、ぼろぼろと下手糞に具を零しながらマカロニグラタンクレープを食べていた。二二になっても、そういうところは昔と変わらない。相対するラフな服装の私は、すでにぺろりと食べ終わっている。
「何って言われると困るかなあ」
「え、何それ、怪しい仕事?」美紀は紙ナプキンで口元を拭いながら、怪訝に眉根を寄せて、「ちょっと勘弁してよ?」
しかし私の回答としては、
「怪しくないと言えるかは、微妙だなあ」
また何かを言い返してくる美紀を無視し、私はモール内を歩き回る有象無象に視線をやった。カップルも家族もあるいは独り身も、目的を持っているのかどうか、まっすぐ前を見て歩いている。休日のショッピングモールなんてこんなものだし、それを知っているからこそ来たくなんて無かったが、妹からの誘いとあれば乗らないわけにもいかない。こうやって顔を合わせるのなんて、何年ぶりのことか。
大学を辞めてその勢いで家を出るとき、私と両親は法的能力を持っていないにせよ、離縁した。決別だ。葬式にも来なくていいと言われた。あるいはそれは期待の裏返しだったのかも知れないが、今のところ私はそのときの自分の判断を後悔しても居ないし、反省だって皆無だった。特に会いたいと思うこともない。産んでくれただけ、ここまで育ててくれただけ、感謝はしているが、感謝は感謝で、また別の話である。それがあるからどう、というところまでは及ばない。ましてやもう他人同士であるとお互いに認識しているはずなのだから。今更何を思うことも無い。
ただ、妹は別だった。彼女は私たちのいざこざに関係が無いし、何より、そうした地に残してきてしまったことに後悔も反省も抱くくらいには、愛を持っていた。家族愛なのか恋愛なのか、ともかく彼女は私にとって特別だった。それだけだ。
いや、羨望かもな。美紀に視線を戻し、そう思った。同じ親から生まれたはずなのに、彼女の容姿は私とは違い圧倒的に「得」をするタイプだったし、努力家だから、勉強ができると言う意味では頭が良い。期待に応えようとするし、不向きなことにも果敢に挑戦する。作ろうと思わなくても友達ができる。明るくて、好かれる人だったから、そう、これは、羨望なのかもしれない。
しかし羨望であると、それは往々にして嫉妬と表裏一体だとも言える。今でも両親と問題なく生活し、こうしてスーツを着込むような立場にもなって、多分、彼氏だって居るのだろう。私のできなかったことをやり、持っていないものを持っている。そういう面では、同時に嫉妬もしている。
だから、
「自慢の妹だね」
そんな言葉で全てを上塗りする。
「何急に」
「何と言われても、仕方ないよ、急に思ったんだから」
「気持ち悪いの、何それ」照れ隠しのようにクレープを押し込んで、ぼろぼろと零すところは、愛嬌があって可愛い。妹は妹で、私とは別の人間だ。「それより怪しいかもしれない仕事って、まさか身体売ったりしてないでしょうね」
「身体は資本だからね。そういう意味で、身体を売らない仕事はないよ」言いながら、私はたった一度の、しかも一時間の仕事で、正孝の影響を受けてしまったのか、と可笑しくなる。「美紀だって身体を売ってる」
むせ返りながら、
「ちょっと止めてよ」何とか反論する。マカロニグラタンの熱いところが喉に引っかかったのか、涙目になりながら、「一緒にしないでよ」
美紀になら、何を言われてもいいかなと思えるところがある。唯一の姉妹で、家族だったから。何より彼女は完璧で、声音はいつだって優しいのだ。
「言うけどさ、案外私の仕事のおかげで、美紀だって仕事ができているのかもしれない」
「何それ。うちの会社の人と寝てるわけ?」
「やーだ、もう、寝てるだなんて」
「ちょっと」からかうとすぐに反応してくれる相手は、話しやすくていい。「今のはモエのせいじゃん!」
「責任転嫁? やあね、私そんな子に育てた覚えないわよ」
「いや、モエにはその方面でしっかり育てられた覚えがあるわ」睨みすえるように目を細める。「昔からモエはその辺の考えが緩いからね。だって彼氏じゃない人、何回家に連れ込んだのよ」
「私そんなにだらしなかったっけ?」
「だらしなかったよ! 私が中学生で多感な時期だって言うのに、隣の部屋で……、まあいいや、こんなところで話すことじゃない」
言って、拗ねたように目を閉じた。
個人的に、過去や思いを共有できるのは美紀だけだった。中田敏彦のように、同級生であれば、仲の良かった人間も居るし、その時代の、学校での生活に関しては共有できなくも無いが、私は当時とは様変わりしてしまったし、どうしても「劣等感」が邪魔をして、同じ段から過去へ下りていけない。ある意味中田敏彦に関して言えば、彼もどこかで「劣等感」を抱いているからか、話をしやすいほうだったが、彼は一応実家で働いているわけで、つまるところ社会人だ。社会人としての「劣等感」と、私の立場が持つそれは異なるものだから、多分、純然たる思いの共有は無理だろう。彼でさえそうなのだから、ほかの同級生など会いたくもない。でも美紀なら、たった三年程度、しかも学校での数時間の積み重ねと違って、彼女が生まれてから私が家を出るまでの十数年を共有している。話をし、お互いのことを知り、蓄積させてきた過去がある。ましてや家族であれば「お前変わったな」なんて早々言わない。変わっていようとどうだろうと、無条件にそれを受け入れる覚悟を、今のところ持っていてくれている。
