034.Something To Make You Happy<一口頂戴?>
コーディングや回路設計で煮詰まると、最近のハナはぶらりと散歩に出掛ける。
大きな目的の一つはイケブクロ近辺にある和菓子屋の探索だが、たとえ目的が無くても住んでいる場所に詳しくなるのは嬉しいものである。
その日のハナは、イケブクロの外れを彷徨っていた。
ちょっと裏道に入って方向感覚がおかしくなり、元の道に戻れなくなってしまったのだ。
普段なら大きな目印になる高層ビルや区役所も、狭い路地からは見渡す事が困難なのである。
(道に迷っちゃった上に、なんか寒くなってきたなぁ
近場の自販機は……あれっ、こういう時に限って冷たい飲み物しか入ってないじゃない!
何か暖かいものが飲みたいな)
ニホンに来て以来ようやく街角の自販機の存在に慣れたハナだが、実際に利用する機会は殆ど無かった。
それに今はまだ寒さが中途半端な時期なので、ホット飲料は販売開始されている種類も少ないのである。
(暖かいもの……ファーストフードでココアでも良いかな。
あれは、ヌードルの専門店?ああ、これが『立ち食い蕎麦』という店なんだね)
他に飲食店らしき店が見当たらないので、吸い込まれるようにハナは店に入っていく。
(チケットの販売機……これが食券の前払いというシステムか。
暖かいのは、これかな……種類があるけど良くわからないから、一番安いのにしようかな)
ニホン語の当用漢字もかなり覚えている彼女だが、まだ々日常生活では戸惑うことも多い。
「蕎麦とウドン、どちらにしますか?」
食券を手渡したハナは、髪色も濃いブラウンで小柄なので外国人らしくない容姿である。
カウンターの中の店員さんは躊躇無くニホン語で、お約束の確認をハナに聞いてくる。
「えっと、蕎麦で!」
ハナはふらりと立ち寄った『立ち食い蕎麦』店で、生まれて初めての掛け蕎麦を食べ始める。
ニホンに来てから様々な料理を体験しているので、カツオ節の風味が強い出汁の味には違和感を感じないが、麺になっている蕎麦を食べるのは生まれて初めての経験である。
まずどんぶりを持ち上げて、薬味のネギだけのシンプルな汁をゆっくりと味わう。
(うわぁ~暖まるなぁ、それにこの汁の味、ちょっと薄いけど雑味が無くて良い感じだね。
おまけに290円ということは、フ●レオフィッシュ1個よりも安いってこと!)
(麺の味は……あぁ、やっぱりガレットと同じような味がするね)
食べ慣れた好物と共通する風味は、ハナにとっては安心できる味なのだろう。
(でもそんなに味が濃くないから、食べやすいかな。
あぁもう麺がなくなっちゃったよ)
☆
数日後の寮のリビングダイニング。
「シン、この間●●●●という『立ち食い蕎麦』の店に入りましたよ」
「ああ、ビックリしたでしょ?
