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まだ薄くらい朝靄の中、自転車に跨った僕は永代通りを北西に向かっていた。自宅のある門前仲町から大手町まで二〇分ほどの距離。隅田川を抜けてくる海風が左の頬をこれでもかというほど冷たくする。二日酔いで朦朧とした頭がすっきりしていくのを感じながら、ペダルを強く踏み込んでいく。
大手町駅から東西線で四駅という立地と、家賃も手頃なのが魅力でこのマンションに引っ越してから三年になる。単身用マンションの九階はそこそこ見晴らしがよく、花火大会の日は自宅で友人と酒を盛るのが毎年恒例の行事となっている。
信号が赤から青に変わる。永代橋を過ぎると一気に周りの建造物の高さが変わる。
東京国際フォーラムの近くの駐輪場に自転車を停める。そこから会社までは歩いて十分掛からない程度だが、行きがけにコーヒーショップに立ち寄って朝刊を眺めるのがここ数年で築き上げた朝のライフサイクルだ。『円下落――投資家は外債関連の買い越しへ』『X証券、過去最大の経常赤字』といった見出しが躍るが、直接的に僕らのビジネスに影響するトピックは無かった。『牡牛座、今日のラッキーカラーは紫』自分の全身をぱっと確認してしまってから、何事も無かったように襟を正す。
朝七時半を過ぎた。いつもこの時間から、席が込み合ってくる。
「おはよう!」
頭の上から声が掛けられる。言うが早いか、窓際に座っていた僕の隣に腰掛けたのは七瀬明菜だった。黒のパンツに、ゆったりとしたベージュのニット、それにキャメル色のトレンチコートを羽織っている。活動的な印象を与える彼女は、技術部に在籍する生粋の技術者だ。
自称『知的美人』を豪語する彼女が掛けている横長のフレームのある眼鏡は最近仕入れたばかりで、度が入っていないことは周知の事実だ。
「おはよう、珍しく早いな、明菜。朝番か?」
「そう! 聞いてよ! まったくあの部長め、昨日も終電ギリギリまで働かせておいて朝一で出ろなんて拷問以外の何物でもないね」
絶対に私のこと嫌いだ、呟く彼女はホットのカプチーノに口をつける。
「それにしても暑くない?」
「そうか? 自転車で来てるし、これぐらいのが冷えた体にはちょうどいいぜ」
「この季節にまだ自転車で来てるの? 門仲だっけ、住んでるの」
「まあな」
簡潔に答える。ちなみに、明菜は三鷹に住んでいるから、僕とは大手町を挟んで逆の方面だ。
「そういえばさー、昨日から変な案件に捻じ込まれてるんだよね。この忙しい最中だっていうのに、トールハンマーの拡張なんてね」
「拡張案の検討だろ、正式には。我ながらよくできたと自分で自分を褒めてあげたい」
ある程度あたりは付いていたのだろう、中途半端な鎌をかけてきた明菜に、自分が仕向けたものと吐露する。ある程度以上の規模の案件は、統合マネジメント部が主導する場合が多いことを知っての発言だろう。
拡張という言葉を使ったが、それも正確ではない。見る人が見れば、どうやっても現行仕様では不可能なアーキテクチャが盛り込まれているのに気づくだろう。
「結局上の連中はさ、トールハンマーさえ売れればそれでいいんだよ。中身が例えスクラッチから作ったとしても。もともと、拡張性はそんなに無いことは分かってるしさ、これを機に作り変えればいいと考えた。技術部だってやりたいんだろう?」
「まあ、否定はしないわ」
そう言いつつ、何ともいえない表情を浮かべる明菜。今言った内容は、以前に、今の構成を真っ白にして組みなおしたいと、構成案と一緒に何時間も議論した内容をベースにしている。
