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僕が平岡と初めて話したのは五年前のことだ。
『お仕事中失礼いたします。営業部の平岡と申しますが、大槻さんはいらっしゃいますか?』
内線を受けたときに聞いた、明るくはきはきとした声を今でも覚えている。
同期入社にも関わらず、三年目にして話したのはこれが初めてだった。営業部入社と技術部入社は、入社後一週間のビジネス基礎研修後、コースが分かれるためだ。全員で百人を数える我が同期組は、入社式以来、飲み会という席上で一度も全員が揃った試しは無い。
「大槻です」
『あ、大槻君? ごめん、同期の平岡だけど、分かる?』
急に口調が砕ける平岡。
彼女のことは知っていた。単純な理由だが、同期の中でも断トツに可愛かったからだ。しかし、相手も百人もいる同期の中で名前を覚えてくれていたことに、当時の僕はささやかな感動を覚えた。ああ、と素っ気無い返事をしてしまった自らの迂闊さを呪う。
『あ~良かった! 分からないとか言われたらショックだからね。それで、昨日くらいにうちの部長からメールが飛んでると思うんだけど』
そこまで聞いて、そんなこともあったかと受話器を片手に昨日のメールを確認する。件名『営業部サポートの件』、差出人『営業部長』、内容はいつもの見慣れた案件のサポート依頼だった。
そこからは驚きの連続だった。
「あの時は酷かったよなー、平岡」
当時の平岡はまだぺーぺーで、辛うじて金額の計算はできたが、それ以外はさっぱりだったのだ。何せ、最初の打ち合わせのときに、『逆に私は何をすればよいのでしょうか』と来たものだ。それは技術部に在籍していた僕の台詞だ、と言ったのを覚えている。
「あ、あの時は! しょうがないじゃない」
いつの間にか僕の右隣に座っている平岡が顔を赤くする。肩と肩は十センチほど空いているが、この光景を社内に見られたら、僕は殺されるに違いない。
シャンプーの匂いが僕の鼻腔をくすぐる、とはいかない。既に酒臭かった。
「でも、あの時は助かったよ、これは本当」
メールには、営業部は他の案件で手が離せないから、一から資料作成をするよう書いてあった。僕は専門外もいいところだったけれど、幸いに月に何件かは見ていたので大体は分かっていた。部長もそれを知って振ってきたのだろう。
実際のところ、受注は内々には決まっていて、半ば形式的に提案書を書くという類のものだったから、三年目にはいい経験なのだろうと今になって思う。
「ほんと、大槻さまさまです。この通り!」
「それが今や営業部のエースだもんな、当時しか知らない僕が言うのも何だけど、今日のプレゼンだって、堂に入ったものだった」
「場数を踏めば誰だって出来るよ、あれぐらい」
照れているのか片手で顔をパタパタと扇ぐ平岡は、しかし空いた手で最後の一つになった若鶏の炭火焼を素早く掴むと口に放り込んだ。同じく伸ばした僕の手は空を切った。
「うん、やっぱり美味しいね。大槻が勧めるだけはある」
彼女は両手を合わせてごちそうさま、と言って笑った。
*****
翌日、二日酔いでくらくらする頭を抱えながら出社した僕は、朝一番に佐藤を会議室に連れ込む。引き継ぎと言っても、どうしても僕が処理しないといけない事案が何件かあるから、それを除くとそんなに多くない。
「もう知っていると思うが、ここ数か月のタスクは内部監査が中心だ。既に勧告済の事案が三件、これは事後改善の確認を残すのみだからチェックリストに基づいて進めればいい。改善できていれば、そのように報告書を書けばいいし、不十分な点があっても同じように処理すればいい。この辺は、中津先輩も一緒に付いていって貰うからそんなに心配しなくていいよ。で、チェックリストは――」
