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 結局、ひと月も持たなかった。

 私は相変わらず定職にも就いていないし、恋人も居ない。やっぱり何もかも、早々変わったりはしない。ましてやいいほうに転がってくれるなんて、そんな都合のいい話は落ちてなんかいない。落ちていなければ拾うことだってできやしない。

 私が拾おうとしたのは、タツノオトシゴのチャームだった。美紀がそこにどんな意味を込めていたのかは今のところ知らないが、私にとってそれは唯一の家族からの愛で、痛いほどに大切なものだった。

 それが六回目の仕事帰り、前触れもなく耳から転げ落ちて、慌てて道路に飛び出して、慌てた運転手に無残に轢かれた。死について考えると、死のほうでも私のことを考えてしまうのか、なんてファンタジーなことを思い浮かべ、それに疲れて薄れ行く意識の中で、ああもう無理だ、仕事なんて行けない、そう思ったから、すっぱり辞めた。これが子どもでも助けようとしていたなら、もっと格好がついたかもしれないが、私についてくれる格好なんてものはもうろくに残っていないのだろう。在庫処分のワゴンセールから引っ張り出した「格好」が「チャームを拾おうとして轢かれる」ことだった。まあ、それほど無情にも馬鹿にも見えないのは、救いだろう。

 さらに格好がつかないところをあげると、「こんなことなら正孝ともっと適当に話しておけばよかった」と思えるくらい高額な入院費を払ってくれているのが、ほかならぬ正孝であるところだろう。別に、そんな義理も関係もないくせに、どうせまた「与える立場だから」とか何とかと言って、無意識に恩着せがましいことをしてきたわけだ、なんて思っている。実際のところ、私は誰かに褒められるほど素直な人間ではないのだ。だって、ただ働きでも何でもできたら良かったと素直に思ったって、この身体だし、ましてや彼らにそんなものは必要がないのだから、仕方がない。ひねくれたほうが楽なんだ。

 とりあえず、煙草を吸えないのが辛かった。

 見舞いに来た中田敏彦は、脚を吊られた私を見て笑った。

「かわいそうだとかなんだとか、ないわけ?」

「ないよ。散々俺に死ねばって言ってきたやつだぜ。様子を見に来ただけいいと思うけど」

 まあ、一理ある。

「見舞い品とかないわけ?」

「ないな。だってかわいそうだとかなんだとか言って、メロンでも持ってきたって、そんなの、むかつくだろ。桜木は俺と似てるから、多分同情なんて受け付けやしない」

「まあ、そうだね」

 別に仲良くなんてなかったのに、同級生の枠から抜きん出ることなんてなかったのに、こんなことを言うやつだったなんて、やっぱり、仏様に似ているだけはある。

 パイプ椅子をひとつ広げてそこに座ると、

「しかし聞いたよ、正孝さんが払ってくれるなんてね。気に入られたものじゃないか」

 相変わらず、どうとも思っていないようにそう言う。

 私は入院の「暇疲れ」で、こんなどうでもいい疑問を思い浮かべた。

「あんたとあの人の関係ってなんなの?」

 中田敏彦は少し悲しそうに、しかし口元には笑みを浮かべて、

「俺も桜木と同じだったんだよ」

「同じ?」

「そう。あそこで働いたことがある」

 それで思い当たり、

「私を紹介した日から、一年二ヶ月と十二日前に、か。だから部屋の中に関しても知っていたし、あんなに無遠慮な態度だったんだ」

「そういうこと」でもまあ、とひとつ伸びて、「結局俺はあそこからも逃げたんだな。なんかああいう、全てを見透かしているような、それで居て何一つわかっていないような人間を相手にするのは、俺には大変だった。それならひたすら土を耕しているほうがずっと気楽で良い」

「まあ、あんたには家業が向いているのかもね」と言って、後悔した。「私から見れば、だけど」

 しかし中田敏彦に私の思考は読み取れない。

「そうだな、案外、向いてるのかもしれない。そう思えるから、今はそんなに苦じゃないよ。そりゃ、バンドで成功するのは、今だって変わらず夢に違いないけど。一回見た夢を、早々忘れられるほど、簡単な気持ちじゃなかった、っていうのは、あとから気付いたことだけど」