一般的なソフトには、バージョンというものが存在する。ベータ版の場合はゼロから始まって、正式版のリリース時に一.〇となるのが通常だ。その後拡張や変更をしていくと、ピリオド以下のオクテッドをカウントアップしていく。一.一、一.二といった具合だ。更に言うと、大きなソフトになればなるほど、このオクテッドの階層、或いは桁数が増える。ちなみに、トールハンマーの最新のバージョンは、一.三.三〇だ。先頭のオクテッド、つまり一を二に上げるときは、メジャーバージョンアップといって、大きな変更をする場合に行われる。そういった意味では、まだトールハンマーはメジャーバージョンアップを一度も行っていないことになる。
「でも時期が悪いなあ、やりたいんだけど時間がないなあ、何とかしてくれないかなあ」
わざとらしく天を仰ぐ明菜。目線をちらとこちらに配る。少し茶色掛かった長いストレートの髪が彼女の肩から広がるようにしてこぼれる。
この案件を機に、メジャーバージョンアップを行い、当社のキラーコンテンツとする、というのが構想だ。中小向けには、現行のバージョンで、大企業向けに今回の二.〇を売り込んでいく。もちろん、案件が取れたら、という前提だが。
「大げさだな」
首を元の位置に戻して、僕の方に顔を向ける。彼女はこう言ったものの、実のところ間に合わないという心配は微塵もしていない。
「多分だけど、時間は取れるようになる。今日明日というのは難しいけれど、ちょっと他に掛け合っている最中」
言葉の意図が伝わったのか、にやにやする明菜。僕は少し冷めたコーヒーを喉に流し込む。
「ついでに、前任者は一旦解任で、技術部からは明菜一人になる」
「一人のが早いよ」
明菜は気負わずに言った。本心なのだろう、さも当然とばかりの口調。
「そりゃ、単純な作業なんかはいてもらった方がいいんだけど。こういう頭を使ってどうこうっていうのは、一人の方がいい。直哉もいるんなら周辺も気にすることもないし、尚更」
他部署で浮いている人材をスポットで技術部に移籍させ、更に前任者の空き時間を明菜の元々の作業に充てる。たったこれだけのことだけど、社内政治やら何やらで調整に手間取っているのが現状だ。
「それは心強い。とりあえず作った素案は素案でいけると個人的には踏んでる。でもコストは度外視しての案だから、そこもついでに何とかしてほしい。既存のコードだけじゃなくって、そっちで持ってるフレームワークなり、他のパッケージなりから拝借してローコストな、でも機能は落とさずに」
僅かに考え込む明菜。頭の中ではあらゆる選択肢が出ているに違いない。少し俯き、右手の人差し指を唇に当てている。もともとのベースが僕ら二人の発案なのだから、あらかじめ想定したケースはそれなりにあるはずだ。
「オーケイ、これ以上は会社で話そうか」
少しした後、ある程度道筋が見えたのか、そう明菜は話を切った。
温くなったコーヒーを一気に流し込み、立ち上がる。明菜も残りを一気に消費して追随する。会社まではここから十分弱の時間だ。着くのはちょうど八時頃になるだろう、通用口ではなく正面口が開く時間だ。
工事中のビルの脇を明菜と並んで歩く。信号で立ち止まったときに、僕は思いついたことを口にする。
「なあ、合宿でもしようぜ」
「お、良いこと言うね。あたしは温泉行きたい」
突然言ったにも関わらず乗ってくる彼女は、鍋囲んで日本酒なんていいね、と続けた。どうして僕の周りにはこう酒好きな女子しかいないのだろうか。
「一応聞くけど、名目は?」
「新規プロジェクトの立上げに関するフォローアップと、全体計画の策定、チームコミュニケーションの醸成」
立上げに関して、こういった合宿を行うのは、最近は減ってきたものの、例が無いわけではない。
「まさか二人って訳じゃないでしょ」
「証券開発の篠田圭一、そいつもこれから合流することになる」
「篠田って、いつも滅茶苦茶に忙しそうにしてるじゃん。よく取れたねえ。権力振りかざし過ぎじゃない?」
明菜の口から殺しきれなかった笑いが零れた。
