二
中田敏彦と会うのは、実に六年ぶりで、高校卒業以来となる。彼の容姿はほとんど変わっておらず、遠目からでも見分けがついた。だからと言って、彼のことが好きなわけではない。
ボーダーのシャツに黒のカーディガン、細身のパンツというラフな格好で、もじゃもじゃのパーマに触れるように、軽く手を挙げた。細い目は常に笑っているようで、高校のときは「チャラついた仏様」と、若干の蔑みを込めて親しまれた。多分、私の知らない今居る環境でも、彼の立ち位置は変わらないのだろう。私と彼は、この六年間を別々の生き方で生きてきた。当たり前なのに、急に彼のことを知らない人のように思ってしまったが、そんなこと、おくびにも出さない。
彼は私の顔をさっと流し見ると、
「ちょっと美人になったな」
軽い調子で言った。
「化粧を覚えただけだよ」
「そんなもんか。ま、行こうぜ」
隣を歩いているのに、恋人同士ではない男女は、街にたくさん居るのだろうと思う。男女の組み合わせを見たからと言ってすぐにそれと思い込むのは、人間の愚かなところだ。ただ、周囲から見られたとき、中田敏彦とであれば、まあ、そう思われても良いかなと思う自分が居ることは、否定しない。私も同様に、愚かな人間だから。
思い出話に華を咲かせ、次には近況報告をする。彼は何でも、実家を継いで畑仕事をしているらしかった。それに関して彼は、どうと思っているわけでもなさそうだ。と思って欲しそうだった。
「まあ、なりたいものになれるほど易しくは無かったよ」
そんなことを言う。煮え切らなかったのはこのせいか。
小学生のとき、大体どの学年でも、夢を掲げさせられる。目標があって、それに向かうことが美徳なのだと思い込んでいる大人たちの、勝手な都合だ。あるいは可能性を失ったから、子どもたちに自分を反映させる、下らない視点。ともかく、男の子は「サッカー選手」や「野球選手」、女の子は「お花屋さん」とか「アイドル」とか、そんな感じのことを、書かされる。今思うとあれは、却って視野を狭める行為にも思える。
私の夢は、お嫁さんだったと思う。今のところ叶っていない。
彼は何になりたかったのか、それを聞こうと思ったが、止めた。とりあえず私も彼も生きている。その事実に満足することが、私にも彼にも大事なことだと感じたからだ。それに聞いてあげたからって、今から彼がそれになれる保障は何も無い。そうさせてあげる器量も、当然私には無かった。なら、無駄だ。
子どもが大人になる境界線は、曖昧なものだ。ぐにゃぐにゃしていて、明確じゃない。結婚できる歳にはもう大人なのか、煙草や酒を許可されれば大人なのか、就職したら大人なのか、子どもができたら大人になるのか。私は今、大人なのか、子どもなのか。彼は大人になったのか。
諦められるようになったら大人だと、昔、父が言っていた。何かのために自分を犠牲にできれば、大人なのだと。それは、私としては、じゃあ私は父にとって障害でしかないのかと、思ってしまう台詞だった。私が生まれたから、父は何かを諦め、大人になったのだろうか。私が居なければ、彼は子どものままだったのか。それとも、母のために何かを諦めたのか。なんにせよ、そんなことを言うやつは、嫌いだと思った。自己犠牲は自己満足に違いなく、美化される事象では無い。少なからず、それを周囲に嘯いてしまうような人間は、諦められてなんていないし、自分本位だ。私も色々なことを諦めてきたが、それは誰かのための犠牲になったのとは違う。私のために諦めただけに過ぎない。だから私が諦めることに関して周囲に何かを言われる謂れはないし、私が周囲にそれを嘯くことも無い。誰と誰であろうと、他人には違いない。理解もできないし、干渉も余計なお世話だ。
そもそもが、帰り着く場所があるのに、そんなことを言うのは贅沢なことだ、と思った。
「じゃあ死ねば?」
「そうな、それもありだよな」
今度は本当にどうとも思ってなさそうだった。
喧騒を離れ、風景は住宅ばかりに変わった。それも、どれもがでかい。これは、誇示か、それとも本当に必要性があるのか。前者だろう。
金がないと心に余裕が持てないと言うが、金を持っているからと言って、良い人ではない。こんな差別化自体私は嫌いだし、結局万物に通じる言葉は「人それぞれ」なのだが、それでも今は、そう思う。こんな大きな建物に暮らしている人間が、性格の良いやつらのわけが無い。だってなんか、むかつくし。
自分の優れていると思われる部分を誇示したがるのは、同時に、コンプレックスを感じているからだ。もし、この金持ちたちの性格が頭も上がらないくらい神々しいものだったら、私はきっと生きているのがしんどくなる。だから、こいつらは醜悪で、矮小なものなのだと思い込む。私には関係ないはずなのに、結局、私も人間社会に生きていると言うことに他ならないのだろう。嫌だ嫌だ。