「大体のことは、あとにならないと気付けないよ。気付く要素がないんだから」

「当たり前か」

「当たり前」

 来たばかりなのに、本当にただ様子を見に来ただけらしく、中田敏彦は立ち上がり、パイプ椅子を畳んで元の位置に片付けた。

「帰るの」

「帰るよ。それなりには忙しいからな。まあ、元気そうで良かった」

 背中を向けた彼に、

「ねえ」

 声を掛ける。振り返ると、私の目を見て、

「何?」

「私、あんたとなら別に、寝てやっても良いよ」

 言ったが、

「何それ、新しい仕事?」彼は笑って済ませた。「身体、お大事に」

 手を振って、病室を出て行く。どっちの意味だったか。

 考えながら、それを、最後まで見送る。また、多分、無関係な人間へと戻っていった。


 初任給で買ったまま手をつけていなかった本が、こんなところで役に立つとは、思っていなかった。読みにくい文体であることが、却って時間を掛けることになり、暇を潰せてよかった。内容は低俗でありふれていたものだが、たった一行、琴線に触れるものがあっただけ、収穫だろう。溢れんばかりの情報のうち、これと思えるものを拾える。それは、それだけなのに、十分幸せなことだ。と同時に、そうして私に幸せを覚えさせてくれるくらい世の中が情報に溢れていて、良かったなと思う。

 タツノオトシゴのチャームをくれた張本人である美紀は、入院から五日後にやってきた。働き始めたばかりで、時間の作り方がまだわからないらしく、走ってきたのか、スーツは着崩れていて、だらしなかった。

「ごめんね、本当にごめん」そうやって手を合わせて、ひたすら頭を下げる様をぼうっと見ていると、「あのピアス作ったの、本当は私なんだ。買ったんじゃないの。だから付けが甘かったんだ。ごめん」

 私は素直に驚きを表情に出していたと思う。

 ピアスって機械とかなくても作れるものなんだ、という、どうでもいい驚きである。

「別に、謝らなくても」

「いや、これは本当にごめん」

「っていうか誰から聞いたの? チャームを拾おうとして事故に遭ったって」

 言うと、妹は中田敏彦の名を上げた。当然二人は知り合いなどではなかったが、向こうから接触してきた、という話だった。最初は怪しい勧誘かと思った、と姉妹らしい感想を述べたが、結局伝えられた事実には、感謝を示している様子だった。私も、素直に感謝する。

 だって、あのピアスが既製品だと思い込んだままだったら、多分、こんなに、耳も、脚も、心も、痛くはなかったんだろうなって、思うから。彼が、美紀のくれた愛を増幅させてくれた。愛はやっぱり痛くて、苦しくなるけど、それくらいの重圧を与えてくれる人が、今、同じ時代に生きているんだと、そう思えるのは、嬉しい。どんなに身体の相性が良い男が現れても、これほど気分の良くなる話はない。美紀は、行きずりじゃないからだ。たった一人の、家族だからだ。愛なんて簡単に言葉にしない、本当のそれを、きっと無意識のままに、与えてくれる人。

「にしても驚いたよ、伊能さん? だったっけ? 話をするだけでお金を貰っているなんて……」

 そういえば言っていなかった。

「まあ色々あった……、わけではないけど、流れでね。道楽だろうけど、そこに乗っかるのもまた、道楽だ。もう、辞めたけどね」

「辞めたの?」

「こんな身体になってしまったからね。しばらくは入院。行けないなら、身を引いて、ほかの誰かが与えられるチャンスを得たほうがいいと思って」言うと、美紀は首を傾げた。「ともかく、辞めたんだ」

「そっか」言って、少し奥歯を食いしばるような顔をして、「もしモエが良ければなんだけど、退院したら、友達のところで働いてみない? 日数入れる人を探してるみたいでさ。そこ、雑貨屋さんで、それこそほら、ピアスとかも自作して売ったりしているようなところなんだけど……。接客ってほど接客でもないし、工場みたいにかっちかちの作業ってわけでもないから、息抜きにでもどうかなって、思うんだけど」