「いや、これから捩じ込む。今週聞いた限り、一瞬隙間ができるらしい。その隙間をこじ開ける。なあに、こういった時のために普段から色々動いているのだよ」
「……ふふっ」
統合マネジメント部の裁量権はかなり大きい。必要な人材を適所に配置するのも、ジョブローテーションの観点から全体最適を図るのも、一次案として各部署にある程度の強制力を持って提案することができる。
特に緊急時においては、作戦室の設置から全社を巻き込んだ体制構築を行うまでが手続き化されている。
実際は細かい手順なり根回しなりが必要になるのであるが、契約を取るときが最もセンスが必要になることから、エース級を一本釣りすることはよくあることだ。僕がこの案件に入るときに、部長とネゴシエーションして得た権利の一つだ。もともと別の人間をアサインメントしているのを外して、より信頼の置けて精度の高い人材を持ってくる。短期間で成果を出すのに必要なのは技術力だけではないのだ。とはいえ、個別の調整は僕が行う、という条件付きだ。今、目の前にいる明菜もそうやって釣り上げようとしている。
「あと、営業の平岡結衣って知ってるか?」
僕はそれぞれとは、結構な頻度で会っているが、明菜と平岡が話しているところを見たことが無かった。
「……平岡って、あの平岡? これって彼女の案件だったんだ」
軽く目を見開き、驚いた口調で聞いてくる。
前にも触れたとおり、平岡は社内で有名人である。技術部に直接赴くことは少ないが、社内報に目を通していれば、四半期に一度くらいは何かしら目にすることになる。
「勝利は確定したようなものだろう?」
*****
会社に着くと佐藤がこれまた珍しく早く出社していて、書類と睨めっこをしていた。昨日引き継ぎをしたばかりで、こういう分かりやすいかたちでやる気を見せてくれるのは本人が思っている以上にポイントが高い。
「おはよう」
集中していたのか、僕の声に反応するのが少し遅れて、挨拶を返してくる。
「あっ、大槻さん、おはようございます!」
どうやら、佐藤が一番乗りで、僕が二番目だったようで、フロアには他に誰もいない。給湯室に向かい、コーヒーメーカーの電源を入れる。二人分のカップを用意し、程なくして出来上がったコーヒーを注ぐ。備え付けのコーヒーは、部長の意向で少し高めの豆を挽いたものを使っている。
「ほら、熱いうちに飲めよ」
佐藤のデスクの傍らに置く。
「ありがとうございます、すみません、僕が本当はやらないといけないのに」
その言葉に、いいよ、と簡単に返す。窓のブラインドを陽が入るように調整する。空気が澄んでいる日は東京タワーの隣あたり、遠くに富士山まで見通せる。
目の前に広がる日比谷公園は、昨日の喧騒は嘘のように何も無かった。いつも通り、早朝ランニングや、体操をしている人がちらほらいる隣で、スーツ姿の団体が足早にそれぞれの目的地にせわしなく向かっていく。
この大勢のそれぞれが、それぞれにしかできない仕事がある。そう考えると何となく妙な気持ちになった。それでいて、居なくなったら直ぐに代替の歯車が用意される。この会社だってそれは同じだ。僕が佐藤に引き継いで、きっと間もなくこなせるようになるだろう。
そんなことを思いつつ、それでも、平岡と進めている案件は僕ができなければ、他の誰にもできないだろう、とも考えた。この感覚は会社員なら誰でも同意してくれるであろう、勘違いに起因した全能感なのだけれど。
席に戻って平岡結衣と篠田圭一、それから七瀬明菜の予定表を確認し――社内のOA環境では他のメンバの予定表が確認可能だ――今日の午後に打合せを設定する。とりあえずの顔合わせと、半ば冗談から始まったような合宿の件についてだ。今日明日くらいで合宿の決裁を取る準備をしておく必要があるが、それほど難しい話ではない。目的と効果、それに見積りを付けた一枚ものの資料を準備してお願いするだけだからだ。打合せの場で問題なければ、即時ワークフローに回せるようにしておけば問題ない。
