四
駅までの道を歩きながら、半歩先の中田敏彦の背中を見ていた。記憶の中の彼はもう少し姿勢が悪くて、だらしなくて、あだ名の通りに軽そうな人間だったが、今はすっかり余計なものをそぎ落としているのか、どこと無く堂々としたようにも見える。彼自身が変わったのか、私の視点が変わったのか、そんなことはどうでもいいし、判然とすることでもない。判然としたところで、嬉しくも悲しくもならない。そういう、どっちでもいいことが世の中には溢れている。本当に、それこそ私であるべきか、という点においては顕著だ。正孝は与えたいだけ。私が与えるに相応しい人間かどうか、与えてやってもいいと思えるかどうか、彼にしてみたら、それこそ気分次第の話で、どっちだって良さそうだった。
切符を買う。中田敏彦は普段から電車を使うのか、カードを持っているようだった。
ひとまず、都内から下っていくのは同じで、学生や、スーツ姿の男たちから少し離れて、ホームに立つ。
「どうだった?」
「どうも何も無いね」
返すと、彼は笑う。子どもみたいだった。要するに、綺麗だ。
電車が来るまでは、まだ十分弱あるようで、こういうとき、久しぶりの相手が隣だと、会話に困る。高校の同級生の現在を聞かせてくれたりするが、名前から顔が出てこない。その誰それが今や会社を興して社長をやっていると言われても、曖昧な反応しか返せなかった。だって、そんなの、知らない人と同じだ。知らない人の話を聞いて楽しいわけも無ければ、思うところなんて何も無い。ああ、そう。それで終わる。
中田敏彦のほうでも興味が逸れているらしく、話をしながらも、上り方面のホームに視線を投げている。そこに居たのは、ギターを背負った若者だった。エフェクターケースが足元でぴたりと寄り添っている。これから練習か、あるいはライブのリハーサルに向かうところなのか、どちらも、時間的にはありえそうだった。大きめのヘッドホンを耳に当て、スマートフォンを操っている。自分だけの世界に没頭している。中田敏彦の話も、その世界に巻き込まれるように、自然とボリュームが小さくなって、やがて霧散した。
ああやって、何かになろうとすることは、本当に美しいのだろうか。夢を掲げて生きることが、正しくて、優れていて、綺麗なのか。それは、いくつであっても、そうと言えるのか。
「俺さあ」視線をそちらに向けたまま、声だけこちらに放った。「バンドやってたんだよね。大学のサークルで作ったバンドで、都内でライブしたりしてさ。仲良くなった音響の人のスタジオで録音してもらってさ、CDを作ってみたりもして、ライブ会場で売ったりもしてた。四曲入り、五百円。ぺらっぺらの歌詞カードに、百円均一のCD」
「へえ。そう」そういえば高校生のころ、彼は軽音楽部だったか。「それが、夢?」
「まあ」口元だけで笑う。「本心からなりたかったものかと言うと、実際よくわからない。なんとなく流れでやっていたような気もする。でも、夢と言えば、そうだな。多分、少なくともそのときの俺にとってそれは夢だった」
過去形で返される。彼の中に何も残っていないわけではないからこその、無残さだ。
でも、容赦なんてしてやらない。前にも言ったがこういう遠慮で加点されて長生きできるわけでもない。無価値だ。
「ふうん、結局、諦めたわけ」
「いや、もっと悪いな。逃げたんだよ」首を掻くふりで、視線を落とす。「ライブにさ、レーベルの人が来てくれたことがあるんだ。インディーレーベルだけど、結構有名どころで」いくつかバンド名を挙げられるが、生憎私はその方面には疎かった。「ライブ見て気に入ってくれたみたいで、何回か足運んでもらって、もっとこうしたらとか、色々アドバイス貰ったりしているうちに、一度うちでCD作ってみないかって誘われた」
「すげえじゃん」でも疎いので、それがどのくらい凄いのかは実際よくわかっていない。「でもそれで、本心からやりたかったかわからなかったから、逃げたの」
