006.Brand New Face<叉焼という肉?>
ユウがCongohトーキョーに来て間もない頃の話。
ユウは幼少時より料理研究家の母親に、文明国では滅多に口にしない昆虫食材や発酵食品を当然のように食べさせられていたので食べ物に関する許容範囲がとてつも無く広い。
マリーの場合は少し事情が異なり、とある事件で体細胞の多くを失った際、食に対する先入観や習慣も記憶と一緒に失ってしまっている。
よって欧米人には違和感がある黒い食材や、甘く似た豆も抵抗無く食べる事ができるのである。
だが記憶が消失した後の生活では、当然好き嫌いが発生する余地がある。
事件の後に彼女が身を寄せていたフランスの修道院はとても貧しく、日常の食事はかなり貧相だった。
出てくる料理はベーコンのような塩漬けの豚肉入ったスープと歯が欠けるような硬いライ麦パンだけで、彼女の食欲は決して満たされる事はなかった。
マリーの体型が少女の状態で固定されているのは、当時の貧相な食生活が原因だろうとCongohの研究者は結論付けている。
マリーがCongohトーキョーに来てからも豚肉の料理を好まず、馴染みになった須田食堂でも注文するのは決まって鶏肉や牛肉のメニューだけだったのは仕方が無い事であろう。
豚肉嫌いが直ったきっかけは、彼女が頻繁に訪問していた黄色い看板のラーメン店だった。
うどんのような太麺と濃厚なスープ、常人なら食べきるのが難しいボリュームが特徴のそのラーメンは直ぐにマリーのお気に入りになったが、特に大量の野菜と一緒にトッピングされている叉焼と呼ばれる肉塊が彼女のお気に入りだった。
口に入れるとほろりと崩れるその肉塊は、牛肉のように風味は強くないが濃い味付けで噛み締めると旨みが口一杯に広がる。
彼女はいつしかこの叉焼という肉が、大好物になっていた。
「ユウ、叉焼がお腹一杯食べたい」
いつものマリーの食べたいものリクエストだが、ユウは大袈裟な仕草で首を傾げた。
「あれっ?マリーって叉焼って食べた事があるの?」
「うん、いつも食べるラーメンに沢山載ってる。食べると口の中でほぐれてとっても美味」
「ああ、あの黄色の看板の。でもマリー、あそこの店の叉焼は豚肉だよ。
豚肉は苦手じゃなかったっけ?」
「???」
記憶喪失のため食材の知識が大幅に欠けているマリーには、叉焼が醤肉という豚肉料理であるという認識は少しも無かった。
修道院で食べていた豚肉とは味が全く違うし、『叉焼という種類の肉』が別に存在すると思い込んでいたのである。
「じゃぁ今日の夕食は叉焼丼にするから、改めて食べてみようか」
ユウは冷蔵庫に真空パックされたブランド豚肉が大量に余っているのを思い出し、マリーに言った。
☆
ユウは中華料理に関するスキルは全く無いが、ニホン風にアレンジされている叉焼(醤肉)の作り方は頻繁に仕込んでいたので熟知している。
圧力鍋を使ってタコ糸で縛った三枚肉をしっかりと柔らかく仕込み、煮汁を別鍋に移しさらに煮詰めて味を甘辛く調整していく。
完成した今日の夕食メニューは、ユウが仕込んだ自家製叉焼を使った叉焼丼である。
濃い目のタレはご飯にしっかりと染み込み、付け合せの青菜と濃い色の付いた煮卵の切り口が鮮やかなコントラストになっている。
「ユウ、修道院で食べていた豚肉はこんなにトロンとして無くて、臭くて硬くて不味かった……」
「ああ、ニホンの養豚技術は高いからね。それにこの三枚肉は脂身の部分も美味しく食べられるでしょ?」
「ラーメン屋で食べるのよりもプルプル。口に入れると柔らかく崩れるし、このタレも美味しい!」
「これで豚肉嫌いも少しは直ったかな?」
「うん、これからは食わず嫌いせずに豚肉の料理も食べてみる事にする!」
☆
須田食堂ではマリーが座ると黙って唐揚げが出てくるが、今日のマリーは少し様子が違っていた。
「おばあちゃん、美味しい豚肉のメニューはある?」
「あら珍しい。ウチの豚肉は仕入れ先が変わって美味しくなったから、トンカツや生姜焼きはどうかしら?」
「じゃぁ、生姜焼き!いつもの定食で!」
この日からマリーが須田食堂で注文するメニューに、大幅にバリエーションが増えたのであった。
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