 妹の癖に姉に仕事を紹介するなんて。

 と、思われたら嫌だな、って、考えているのがわかるような、苦渋の表情だった。大きな愛に、大きな愛を返すことは私にはできないが、それを愛おしく思い、

「考えておくよ」

 と返せるくらいの人間性は、持ち合わせていた。

 パッと華やいだ表情に、安心とも、慈愛ともつかない、曖昧な、でも、温かい気持ちが、ポッと芽生える。諦めついでに、もうひとり子どもを作ってくれていたことは、父に感謝しよう。

「よかった。でも、本当に無理しないでね」

「大丈夫だよ」正孝の顔を思い浮かべる。「大抵の、理不尽な発言にはもう慣れた」

「レベルアップだね」

「うん。ステップアップかな」

 しばらく雑談をしていたが、やがて面会時間の終了が近付き、それが訪れるより少し前に、彼女は辞去した。また来る、という言葉が、今はありがたい。

 

 入院から二週間ほど経って、正孝が病室にやってきた。白い杖を突きながら、不慣れな場所をゆっくりと歩く。ほとんど目が見えないのであると知れば、あの部屋にトイレも風呂場もあることは頷ける。どうせなら一階にすればよかったのにと思わないでもないが、そんな他人の家の事情を根掘り葉掘り考えるのも、失礼だろう。

 途中から声で導いてやりながら、正孝はようやっと、ベッドの縁に腰掛けた。

「久しぶりですね」私は彼の顔を覗きこむようにして、「悪くなっていませんか?」

「十五日ぶりだ」彼は目頭を掻くと、「大抵のものは日々劣化していくんだよ」

 声音はいつものものだった。

 私は観察するように正孝を見た。いくら見たところで、彼を観測対象にすることはない。当たり前が当たり前にならないし、普通も、異常も、彼の前には存在しないからだ。流動的で、ひとところに留まらない。不可思議な男だった。

 ところで、

「何しに来たんですか?」

「何しにって、桜木萌子は冷淡な人間だな。見舞いだよ」

 どうも素直に頷けなかった。

「見舞いに? わざわざ杖を突いて?」

「桜木萌子、考えるんだ。君の思考は、人間性は、今、何を答えとする?」

 言われ、私は今までの正孝との会話を思い返していた。

 しかしどれも、これと思えるものがなく、眉間に皺を寄せ、首を捻り、唸り声を上げ、結局ギブアップする。

 正孝は溜息をひとつ吐いた。

「入院すると人間まで退屈になるのか?」しかし落胆しているような様子でもない。「僕の部屋での桜木萌子はもう少し考えようとしていたと思ったが」

「生憎、毎日同じことの繰り返しだと、次第に思考力は衰えてしまうんですよ」

「それはなぜ?」

 いつもの会話が始まった、ように思った。

「人間の生活は日々変化します。本当に同じことの繰り返し、という毎日はありえない。しかし入院していると、細かな会話や所作がほんのちょっぴり異なるだけで、九分九厘は昨日の焼き増し。昨日との区別が曖昧になる。健康に生きて外を歩き、たくさんの人と会話をして、目を合わせ、何かをすると、そこに昨日とは違う色がつく。刺激を受けて、昨日と今日の違いが鮮明になるんです。境界が鮮明であれば、人はどんな思考も、新鮮に受け入れられる」

「つまり君が昨今考えた全ては、どうも熟れてしまっていて栄養がまともに摂れないと」

「大体そんな感じです」

「しかしそんなものは言い訳だ」

「私はよく言い訳を言う人間なんです」それは、全てに対して、だ。「残念ながら」

「残念とは思わないよ。桜木萌子はそういう人間だ、という事実があるだけだ」

 相変わらずだった。

「それで、答えは?」

「今、これ、だよ」言われたが、意味がわからなかった。「僕は最初、君になぜこんなことをするのかと質問されたとき、なんと答えたか。誰かに対し報酬を与えたい、そう言ったと記憶している。つまり僕は、無償で何かを与えるわけではない。僕が与えるものは、何かに対する報酬なんだよ。対価だ」

「つまり、ええと?」頭がこんがらがりそうだ。「今、これっていうのは、何に対する報酬だったんですか?」

「君が本当に見舞いに来たのか、と聞いたことに対して、僕はなぜそう思うか? と訊ねた。君はそれに対し答えなかったが、その次の質問にはちゃんと答えた。だから僕も、正解を与えている。考え発言したことに対する報酬としてね」