一軒の豪邸の前で止まる。見るからに、お屋敷という風情である。
「心の準備は?」
「よく言うけど、準備もクソも無いよね」
「大丈夫そうだな」中田敏彦がインターホンを押すと、老齢と思われる声音が返答した。「あの、中田です。先日お話した女性を連れてきました」
「どうぞ、お進みください」
これが所謂執事という職業なのだろうか。それとも単純に私がこれから会う人物の父か祖父かというところだろうか。いかんせん、ただでさえ他人の思考は理解できないのに、金持ちとなると立ち位置が遠すぎて霞んで見える。自分と、自分の血縁関係者以外の人間が家でうろちょろしているのは、どんな気分なのだろうか。
前庭を進んでいく。石畳は水を打ったものらしく、ところどころの溝から、太陽光が反射されて眩しい。
中田敏彦が扉を開いた。見上げると立ちくらみを起こしそうな、吹き抜けの玄関だ。
奥から恰幅の良い男性が近付いてきた。声を聞いて、先ほど応対してくれた人だとわかる。
「やあ中田さん。会うのは久しぶりですね」
「ご無沙汰してます」言ってから、私のほうを手で示し、「こちらが電話で話した桜木です」
「どうも」流れで、頭を下げる。「桜木萌子です」
「初めまして。伊能雪路と申します」
「雪路さん」
「こちらが、これからお会いする正孝さんのお父さんだよ」
「はあ」これからお会いするのが正孝さんであるのも今知ったと言うのに、「お父さんですか」
「どうも」雪路さんはにこりと微笑むと、「お父さんです」
余裕そうだな、と思った。同時に、金持ちなのも頷けた。多分、私の期待を裏切って、醜悪な人間ではなかった。残念とも、安心したとも、言える。
私は再三言ってのとおり、生活できる最低限の収入があればそれで良いと思える人種だ。だから金持ちの思考はわからない。もちろん、私だってこうしてここに来ているように、楽にお金が稼げるのならば、それに乗らないわけではない。最低限の収入で良いが、別に余らせたくないわけではない。むしろ趣味も浪費癖も無いから、貯めておけるなら一度の労働期間で一気に貯めておきたい。また次に仕事をするまでの時間を確保できるから。それが私の生き方だ。
しかしこうして、どうせ使ってもいない部屋が多く在るような屋敷を建ててみたり、高い服やアクセサリーで身体を包みたいという欲求を否定するつもりも無い。やっぱり、人それぞれという話でしかないのだから。もちろん、自分はお金を持っていてもそういう使い方はしないだろうし、理解はできないが。
挨拶も早々に、応接間に通される。どこもかしこも高価そうで、急に自分の手が汚く思えて、何にも触れなかった。雪路さんはそれに気付いていたからかどうか、茶菓子をつまんだ手でクッションを触ったり、無頓着そうだった。気を遣われているのだったら、こんなに恥ずかしいことは無い。気を遣っていないのだったら、こんなに腹立たしいことも無い。
「正孝は今、二階に居りますよ。ただ、会う前にひとつ、伝えておかなければならないことがあります」
簡単な談笑ののちに言われ、私は一度中田敏彦の顔を見てから、
「なんでしょうか」
訊ねた。
「無理だ、と思ったら、すぐに辞めてください。正孝の存在も、この話も、無かったことにして欲しい。もちろん、その場合でも謝礼は出します。とにかくお互いに、無理はしないで欲しい。特に、他人である桜木さんには」
雪路さんは困ったように笑った。
「あの、ひとつだけ、聞いても良いですか」
「なんでしょう」
「私の前に、誰かがこの仕事を?」
「ええ」また、同じ顔をする。「カウンセラーの方や作家さん、あるときは芸人さんに来てもらったりもしました。会話や、言葉のプロフェッショナルたちと言って過言ではないでしょう。でもどなたも、余り持ちませんで」
「あの」小さく手を挙げる。「私、一般人ですけど」
「そんな言い方をするものではないですよ」気遣いは、上からのものに感じられるが、悪意は無いのだろう。「一般の方も今までにいましたよ。それに、中田さんの推薦ですから、私は大いに期待していますとも」
「はあ、期待」
「そんなことを言うと、気負いさせてしまいますね」雪路さんは笑みを浮かべる。「とにかく今日は顔合わせ程度ですから、気楽に。それじゃあ中田さん、お願いします」
「わかりました」言って、中田敏彦が立ち上がる。「今日は俺も同席するから」
連れられる形で二階に上がる。扉がいくつもあるのを無視し、突き当たりの部屋の前で止まる。
ノックを二回。中から返事は無かったが、彼は構わず開いた。
すぐ細い通路が続いている。右手と左手にそれぞれ一つずつ扉がある。
