五
二回目は、ひとりだった。中田敏彦から簡易的な地図を貰っていたが、迷わなかったのはほとんど奇跡と言ってもいい。無関係だと思っている風景を、覚えていられるわけも無い。ある意味毎日新鮮だ。
正孝はこの間と同じで、ベッドの上で本を読んでいた。一応雪路さんには今日訪問する旨を連絡しておいたが、伝わっていようがいなかろうが、彼の態度は変わらないのだろう。
「どうも」
そんな一言を言い捨てて、ソファに座った。二回目ともなれば、相手がどういう人間かも、少しはわかる。テーブルの上には、今日はカステラが置いてあった。それを一切れ放り込んでから、許可も取らずに、でも灰皿はちゃんと取って、煙草を吹かした。しばらくして雪路さんが紅茶を持ってきてくれる。いい匂いだった。
三本灰にしてようやく、彼は本を閉じた。
こちらに近寄って、対面に座ると、
「やあ。桜木萌子」
「どうも」私は二度目の挨拶を繰り出してから、「恵まれに来ましたよ」
皮肉を言うが、
「仕事だろう?」素直な正孝は首を傾げる。「恵んでやるのではない。報酬だよ、これは。ちゃんとした、ね。ビジネスだ」
「何でもいいですよ」
「まあ、そうだな」笑うわけでも怒るわけでもない。「それじゃあ、話をしようか」
始業の合図はへんてこりんだった。タイムカードは無いが、彼自身がタイムカードなのだろう。今までの仕事のどれとも異なる職種だった。接客ともいえたし、工場勤務とも言える。まあ、四時間ぽっちで二万円もらえるなら何でもいい。
私は新しい口紅を引いた唇を開いて、
「何の話をするんですか」
「桜木萌子は何がいい? 君はいつもどんなことを考えて生きている? 何を考えるためにお金を稼いでまで生きているんだ?」
「生きているからと言って何かを考えているわけではないと思いますけど」
紅茶を口に含んで、飲み下す。潤ったかと言えば、微妙なところだ。余り紅茶は好きではなかった。
「いや、生きている以上、何かを考えるものだよ。考えていない人間は存在しない。もし本当に何も考えていないやつがいるんだとしたら、それは人間ではない」
「随分と言い切りますね」
「真実だからな。これが。今だって君は何かを考えている。さあ、ほら、何を考えている?」
言われて、私は何も考えてなどいない、と思ったが、これこそが思考に違いないと思い直す。
とすると私は常に何かを考えているし、確かに考えなくなったらそれは私ではなく、私の抜け殻でしかないのだろう。
人格や、個性といったものは、目に見える形を持っていない。しかしそういう不確定なものが、人間というものを確定する。それは、思考に他ならない。脳みそがどうやって動いて物を考えているのかなど知らなくても、人は思考をするし、その思考は千差万別で、ひとつとして同一のものは無い。
「何を考えていると思います?」
挑戦的な言葉を放ったことに、意味は無かった。会話を広げるときは質問に対し回答を用意しないほうがいい。
「さあ」しかし困ったことに、彼はこの手に乗ってくる人間ではなかった。「知る由も無い」
「そりゃ、尤もで」
呆れると言うよりは、どこか、納得してしまった。
私の視線は話題を探すために部屋中を駆け巡る。このシャンデリアはいくらですか。この部屋からは出ないんですか。ベッドふかふかそうですね。そんな言葉がいくつか通り過ぎたあと、
「本」
立ち止まったのはその単語だった。
「本?」
「何を読んでいるんですか? この間と同じものに思えますけど、案外読むの遅いタイプですか」
彼は振り返り、サイドテーブルに置いてきた文庫本を一瞥する。
「あれは、そうだな。なんだと思う?」
なぞなぞをしているような気分になってくる。まあ、正解しなくても賞金の出るなぞなぞなら、むしろ時間を掛けて考えているふりをしたほうが良さそうな気もしてくる。いやいや、そこまでの性悪に落ちたら、その金で生きていることが死ぬほど恥ずかしくなりそうだ。
なので私は、
「わかりません」
素直に返したが、
「桜木萌子はほとんど死んでいるのか?」
こちらのものは理解しないくせに、皮肉を言われる。
悔しかったが、空転する。
「じゃあ、歴史小説だ」
「なぜ?」
「さあ」お返ししてやったが、効果はいまひとつだった。思っただけですよ、などと続ける度胸は今のところ無く、仕方なく適当に、「歴史が好きそうだから」