 意味はわかったが、理解はできなかった。

「ギブアンドテイクってことですか」

「誰かのための行動に対し報酬が与えられるのは至極正当な理屈だと僕は思う。事実、社会でもまかり通っているだろう。会社のために働けば給料を貰える。面白い話を披露すれば笑顔を貰える。そんな風にね」

「貰えない場合もあると思いますけど」浮かんだのは、駅で中田敏彦と見た、若いバンドマンの姿だった。「例えばCDを発売しても、売れないことはありますよね」

 困らせようと思ったつもりはないが、彼は全く困った様子も見せず、

「それは、見方の問題だよ。CDを発売する、というものが、報酬なんだ。誰かのために歌って、CDを発売できた。それが売れるかどうかは、また別の話なんだよ」

「つまり、やる気の問題ですか?」私の嫌いな論理だ。「売れるという報酬を得るために行動を起こしたのかどうかって。そういう話ですか?」

「それは違うよ。君は気持ちに何かを左右されるのか?」

「じゃあなんだって言うんですか」

「往々にして、行動を起こす側が原因とされやすいが、それは根本的に違う」また話が飛躍した、と思った。「それこそ例えば僕が君に対し話をしたところで、君は僕に対してお金という報酬を与えることはできない。つまり、与える側の資質も、論点となるんだ。その、音楽の例で言えば、彼は受け取り手をもっと慎重に選ぶべきだった。自分に対し報酬を与えてくれる人間を選ばなければならなかった」

「そんなもの、彼はそいつらのことを知らないし、そいつらだって彼を知らないってことじゃないですか」

「その通り。それならまた、知られようと行動を起こし、知ってもらうと言う報酬を得るしかない」

「なんだか頭が痛くなってきましたよ」結局、やる気の問題じゃないか。「気が遠くなりそうです」

 ベッドに身体を倒すと、予想外に、

「おっと、それは困る」

 正孝は声を掛けてきた。

「困る?」私は視線を彼に向けて、訊ねる。「どうして困るって言うんですか」

「いいかい。僕は今、無償で何かを与えるわけではないと言ったね。しかしこれはどうだ? 君がこうして治療を受け、白いベッドで僕と話をし、夜になったら眠り、朝になったらまた同じ毎日の繰り返しだと思える、この思考を熟れさせるだけの毎日は、どうだ?」

 やっぱりじゃないか、と思った。

 しかし、予想外の言い草ではあった。こんな風に恩を着せてくる人間だとは思っていなかった。

 勝手に失望していると、

「つまりこれは、給料の前借り、ということになる。君は勝手に仕事を辞めると言ったが、僕はそれを受理した記憶はない」

「ちょっと、え?」

「ただ働きだよ、桜木萌子。これは、ビジネスなんだ」

 もっと底へと叩き落すようなことを言ってくれる。

 こんな身体でさえも、働かせるなんて。私は彼にそこまで従事するつもりなどない。受理されていないなら、ばっくれるだけだ。アルバイトは社長のことなんて考えたりしないんだから。別の誰かで穴埋めすればいい。私は特別なんかじゃないんだから。

 と、その思考は、不貞腐れているようで、なんだか、むず痒くなる。

 正孝は、私がそうして痒いところに手が届かないような顔をしていたからか、大きく笑った。

「なんですか」

「冗談だよ」

「は?」今度はなんだ。「冗談?」

「これはビジネスじゃない。大体、実際入院費を払っているのは父だよ。父の好意だ。僕は介在していない」

 笑いながら続ける。

「え? でも雪路さんから、そう聞いたんですけど」

「父なりの計らいなんだろう」事も無げに言う。「彼は僕を甘やかしすぎている」

 やっぱり、私はこの人が苦手だ。

 だって、何を考えているのか、全然わからない。

 でも、相変わらず流動的な彼は、全てを置き去りにして、すらりと長い脚を組むと、

「さあ、桜木萌子。話をしよう」

 そんなことを言うのだ。

 私たちはまた、生きるための会話を始める。

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