「そう。桜木はさ、さっきの仕事の話、もしかしたら自分じゃなくてもいいんじゃないのって思ってるかと思うんだ。誰でもいいんじゃないのって。でも実際、求められるって結構しんどいぜ。そりゃ、そのレーベルの話だって、結局は俺じゃなくちゃいけないってわけではなかったけど、そのときは、俺に対して向こうの欲求が降りかかってきた。当然と言えば、当然の話だな。曲作ってたの俺だったしね。それに応えよう、応えなくちゃってするのは、結構、しんどい」そのまま首に手を当てて、グルグルと二周回す。「だから逃げたんだ。これが俺がやりたかったことじゃない、なんてそれっぽいこと言ってさ。逃げたんだよね。それで、嫌々とかじゃなくてさ、むしろ頭下げて、実家の仕事手伝ってる。馬鹿みたいだろ。でも、そんなもんだ。仕事なんて、好きなものじゃないほうが良いし、自分にしかできないことじゃないほうが良い。何てこと無い、誰にでもできる、そういう仕事のほうが、案外続いたりするもんだぜ」
「ふうん」一本、電車が通過するのを待ってから、「でもあんた、納得してるわけじゃないんでしょ。折り合いがついてるわけじゃない。誰かにそういう考えを発言している段階で、諦められていない」それは、父の話に通ずる。「そんなことを言うやつは嫌いだし、言ってる暇があるなら何かすればって思う」
これには、中田敏彦も苦笑を漏らした。
「生きてるだけのお前にはわからんよ。夢とかないわけ?」
そんなことを言う。
「ないわ」鼻息を漏らす。「だから、わからんね。わかるわけが無い」
「仕方ねえなあ」今度は、からからと笑った。「やっぱ死ぬしかねえか」
「それもありだよ。止めはしない。ただ、次に来る電車には飛び込まないでね」
中田敏彦はこちらを見たが、すぐに言葉の意味を理解してくれた。
「ああ、次の電車で帰るんだもんな」
「うん、次の電車で帰るんだ」
「そっか。例えばちょっと遅延とかしたら困る? 帰ったらなんかするの?」
「別に。なんも無くたって家には帰りたくなるものでしょ」
「まあ、そうだな」
会話が途切れる。彼は家に帰りたくなかったのだろうか。
こういう場面で、私はよく「じゃあホテルにでも行こうか」と言ったり言われたりするのだが、私はその台詞を言わなかったし、彼もそもそもそんな展開は望んでなさそうだった。安い女と思われようとなんだろうと、欲求を否定する根源的な理由にはならない。別に恥ずかしいとも思わない。むしろ仕事と同じで、これという恋人を作ってしまうと、不意に「別に私でなくともいいのかもしれない」と不安の渦に陥りそうだから、アルバイトのように、飽きたら次、不都合になったら次、相性が良くなかったら次、と気楽に考えるのが、そう、私には、向いている。そういう話だ。
大体、こういうシーンで、死んじゃ嫌だよ、ほら、ホテル行こうよ、なんて袖を掴んでみても、純愛ドラマは始まらない。せいぜい、昼ドラの泥沼が待っているだけ。一時一時凌ぐためだけに勤める先々で面倒なことが起こるのは、ごめんだった。
電車が来る。車内は空いていて、二人で座席に腰を落ち着ける。流れる風景のそこかしこに誰かがいて、何かが起きている。仕事があって、恋愛があって、命があって、死がある。でもどれも、流れていく風景でしかなくて、私の到着するところには何の影響も齎さない。人と人は、お互いに、それくらい無関心でいるほうが、良い。だからちょっと、彼の夢を聞いてしまったのを後悔している。まあ、私から促したわけでもないし、急に語りだしただけであって、所謂、不可抗力というやつだから、何でもいいけど。
もともとまばらにしかいなかったほかの乗客たちがぽつぽつと下りて行き、しばらくすると車両を占有する形になった。彼は急に立ち上がるとつり革を二つ、左右にそれぞれ握り、懸垂の真似事を始めるので、笑ってしまった。
「止めてよ、恥ずかしい」
「いやあ、全てのことはそうしたいからそうしているということであってだね、これも今、俺がそうしたいからしてみたわけで」