「歴史とは、好き嫌いで判断することではないだろう。ただ、そこに在るものなのだから」
「へい、ご尤も」そうなのかもしれないが、講釈を垂れるように言われると気分が良くなるわけもなく。「で、違うんですか?」
「違うね。なんだと思う?」
ここでようやく彼は、笑んだ。話し相手を欲しがっていたわけではないはずなのに、楽しそうにした。いや、その二つを繋げて考えることは少々こじつけかもしれないが。前だって、人間らしいタイミングで笑いはした。
「ええっと、じゃあ、ミステリーだ」なぜ、を見越して、「ミステリアスだから」
「桜木萌子の考える理由は短絡的だな。安直だ。いや、僕は君のそう言うところは好きなほうだ。素直は、面白い」
単刀直入に言う人間だなと思った。が、それで顔が火照ってしまうことは無い。だって、それ以外が余りにも良くない。例えば顔が良くても、脚を組んだら様になっても、好きだと簡単に言えても、それだけで誰かを好きになることは無い。それは、思考ではないからだ。つまり、人間ではない。
今まで付き合ってきた人間の大抵は、以前の話と矛盾するようだが、性格が良かった。ただ、矛盾しない理由は、あくまでもそもそも、見てくれがいいから気になったわけである。見てくれが悪ければ、いいかどうかを判断できるほど性格を知ろうともしない。だから彼らはある意味得をしたと言ってもいい。いや、私の存在が「得」に当たるほどのものかと言えば、また別の話だが。
「そりゃどうも。それで?」
「不正解だな」
「じゃあ一体なんなんですか。二つも候補挙げたんだから、もう教えてくれてもいいでしょう」
正孝は片方眉を上げると、
「取ってきたらいい」
まるでなぜそうしないのかと聞いているような口調で、平坦に言った。とりあえず、取ってくれる気も、教えてくれるつもりもないらしい。
渋々席を立ち、サイドテーブルに向かう。表紙も、背表紙も、無地だった。カバーが外してあるのか、と思ったが、そうではない。開いて、やはりと思った。
この本には、何も書いていない。タイトルも著者名も、もちろん本文も何も無い。白紙を留めただけの、ただの本だった。
「これを読んでいたんですか? 白紙を? 読んで?」
「悪いが、僕は一度も、読んでいる、と言っていない」興味はカステラに向いているらしかった。それをひとつ手にとって、「桜木萌子が勝手にそう思っただけの話じゃないか」
「いや、でも、ほら」
反論を試みようと思ったが、確かに彼は視線を落としていただけで、「なんだと思う?」と聞いただけで、読んでいるとは言っていなかった。ああ、こいつ、苦手だ。
他人の考えは理解できないが、こいつはこういう人間だ、という理解はできる。諦めと似ているが、それは許容だ。許してやっている。と思い込む。
「何でですか?」
「何でだと思う?」
「そうですね」本を置き、ソファに戻ってから、「世界のあらゆる本を読み終えてしまったから」
「それは」帰ってきた私を見て、「素敵だな。だがそうではない。僕にとって、本は用を成さないからだ。なぜだと思う?」
試しているわけではないのはわかる。正孝に対し、何を思い、どう言うのかを気にしたのと同じように、私がどのように言うかを、待っているような顔だった。
「得るものが何も無いから、とか?」
「近いが、違う」父親似の柔和な笑みを浮かべる。「目が見えないんだ」
「見えない?」
「と言っても全盲ではない。凄く視力が悪い、程度に考えてくれればいい。どこに何があるのか、目の前にいるのが男か女か。そのくらいはわかる。ただ、文字を読むには苦労する。それだけの話だ」
「本当ですか?」と問うたのは、私が何度も「見られている」と感じていたからだ。「嘘では?」
「嘘を吐いて、何になる? 金が貰えるのか?」
これも、皮肉だろうか。
「眼鏡を掛ければ?」
「そうまでして見たいものが、桜木萌子には存在するのか?」
言われ、考え、
「いや」
出たのはそれだけだった。
「僕もそうだ。だから、別に気にしたことはない。そういうものだった、という認識に終始する。言ったろう。人は生まれるが、生まれたと言う結果しかそこにはない。目が見えなくなっても、見えなくなったと言う一言で全て終わるんだよ。まして、完全に見えないわけでもなければ、死ぬほど悲観することもない」正孝の表情は変わらないままだった。「同情するか?」
