三
そういう会話があってすぐに、和やかなムードが訪れるわけも無い。ああこいつ苦手だ、と思うくらいには私も人生経験を積んでいる。やる気があっても、苦手なものは苦手だし、苦手だと感じている時点でやるべきじゃない。とは前にも言ったが、この場合、お金になるから、その思考は一旦捨てる。今回において問題は、私が彼に対して「無理だ」と思うかどうかだ。あるいは、その逆も然り。
中田敏彦は同席するとは言ったが、特に口を挟む気はないらしい。もしゃもしゃとバウムクーヘンを食べ続けている。口の中が気持ち悪くなりそう。
「桜木萌子」
「なんですか」
「なぜこの話を受けた?」
「お金です」
そう言いきると、正孝はくすりと笑った。良かった、一応人間らしいタイミングで笑ったりはするらしい。でも、別に今のは、笑わせる気など特になく、根っからの本心だったわけだが。
「お金ね。お金を稼いで、どうしたい?」
「どうしたいも何も無いですよ。生きるために必要で、一日に二万円稼げるって言うある意味阿呆みたいな条件がぶら下がっていたから、食いついただけです」
正孝は控えめな動作で脚を組んだ。すらりと長く、見栄えはいい。ただやっぱり髪の毛が汚らしくて、金持ちだからって、惚れたりはしない。
よく恋愛対象に関して、見た目か性格か、という質問があるが、そんな縛りを抜きにしても、大抵の場合見てくれが重要なのだ。格好よかったり、可愛かったりするほうが生きていて得をする。どんなに頭が良くても、どんなにお金持ちでも、どんなに性格が良くても、顔が悪いとまず人が近寄らない。それは、酷い話だ。そんなのってないや。って思うけど、自分だって、とりあえず恋人になってくれたり、一夜限りのパートナーになってくれたりする人が居る程度の顔面は持っているから、全く、そういう立場の人の気持ちを代弁できはしない。まあ、他人だから仕方がない。私はとりあえず生きていてそんなに得もしていないが、損も無い。
「生きるためにお金が必要なだけなら、何もこんなところで、こんな怪しげな人間と話をしなくたって、何とかなるだろう?」
「まあ。それは、そうですね」
ただ、それはすでに頭の中で結論の出た話だ。私は受け流す。
「一発逆転を狙っているんじゃないか?」
だからそう言われたとき、意味がわからなかった。
「一発逆転?」
「そう。ここに来ていると言うことは、桜木萌子は定職には就いていないわけだ。年齢は、中田敏彦と同じかな。だとしたら、学生バイトということでもなかろう。夢も無く、ただ毎日を無駄にして、老いて、朽ちていく将来くらいは想像できる。それに対して桜木萌子は嫌悪感を持っている。無意識のうちに。だから楽に、お金を稼げるところへ飛び込んで、裕福になりたい。生きるため、なんてそれらしい言葉で誤魔化して、本当は金に飢えている。違うか?」
「違います」語気を強める。「そんなんじゃありません」
「ああ、そう」しかし正孝は暖簾のようにひらりと受け流す。「違ったか」
私はその手応えの無さに、思わず中田敏彦のほうを見た。
彼は軽く肩をすくめ、
「こういう人なんだよ」
それだけ言って、笑った。
チンパンジーのときと同じで、思ったことを言っただけ、だったようだ。そしてこれは基本的に、今後の会話でも同様なのだろう。私は拍子抜けして、ソファの背凭れに身を預け、真っ白な天井を見上げた。小さいくせにやたら装飾があって高そうなシャンデリアが、私を見下ろしている。こっち見んな。
正面から、顎に視線がぶつかる。
「そう、こういう人なんだ」
憎らしい笑い声が聞こえる。
私は顔を彼に向け、
「煙草いいですか」
勢いで訊ねる。
「どうぞ、構わないよ。灰皿はこの下に入ってる」
言って、テーブルを指した。引き出しがついていたのか。
サスペンスでよく人を殴り殺すのに使われるガラス製の灰皿を取り出して、煙草を一本、咥える。
「煙草を吸う人間は、今は生きにくい世の中だろう」
私が火をつけるのを見守ってから、正孝が言った。私はそちらを見るが、肯定も否定もしない。彼がそれに対しどう思い、何を言うかだけを気にした。