「止めて、恥ずかしい」
思えば、適当に数多作った友人の中でも、中田敏彦は少々特殊だった。掴みづらいと言うのか、何を考えているのかわからない。見てくれはチャラついた仏様に違いなかったが、ただただチャラついて適当な言動を繰り返しているわけでもなく、本質は仏様のほうに在って、仏様ならば何を考えているのかわからなくても仕方ない、と思わせてしまうくらいには、やっぱり、よくわからない男だった。現代文こそが真理だと言うような顔をしたかと思えば、翌日には「数学ほど落ち着くものはない」と鞍替えをするようなやつだ。彼女を作ったかと思えば、一週間も経たずに友達に戻っていたりする。そういうやつだった。
特別に、彼と親しくした記憶はない。あくまでも最初に言ったとおり、同級生、という枠からは逸脱しない。でもそんな男のいきなりの誘いに乗ってしまうくらいには、信用しているのかもしれなかったし、一方では、それを勝手に破棄しても責め立てられることもない程度に、無関係な人間に違いない。遠いようで、近いようだし、近いようで、やっぱり遠い。
「ねえ」
たった少しの運動で息を切らし深く座り込んだ隣の男に声を掛ける。
「ん?」
素っ頓狂とも取れる軽い返答に、
「どうして私に電話を寄越した? どうしてこの仕事を紹介した?」
問いかけると、彼はこちらを見ないままに、
「別に。たまたま桜木萌子の名前が目に留まっただけ、それだけだよ」それこそ、と続ける。「誰でも良かった。だって、意味を持って誰かを選ぶって疲れるし、そういう選民意識みたいなのを持たれても、面倒だからさ。多分、お前なら、こういう返答をしても、ああ、そう、とか言うだけで終わるだろ。直感的に、そう思って、通話ボタンを押しただけ」
「ああ、そう」期待通り答えてやると、彼は口角を吊り上げる。「ま、楽に稼げることに違いはないし」
「ってことは、やるのか?」
「まあ、向こうのお眼鏡に適えばね」
「そりゃ良かったよ。紹介した甲斐がある」
「良かったね」
やがて私の住む町に電車が停まる。それじゃ。おう。そんな短い挨拶で別れた。次に会うのは、何年、何ヶ月、何日後か。そんな下らない思考を弄ぶ。
どうでもいいのに、まだ決まったわけでもないのに、残り二千円、つまりぎりぎり飲み物と煙草くらいは買えるかな、という程度の金以外の全てを下ろして、新しい口紅を買ってみた。化粧は覚えたが、覚えただけで興味なんてなかった。だから、高い口紅を買うのは、久しぶりで、付けてみるとなんだか、浮ついているみたいで、恥ずかしい。一体何に浮ついたと感じたのかも、よくわかっていないのに。馬鹿みたいだ。
昔、小学生のときだったか、口裂け女の都市伝説が流行って、母の口紅を勝手に使って「口裂け女ごっこ」をしたことを思い出す。唇を大幅に越え、頬、いや、耳の付け根あたりまでぐいっと線を引いて、ニタリと笑ってみる。それで、ひとり、耐えられなくなって、作った笑みを壊す勢いでけらけら笑っていたことを。私にとって化粧道具なんていつだって遊び道具で、それ以上の価値なんて生まれない。誰かのために使うわけでもなければ、別に、美しく見られたいわけでもない。
なのに、新しい口紅を買ってしまった。まあそれで、これは正孝のためなのか、中田敏彦のためなのか、あるいは雪路さんのためだったかもしれないし、あの駅の若いバンドマンのためかもしれない、と考えてみたら、笑えて来た。やっぱり、遊び道具だ。そして同時に、私は私のために買ったに過ぎないんだろうって、思えた。
一週間も経たないうちに、雪路さんから連絡が入った。
好きなときに、仕事を始めて構いませんよ。というその言い草が可笑しかった。向こうは別に話し相手が欲しいわけでもなく、私が与えられたいと願ったときに与えてやろうというくらいの考えでしかないんだなと思う。そのほうが、いい。
久しぶりに、生きるための、仕事が始まる。