彼の視線が、私の瞳を捕らえた。ように、感じる。
なるほど、見てくれを気にしないのも、今なら頷ける。
思ったのはそれだけで、
「別に」
言葉になったのは、それだけだった。
「それでいい。大抵、人間は誰かの不幸を食い物にしようとする。それは、下劣だ。なぜと言って」
「あなたは与える立場だから」
引き継ぐと、正孝は、今度は声に出して笑った。
「桜木萌子は本当に、面白い人間だ」
「そりゃ、どうも」ただ、私は自分をそうは評価しない。「お金のためなら口なんてどうとでも動くものですよ」
「そうだな。君は金を貰うために口を動かせる」
「ビジネスですからね」
私は明るく好かれる人間ではないが、少なからずこの場において、彼にとっては「都合が良い」と判断されたように思えた。この仕事は「向いている」のかもしれない。良し悪しは、判別つかないが。
こちらにとっても、正孝と会話をするのは苦ではない。もちろん、彼のことが苦手だと言う認識自体に変わりはない。ただ、同じようにして、素直に言葉を投げてくるのは、嫌いではない。これは、同情だろうか。でも、よく勘違いされるが、苦手と嫌いは全くの別物で、そもそも土俵が違う。言えるのは、苦手から得意に変異する可能性は、ほとんどないと言うことだ。今言ったように彼のことは嫌いではないが、好きにもならないだろう。何せ、ビジネスだ。二万円の餌が無ければ、走らない。今のところ、無理はしていない、ただそれだけのことだ。
「人は働かなくても生きていける。それは誰かに囲ってもらうことができる、という意味でもあるが、生命活動を行うだけならば、別にお金が無くても何とかなるものだ。ただそれは現代社会においては、人間性を欠如すること、つまり人間ではなくなることと同義だ。しかし目が見えないからと言って、死ぬわけでもないし、人間性を欠如するわけでもない。目が見えるかどうか、ということで他人との優劣をつけようという概念自体が劣等で、価値の無いものだ」
「よく喋りますね」
「桜木萌子はなぜ定職に就かない?」言ってから、正孝は見えない目を閉じた。「いや、答えたくなければ答えなくてもいい」
そうして気を遣うような言葉をくれるとは思わなかった。
「さあ。どうしてでしょうね。やっぱり、別に、死なないからですよ」煙草に火をつける。「定職に就いていることがそんなに偉いですか?」
「偉いよ。偉いに決まっている。会社に従事し嫌な作業も引き受けて、むかつくやつに頭も下げる。アルバイトとはまた違う責任を背負い込む。それも、退社するまでずっと。こんな狂ったことを自ら行うんだから、偉い」指を絡ませ、遊んでいるようだ。「ただ、そんなことは、重要じゃない。大多数は君と同じ、生活のために働いているに過ぎない。偉いですね、なんて他人の評価が欲しいわけじゃない。そもそもが不要な論争で、下らないことだ。別に、君を貶めるつもりで質問したわけではない。そう考えるのは、愚かだし、どうしてそう考える必要があるのか、理解できない。謂れのない劣等感では何も育たないよ」
「そうは言いますけどね」吐き出す煙が長くなる。「同じ年齢で、順当に大学を出ていれば、もう社会人三年目ですよ。そりゃ、私だって色々思いますよ。別に、だからって、今から、それこそ一発逆転なんか狙っちゃいませんけど」
「桜木萌子は、定職に就きたかったのか?」
頭が可笑しくなりそうだった。正孝の中ではひとつの考えがその場に居座ることが無い。全てが流動的で、声になることで中心から逸れる。逸れたら、戻ってくるかどうかはわからない。私だって色々なことを思考するほうだと思っていたが、彼ほど次々と何かが芽生えては来ない。
果たしていつしか考えた「知ろうとする意欲」が、これほど膨らんでいるのも、どうなのだろうか。ましてや彼の場合、一方では全くその意欲など存在しないのだ。言葉巧みな三歳児くらいに思ったほうがいいのだろうか。
「そう思ったことはないです」
「生きていられるからか」
「それも、ありますけど、実際、何とかなるだろ、って思っているのが正直なところですね」
「何とかというと?」
「いつかは誰かと結婚して、家庭に入るんだから、定職に就かなくたって別に」