ある意味、カップルや家族が行き交うこのショッピングモールでこそ、私は美紀と過去を共有したかった。私にとって「家族の時間」は、今この瞬間しかない。毎週末じゃなくて、何年に一度。だから、いいじゃないか。
「美紀だって高校生になっていろいろ渡り歩いたんじゃないの?」
「失礼! 私ずっと付き合ってる彼が居るので。モエにも言った人だよ」
「え、そうなの?」美紀からその報告を受けたのはいつだったか。一回だけだった気がする。「あれだ、何とかくんね」
「館本くんね」
「それじゃあ、え? 何年?」
「もう六年くらい」
「ってことは結婚の話とかもそろそろ? 二人とも社会人になったわけだし」
「そうだね」右ひじを突いて、指先で唇に触れる。「話が無いでもない、かな」
やっぱり彼女は、私の持っていないものを、どんどん手に入れていく。
「そうなんだ」
「まあね」私の表情を見て、何を思ったのか、「お母さんたちになんて言われても、式には呼ぶからね」
私は、愛想笑いを返した。
呼ばれても、行かないだろうな、と思ったことを、美紀も多分、わかっていただろう。
だからすぐに話題を転じた。
「それより私、見たいお店あるんだよね。そのためにわざわざこっちまで出てきたんだから」
「服なんて着れれば良いと思うけどねえ」だから私もすぐに乗ってあげる。「何万も掛ける理由がわからんよ」
そこから服の価値とは何たるやと講釈を頂いたが、それは私には退屈で、ほとんど忘れてしまった。ただ美紀が熱心にそれを求めているのはよくわかった。求められる服の気持ちはどうだろう。いや、服なんて布で、布に気持ちなんてないけど。求められて、報酬と引き換えに、身を粉にして働く。それこそ文字通り、服が粉になるくらい使用されるなら、服冥利に尽きるのかもしれない。
私はどちらかというと、私みたいな人間に買われる服なんだろう。何でも良い、とりあえず働いてくれれば。そう思っている人間に雇われ続けてきた。と、思いたいだけかもしれない。そのほうが、気持ちが疲れなくて済むから。
社会は流動的で、盲目的なほうがいい。手当たり次第で、相手を思わない。それくらい無関心で、不干渉で、冷淡なほうがいい。それこそ社会なんて概念であって、気持ちなんて無いんだから。現存する他人に過干渉な社会なんてやつは偶像で、なんと言うか、うるさい。煙草を吸えるポイントが限られていたり、そういう場であるのに煙たがられたり、「私は社会を代表してあなたに物申しているのです」みたいな態度で私情を挟んできたり、うるせえよって、思う。社会は存在するだけで物なんて言わないんだから。どこでも煙草を吸うやつは横柄なクソ野郎だと思うし、でも同時に、どこでも煙草を批判するやつも横柄なクソ野郎だ。過干渉なやつらは、許容範囲が狭い。許せないから干渉して自分の領域に連れ込もうとする。「私に相談もしないで一人で悩んでいる」ことを許せないから「どうしたの」って聞いてくる。相手個人を知ろうとしないで、そう声を掛けられることが相手にとって救いになるんだと盲信して。下らない。
美紀は結局見たかったお店では何も買わず、どこにでもあるようなブランドの安いワンピースを一着だけ買った。
「それでいいの?」と聞いたら、
「まあ、やっぱり、ここにお金掛けてもいられないよね」と苦笑した。結婚の話があるからだろうな、なんて考えて笑い返すと、「はい」
言って、小さな紙袋を渡してくる。私はそれを受け取って、美紀のほうを見ると、
「何これ?」
「トイレ行ってる間に買っておいた。まだ穴、通るよね?」
私の耳元を見る。
「見ても良い?」
頷いてくれるのを待ってから紙袋を開き左手に落とすと、タツノオトシゴのチャームがついたペアのピアスだった。ひとつを手にとって眺めている間に、掌に残ったもうひとつを美紀が取った。
「あげるけど、ひとつは私のやつね。おそろい」
これもまた、気を遣われているのかもしれない。私にとっての家族がもう自分しか居ないことも、多分、私に恋人という名の頼れる人間が居ないことも、美紀はわかっている。だから、自分が姉にとっての支えにならなくちゃいけないと、彼女が考えていることも、伝わってくる。よくできた妹だけど、そういう駄々漏れなところは、欠陥品だとも言えた。
でも、照れくさそうに、早速片方を耳に差しているのを見たら、そんなのどうでもよくて、可愛いと思ったし、愛しいと思ったし、綺麗だと思ったし、一方では、嫌いだとも感じていたりして、頭の中が忙しかった。
私も、ピアスを耳に差す。
久しぶりに入れたピアスは、なかなか入らなくて、痛かった。
愛なんてそんなもんだ。
「何の仕事してるかは知らないけどさ、しんどくなったら言ってよ。いつでも来るからさ。辞めたって別に良いんじゃない? モエのやりたいようにやりなよ」
そんな、どこかやっぱり上からの言葉を残して、妹は帰っていった。
見送った駅でひとりぽつんと、寂しくなって誰かを待った。よくないなんて、知ってるけどさ。