僕も初めてニホンに来たときには、かなりのカルチャーショックを受けたからね」
「牛丼屋とかもそうですけど、ああいう店は安いんですね。
あの値段で商売が成り立つのが、不思議です」
「ニホン式のああいうカウンターだけの店は、独自の発達を遂げてるからね。
客単価は低いけど回転率が高いから、お客さんが途切れない限りは結構儲かるらしいよ。
それでハナは何を注文したの?」
「シンプルな掛け蕎麦です。
とっても美味しくて気に入りました!」
「蕎麦かぁ……味はどうだった?」
「はい。体が温まって良い感じでした。
でも食べなれたガレットに比べると、蕎麦の風味が弱い感じがしましたけど」
「うん。やっぱりハナは鋭い味覚をしてるね。
ああいう店で安い値段で出せるのは、蕎麦粉の入っている比率を低く抑えているのも一つの理由なんだよね」
「比率って?もしかしてあの麺って蕎麦以外の混ぜ物がしてあるんですか?」
「うん。蕎麦は雑穀の中では高価な方だから、小麦粉と混ぜて嵩増ししてるんだよ。
製法上の問題で2割ほど小麦粉を入れて作る店もあるみたいだけど、手打ちの老舗では十割といって混ぜ物が無いのを売りにしている店も多いね。
でも外食の蕎麦は法律の規制が無いから、ほんの数パーセントでも蕎麦粉が入っていれば蕎麦って表示できるんだって」
「私が食べた店もそうなんでしょうか?」
「あそこは5割位は蕎麦粉みたいだから、かなり良心的な商売をしている方かな。
それに、十割の蕎麦をそんなに安価な値段で提供できる筈は無いしね」
「……なるほど」
「老舗の蕎麦屋はそのうち訪問するとして、じゃぁ今日は近所の蕎麦屋で夕食を食べようか」
「シン、どうせならこの間出前でカツ丼を食べた長崎庵にしましょう!」
エイミーが身を乗り出して、発言する。
取り調べ室で食べたカツ丼が、よっぽど気に入ったのだろう。
「歩いていける距離だし、そうしようか。
老舗の蕎麦屋じゃないけど、Tokyoオフィスのメンバーが常連だから良さそうなお店だよね」
☆
「おばちゃん、大盛りカツ丼頂戴!いつもの脂身の多いところをよろしく!」
同行していたルーは、長崎庵に入るなり注文を済ませてしまう。
「あれっ、ルーはここの常連なの?」
「うん。姉さんがお気に入りの店だから、良く一緒に食べに来るんだ」
コンクリート打ちっぱなしの床や、壁一面に短冊で表示されているメニューは典型的な街の蕎麦屋だが、知識の無い一行にはその違いは判らない。
ただ古ぼけてはいても細部まで清潔に保たれている店内の様子から、シンはこの店はかなり良さそうだと直感する。
「私はオムライスをお願いします!」
エイミーは、マリーが絶賛していたオムライスをメニューを見ずに注文する。
「う~ん、じゃぁ僕とハナは……まず『掛け蕎麦』を2つ下さい」
初めての店で注文を決められないハナを見て、シンが彼女に目配をして一緒に注文を行う。
……
他の注文より先に二人の前に置かれた『掛け蕎麦』は、見た目はハナが立ち食いで食べたものと区別が付かないだろう。
ハナは薬味の白ネギを少量だけ小皿から移すと、丼を両手で持ち上げてまず汁を口にする。
「あれっ、汁の味が違いますね。
出汁の旨みが強くて、醤油の味がしっかりとしています」
「うん。ハナが入った立ち食い蕎麦の店は良心的な店で汁には化学調味料を使っていないって触れ込みだけど、良質な削り節と自家製の『かえし』を使った本物の蕎麦屋とはやっぱり差が出るよね」
まだ上手に啜ることは出来ないが、たどたどしい箸使いで麺を口に運ぶ彼女は更に大きな違いに気が付く。
「うわっ、蕎麦の味が濃い!」
「これがそば粉の量と、値段の差なんだろうね。
でもハナが食べた立ち食いの蕎麦も、それなりに美味しかったでしょ?」
「はい。でも今はこれを味わっちゃったので……」
「ニホンの飲食店の優れた点は、値段なりの物がちゃんと出てくるっていうところかな。
安くても美味しいお店もあるし、高い処はそれなりのクオリティを確保してるしね」
「あの……シン、お二人の話を聞いてたら更にお腹がペコペコになってきました!」
エイミーの視線は、まだ箸を付けていないシンの蕎麦に釘づけである。
「オムライスは、調理の手間が掛かるからね」