総務部に見積りの手配をしていると、部長から朝礼の声が掛かった。朝礼と言っても、当日のイベント(大きな打合せや、通達、期日など)や情報共有しておきたいことをその場で共有する程度のものでものの数分で終わる簡単なものだ。
「個別には連絡済だが、若干の体制変更を実施したので連絡する。大槻がこれまで担ってきた仕事、主には監査関係のものについて、佐藤へ引継ぎを実施した。大槻は現在提案中の案件に注力。これまで大槻に照会掛けてたものは、したがって佐藤に聞くこと。ただし、監査以外の件は発生しだい大槻にも入ってもらう可能性があるから、完全に佐藤が大槻の後任という訳ではないことに留意。それ以外の変更は無し」
改めて部内に通達がなされた以外、トピックらしいトピックはなかった。
今日の打合せ資料の作成に取り掛かる前に部長に事前ネゴをしておくことにする。社会人たるもの、こういった相談事は早めにするのがよい。
「田岡部長、今よろしいでしょうか」
「どうした? 更に人が欲しくなったか?」
「いえ、それは当初から増えておりません。まあ、証券開発がごねた場合は出張っていただくかもしれませんが。今回は別件です」
その後簡単な説明の後、事前の承認が得られた。社内に閉じこもってばかりの僕を慮ってくれた、ということは無い。俺も平岡と合宿行きてえなあ、と軽く小言を頂いた程度だ。
総務部から見積り条件の照会が来ていたので対応していると携帯電話が鳴った。会社支給のものではなく、個人用のだ。電話に出ると、小さな声が聞こえてきた。
「あ、もしもし? 平岡です……昨日は無事帰れましたか?」
中途半端な敬語と、奥歯にものが詰まったような喋り方だった。
昨日――あの後、結局ふらふらになった平岡を、そのままタクシーを捕まえて放り込んで、家まで送っていったのだ。
「ああ、それは大丈夫。それより、平岡のほうこそ大丈夫?」
「少し寝て目が覚めたら、逆にそこから寝れなくなっちゃって、ちょっと寝不足気味。それより昨日は何か色々ごめん」
「ああ、ちょっと待って。今自席にいるから場所を変える」
平岡、という単語に隣の佐藤が反応したのは置いておいて、フロアを出ることにした。佐藤には今更、と思われているかもしれないが一応だ。
「……ごめん、いいよ」
「今日ランチ一緒に行かない? お詫びって程のものじゃないけど、東京駅の近くに新しくできたビルで、おごらせてほしいんだけど」
僕としては精精コーヒー一杯程度で十分なのだけど、という言葉を呑み込む。数瞬の後、了解の意をを伝えて電話を切る。
折角フロアを出たので、その足で証券開発二部のある五階下のフロアに向かう。目的は篠田ではなく、その上長との調整だ。
エレベーターが開くと、脇に書類を抱えた総務部の女の子が出てくる。僕と視線が合うと、嬉しそうにして駆け寄ってくる。
白いブラウスにピンクのカーディガン、膝丈のスカート。歩きやすいと言って愛用しているパンプスは一応職場を意識してなのか、ベージュを基調ととして、小さなバラをアクセントに付けたものだ。これから女子会にでも行きます、と言われても不思議ではない。
「あ、直哉さん! 頼まれていた見積り、上がったのでお届けです」
『総務って朝から晩まで走り回るんですよ、意外と。ITだって言ってる割には、まだまだ現物処理が大量に残ってるんですよね。直哉さんの力で何とかなりませんか?』などと言われて困った記憶が蘇る。
「ちょうど会えてよかったです」
何が、と聞く前に彼女は言葉を重ねる。
「……実はご相談があって、今週どこかでお時間いただきたいのですが」
僕を見上げてそう言った。
彼女の名前は鈴木莉子――去年末に分かれた僕の元恋人だ。