「その考えは、やっぱり、劣等感の塊だな。要するに君は定職に就いている、というレッテルが欲しい。それが社会において優位、とまでは行かなくても、一般的だからだ。君は普通でありたい。順当に大学を出て、社会人になりたかった。でもどういうわけか、なれなかった。だから生きていくための金があればいい、なんて言って自分を正当化している。肯定してあげている。これが自分だからと」
「うるさいな」思わず、口を突いて出た。「関係ないでしょ」
ぶっきらぼうな言い草にも、彼は怒りはしなかった。むしろ、息を漏らして笑うと、
「それはすまない。確かに、関係なかったな」
いつものように、また、流してしまう。
流された相手の気持ちがどこに向かうのかは、考えないのだろう。それは、彼の思考の流動の中に紛れない。彼はあくまでも自分本位に思考を展開させて、自己の欲求を満たすために質問をする。クリアになれば、終わり。ならなくても、いつの間にか消えて、どうでも良くなっている。
だから、こちらも本気になってはいけないのだと、それはわかる。流れるまま、流されるまま、適当に言葉を発すれば良いし、何を言われても、気にする必要は無い。無いはずなのに、それでも、胸がぐっと締め付けられる。人間だからだ。思考するからだ。
将来の夢は、前にも言ったように、お嫁さんだった。別にスポーツ選手とか、華々しい職業に就きたかったわけではない。実際、ああやって掲げた夢の通りに人生を歩めている人間はごく少数だろう。どこかのタイミングで「大人」になるからだ。私は結局、どちらでもない。大人でも、子どもでもない。それがわかる。自分の、立場というものが、ぐらぐらで、中途半端で、見てくれが悪いことを、知っている。そりゃ、劣等感だって覚える。
落ち込みそうだった。こうなるから、無駄なことは考えないように、人間性を一部落っことして、生きているだけだと考え込むことにしたのに。誰でも入れる穴にすっぽり嵌れたと思ったら、穿り出そうとする。穿り出す相手だって、誰だって良いんだ。私はそれになりたくないのに、願ってなんていないのに、無理やり腕を引っ張る。私が落ち着くことを、誰かが邪魔する。
考えるな。
それすらも思考。
「気分が悪いなら、帰っても良いぞ。一時間経っている。今日は初日だし、このくらいで終わらせても構わない。もちろん、こちらからの申し出だ、給料はちゃんと渡す。手渡しか、振込みか、どちらが良い?」
「あ、えーと」気を遣われるなんて。「手渡しで」
「うむ。父に知らせておく。今日はこれでお開きだ。次回はあっても無くても構わない。お金が欲しくなったら、また話をしよう」
私は正孝の言葉に背を向けて、その場を辞去した。
階下で雪路さんから二万円と「気持ち」の入った封筒を渡される。
正直に言えば、この「気持ち」の上乗せがあったおかげで、次の家賃も賄えるし、少なからずひと月の生活は保障された。何せ日給の五倍だった。「気持ち」のほうが日給より多いなんて、金持ちの考えはやっぱりよくわからない。ただ、このよくわからない「気持ち」で生活するのは、気持ち悪い。
何より私は負けず嫌いなのだ。定職に就かなかったこと、恋人が居ないこと。でもそんなもの手元に無くたって別に生きていられるし、なんて言葉で勝ち負けの土俵から一歩引いたところにいるふりをする程度には。だからこのまま、逃げ帰って終わりにするつもりは、さらさら無かった。
いやいや、落ち着け落ち着け。
これはビジネスで、勝負じゃない。何も勝とうとする必要はない。話題を、もっと自分のテリトリーに寄せれば言い話だ。そういう思考の転換が、うまく生きるためには必要なのだ。一方向から見ているだけで全てが見渡せた気になってはいけない。話すだけ、話すだけ。無理だと思ったら、辞めればいい。今までの仕事よりずっと楽じゃないか。私が辞めたところで一時の嫌味を言うやつも、蔑みをくれるやつも、今回はいない。あの親子は、そんな連中よりももっと高みから私を見ているのだ。次元が違う。辞めることは、逃げじゃない。そうそう。
貰ったばかりのお金でファミリーレストランに行って、同じパフェを二つ頼んで、半分ずつ食べた。こういう意味のない贅沢をしてみたら金持ちの気持ちがわかるかと思ったが、全然わからなかった。ただただ甘くて気持ち悪くなった。
新しい口紅も、すっかり落ちた。