「煙草は、今や害悪でしかない。みんなで袋叩きにする対象だ。それはなぜだと思う? 確かに、健康を害するからだ。害悪に、全く違いは無い。ましてやマナーやモラルの無い喫煙者が多く存在することも相まって、危険視される向きはもはや止められない」コンビニの店先にあったはずの灰皿が撤去されていることも、珍しいことじゃない。事実、そうだったのを思い出す。「それでも煙草を吸うのはなぜだ?」
「吸いたいからです」
「桜木萌子は素直で面白いな」言う割りに、笑い方はこれまでと変わらない。「吸いたいからか。それ以外の解答は無いな」
「何をするのだって同じですよ。そうしたいからそうする。全部そうです」
「全くだな。ほとんど同様の意見だ」
その言い草が気に掛かって、
「一つだけ聞いても良いですか?」問うと、正孝は首肯して促す。「どうしてこんなことを?」
「こんなこと?」
「話し相手を雇って、たった四時間で二万円も報酬を与えること、です。話をするだけなら、金を払わなくたってできますけど」
「簡単な話だよ」逡巡の間は無い。「僕は与えることができる人間だからだ。今君が言ったように、全てのことはそうしたいからという欲求から行われる。それ以外の何物でもない。そして同時に、人が生まれてくることにも意味はない。生まれてきた、という結果があるだけだ。だが、生きている以上立場は存在する。それが僕の場合はたまたま、与える側の人間だった。だから与えているに過ぎない」
言い方はともかくとして、
「お金を、ですか」
浮かんだ疑問をぶつけると、
「違うよ。立場を、だ」
彼は飄々と答えた。
私は思わず左目を細めて、そう、まるで怪しいものを見るような目つきになってしまう。
「神にでもなったつもりですか?」
「それも違う。人間だからこそだよ。神は人間には優しくない」
「これが、人間らしいやり方ですか」
「少なからず、僕らしいやり方、だね」いいかい、と彼は続けた。「僕は話し相手が欲しい。というより、誰かに対し報酬を与えたい。その媒体が会話であった、というだけの話だが、細かいことはいいだろう。そして桜木萌子はお金が欲しい。この際細かく追求はしないが、どうやら生きるために必要な分くらいは、稼いでおきたい。お互いにとって、僕たちの関係はこれ以外の、何物でもない。お互いがそうしたいから成立する。ならばそこになぜやどうしてを差し挟むことがそもそもナンセンスなんだ。わかるかな」
鼻が引くついてしまう。
「わかりますけど、傍から聞いたら気分のいい話ではないですね」
中田敏彦が隣で小さく笑う。
「じゃあどうしたらいい? 僕にとってはそれだけの話なんだ。桜木萌子はどうしたら納得するんだ?」
「いや、私は納得してますよ」むしろ、そりゃ、こんなもんだよな、とさえ思っている。「それくらいでいいですよ。私でなくてもいいことは良くわかりましたから」
「大抵のことはそうだ。しかし何もそこで話を完結させる必要はない。僕の求めている人間は必ずしも君ではないが、君はそうして、誰でも埋められる穴に、すっぽりと嵌る機会を得た。しかもこんな稀有な事象においてだよ。これは幸運だ。それは素直に受け取っておけばいい」
私は無言で正孝を見た。
彼は全く、私を見てはいない。つまり、それだけの話なのだ。
「今日はもう帰ろうかと思います」
言うと、彼は意外そうな顔を見せ、
「おや、もう帰ってしまうのか」
そんなことを言ったが、つい今しがたの会話からして、上っ面だけなのはすぐにわかる。そもそも私は「話し相手」でしかないのだから、当たり前の話だ。それこそ、自分で言ったように、そんなものは金を払わなくてもできる。
「ええ。帰ります」
「いいのか?」中田敏彦も確認するようにこちらを見た。「せっかくだし」
そう言ってバウムクーヘンを差し出してくる。お前のじゃなかろうに。
「合否は?」
「父から連絡させよう。帰り際、彼に連絡先を教えておいてくれ」私は二人の関係がどのようなものなのかを想像したが、他人の私には入り込めない領域に違いなく、考えることを止めた。「それじゃあまた、会えると良い、桜木萌子」
そうして、私は正孝の部屋をあとにした。