「こっちが風呂場」右手を示してから、今度は左手に視線を向け、「こっちはトイレ」
なるほど、ホテルのようなつくりだ。これから対面する人間は基本的にここから出なくて済むようになっているらしい。囲われているのか、引きこもっているのかはわからないし、割とどうでもいい。
通路を進むと、部屋に繋がる。十六畳ほどだろうか。思ったよりは広くない。そこにソファやテレビ、ベッドなどの家具が集約されている。ほかに部屋はなさそうだった。
ベッドの上に、汚らしい印象だけしか齎さない長髪を垂らした男が座っており、本を読んでいる。
「正孝さん、久しぶりです」
中田敏彦が声を掛けるが、反応は無い。やはり彼は構わず、ずんずんと部屋を進み、ソファに座った。私にもそこに腰掛けるよう勧める様は、まるで主のような所作だった。
正孝は無言のまま文庫本に視線を落としており、こちらには一瞥もくれない。三日待ったのだから、今日私が訪れることは把握していると考えるのが普通だが、しかし普通とはなんだろうかと思わせるくらいに、それは堂々とした無視だった。
「いつもあんなだから、気にしなくて良いよ」
中田敏彦も堂々とした素振りで、テーブルの上にあったバウムクーヘンをつまみ始めた。
話をしたいと願っている人間が私の到着を無視し、話をするだけで良いと言った人間もそれを促すわけでもない。私としてもお金が絡んでいるから来ているだけでこれと言って別に話をしたいと思っているわけではないが、とりあえず言えるのは、居心地が悪かった。座り慣れない柔らかいソファ。生きるためだけに使うには広すぎる部屋。久しく覚えの無い男と、全く知らない男。どちらも特に声を出さず、バウムクーヘンと読書。ただただ息苦しい。
せめて煙草を吸えればよかったが、見ず知らずの他人の部屋でいきなり煙を撒き散らすことは、私にもできない。さすがに、そんなことをしたら、寿命が縮みそうだ。
時計の音が規則正しく時を刻む、わけでもない。部屋にあるのはデジタルのものだけだった。それも、腕時計と見比べると、狂っているのがすぐにわかった。意味は、当然だがわからない。
やがて本を閉じる音が部屋に響いた。どれくらいあとだったか、考える余裕も無かった。
正孝はこちらに視線を向けると、今まさにこちらの存在を認めたかのように、片方、眉を上げた。
「久しぶりです」
「実に一年二ヶ月と十二日ぶりだな」
口元だけ綻ばせ、応えた。
なるほど。
私だってこんなことは言いたくない。言いたくはないが、彼は変わった人間だと言わざるを得ない。
時計が狂っているのは、彼にとってそれが些末な問題だからだろうと推測できる。狂っていても、いっそ無くても困らない。身体がちゃんと時間を経ているから。
「そちらは?」
「新しい話し相手ですよ」
「女性か。女性は初めてだな」視線をこちらに向ける。「よろしくどうぞ」
「ははあ。桜木です。桜木萌子」
「桜木萌子。覚えたよ」
声音は落ち着いたものだし、斜に構えているわけでもないが、どこと無く、絡みづらい人間であることはわかる。わかると言っても、印象の話に過ぎない。大抵のことは全部そうだ。
正孝はこちらを無遠慮に見た。それこそ、審査するような目つきだ。早くも少し、後悔している。
私がもじもじとしていたのがわかったのか、
「失礼」雪路さんに似た柔和な笑みで、「女性に会うのは随分と久しぶりでね」
笑っていれば許されると思っているのか、なんて刺々しく考えて、
「実に何年何ヶ月何日ぶりですか」そんなことを言ってしまう。「私はチンパンジーではありません」
「チンパンジー?」皮肉は通じない。「どういう意味だ?」
「見世物じゃないと言うことです」
「なるほど」彼はベッドから、対面するもう一つのソファに場を移して、「全てのチンパンジーは見世物か? それは否だ。君は動物園におけるチンパンジーの存在を今、自分に重ねたのだろうが、それは酷い偏見に満ちた物言いに違いない。わかるか? 君は今無意識にチンパンジーを自分よりも下に見た。チンパンジーの頭脳も、身体能力も、全てを度外視して、動物園で飼育されているチンパンジーのみを想像して、だ。しかし我々とチンパンジーの、何が違う? 見られている点で、一体どこが違う? 我々は常に誰かに見られ、笑われ、馬鹿にされている。さて、君は自身が見世物ではないと、言いきれるのか?」
言い終えて、しかし優越に浸るでも、こちらを試すわけでもない。ただ、思ったことを言った、というだけのことで、疑問系で終わったところで、こちらの返答を待っている様子もなかった。
私は結局、待たれていようが、そうでなかろうが、返答をすることができなかった。
正孝は私の目を見て、
「女性と会うのは八年七ヶ月と三日ぶりだよ」
そんなことを言った。