シンは目の前にある掛け蕎麦の丼をエイミーの前に置くと、無言で彼女に割り箸を手渡す。
最近はシンの有能な助手として日々食事の支度に貢献しているので、偶の外食での我儘など可愛らしいものだろう。
日常生活では我儘は一切言わないエイミーなので、料理を食べるとき位はストレスを感じてほしくないとシンは心から願っているのである。
ズルズルと音を立てて蕎麦を啜り始めたエイミーは、Tokyoオフィスの他のメンバーと同様に普段から蕎麦を食べなれているように見える。
シンはエイミーと一緒にニホン蕎麦を食べた記憶が無いので、多分ユウから食べ方のマナーを教わったのであろう。
「すいません。カツ丼を二つ追加で下さい」
目の前の丼を浚われてしまったシンは、苦笑いしながら追加の注文を入れる。
「おばちゃん、私もカツ丼大盛りお代わり!」
ルーは早くも一杯目のカツ丼を食べ終えて、追加を注文している。
結局シンの掛け蕎麦を汁まで綺麗に平らげたエイミーは、遅れて配膳されたオムライスをスプーンで中央に切れ目を入れてから食べ始める。
オムレツの切り口からのぞいている中身のライスは、定番のケチャップ味でかなり沢山の具が入っているようだ。
食べるのが遅いハナは掛け蕎麦をやっと食べ終えると、届いたばかりのカツ丼の蓋を開ける。
ここで卵とじされたカツ丼特有の、ふわっとした甘い香りが漂ってくる。
「ユウさんから聞いたんだけどね、美味しい蕎麦屋さんのカツ丼は蕎麦用に仕込んだ汁を使うから美味しいんだって」
「ああ、この卵とじの味付けが汁なんですね!」
シンは自分のカツ丼の蓋を開けずにハナに蘊蓄を語っているが、熱い視線がまたもや自分の手許の丼に向いているのに気が付く。
「シン、カツ丼も、一口食べたいかも……」
オムライスをいつの間にか食べ終えたエイミーは、今度はエイミーのカツ丼を食べる様子を羨ましそうに見ている。
「ええっ、そんなに食べて大丈夫かな?」
シンは蓋を開けて食べるばかりだった出来立てのカツ丼を、お盆ごと彼女の前に移動させる。
この店のご飯ものメニューはどれも器が大きく盛りが良いので、並盛でも他店の大盛りの分量は楽にあるだろう。
彼女はシンに向けてにっこりと笑顔を返すと、箸を使わずにオムライスのスプーンを使ってカツ丼を食べ始める。
「ん~、やっぱり美味しいですね!
汁がお肉まで回って、なんかしっとり柔らかくなってます!」
カツ丼をスプーンを使って頬張るエイミーは、美味しいを連発してもう夢中である。
箸休めに小皿に載ったお新香を大きなスプーンで器用に取り分けているのは、彼女がニホンの食事に慣れてきた証左であろう。
「ユウさんでも、この味を再現するのは難しいんだって。
何よりこの甘汁の味は、量を作る本物のお蕎麦屋さんじゃないと出せないって言ってたな」
エイミーの豪快に食べる姿に見とれていたシンは追加でコメントを付け加えるが、ふとここで入店してから自分はお新香一切れも食べていない事に気が付く。
「それにしてもエイミー、一口の量がだいぶ多かったような気がするんだけど?」
あっという間に空になった丼を眺めながら、シンが苦笑する。
スプーンで豪快に食べる一口は確かに量が多いが、全部食べられてしまったのはさすがに想定外なのであろう。
「はい。成長期ですから!
シンのためにしっかりと食べて、一生懸命大きくなりますからね!」
満面の笑顔で健気な一言を返してくるエイミーに、シンが文句の一つも言えないのは当然である。
エイミーは今度はメニューを広げて、何かデザートになりそうな甘味を探しているようだ。
ハナはゆっくりとマイペースで、汁が染みた卵とじのご飯を味わっている。
どうやら蕎麦屋の伝統的なカツ丼の味も、彼女は気に入ってくれたようである。
「あの何度もすいませんけど、カツ丼をもう一つ追加でお願いします」
「おばちゃん、私もカツ丼大盛りを追加で!」
「今時の子供たちは小食だと思ってたけど、ルーちゃんのお友達はみんな沢山食べるんだねぇ」
注文を繰り返し聞いている配膳係のお婆ちゃんは、関心した様子で呟いている。
シン一行の外食の時間は、今日も何事も無く平和?に過ぎていくのであった。
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