十人は入れる会議室に僕の声が反響する。急な引き継ぎに最初驚いていた佐藤も、すぐに切り替えて説明に聞き入っていたようだ。もともと慣れてないだけで仕事はできる上、殆どが準備は終わっていて実行するだけのものだったから引き継ぎはものの一時間程度で済んだ。
「後はやってみて、分からないことがあったら、僕か中津先輩に聞いて進めてくれればいい。それで、何か質問とかある? 一応、来月からの仕事もそれなりにあるけど、それは部長から別に説明があるから」
「大丈夫です。ところで昨日先輩が帰った後、証券開発二部の篠田さんが大槻さんを訪ねてきましたよ。後でメールする、と仰ってましたけど」
伝えるのが遅くなって済みません、と繋げる佐藤。
「了解、ありがとう。後で確認してみるよ」
それが終了の合図になった。片付けを佐藤に任せて自席に戻ると、メールをチェックする。『未読 二〇件』と表示された画面を上から順に眺めていくと、未読の最終行に『証券開発二部 篠田圭一』の名前を見つけた。送信時間は僕が煙草を吸っていた時間に合致するから、入れ違いになったのだろう。
篠田圭一、三二歳。
平岡と同じく、百人の同期の内の一人。ただし、大学入試で一浪して院卒上がりの彼は、ストレートの僕より三つ年上だ。こいつとは最初の配属が同じ技術部だったこともあって、多いときは週四のペースで飲みに行っていたほどの仲だ。大学ではラグビーを四年間続け、最後には主将まで務めたほどの男だ。今でも酒を飲まない日はトレーニングを欠かさないそうで、努力の甲斐もあって見た目はまだ二十台の前半、とは行かないまでも二五、六と言われても違和感が無い。
一九〇センチを超える体躯は、初めて相対したときは来るところを間違えたのかと本気で突っ込みをいれたほどだ。
『仕事が一段落ついたので、少し前から言われていた勉強会の件、都合を付けられるようになった。ただ、いつ忙しくなるかは分らないから早めに連絡のこと』
平岡案件のプレアドを受けた時に、真っ先に思い浮かんだのが篠田だった。自分の予定表を確認して、来週初の空いている時間を幾つか提示して返信する。このためだけに、わざわざ五階分の距離を移動してきた篠田に心の中で感謝しつつ。
引き継ぎが思いのほか早く終わったので、少し時間が空いてしまった。せっかくなので、昨日の平岡作のプレゼン資料をもとに、今後のプランについて頭を働かせることにした。修正ポイントと今後の検討内容、それに必要なスキルセットを簡単に纏めるべく、頭から資料に目を通していく。
当社のコーポレートカラーである赤を基調とした資料は、五年前に作成した資料とは、比べるまでもなかった。簡潔明瞭に、文字は少なくグラフィックが中心のそれは、ある種の芸術だというのは言い過ぎだろうか。
『絵っていうのは、全体を示す必要は無くて、買い手が興味を引くだろうところをフォーカスして作るのが鉄則。余計な情報は落とすのと併せて、デメリットとそれを上回るメリットを同時に示すのがいい』
三年目の僕の言葉だ。抽象論もいいところだが、当時僕が作りたかったものは、正に今ディスプレイに映し出されているものに相違なかった。
『できた!』
翌日、僕の言葉が届いていなかったかのように、まるでパレットの絵具をぶちまけたようなカラフルな資料は、当然ながら一顧だにせず捨てさせた。作っては捨て、を繰り返して、最終稿でも部長に苦笑いされたのは今でも僕らの語り草となっている。
「大槻さん」
不意に掛けられた声に、僕は一瞬びくっとなった。振り返ると、今日は白いスーツに身を包んだ平岡が、いつの間にか立っていた。細身のパンツスーツは彼女によく似合っている。『大槻』と普段は呼び捨てにする彼女にさん付けで呼ばれるのは、なんとなくむず痒かった。
「先日の件でご相談があるのですが、今お時間よろしいでしょうか」
統合マネジメント部は、総勢五〇人で構成される部隊だ。決算期が近い今の時期は、普段は出払っている面々も自席で書類と睨めっこしている。
いつになく静かなフロアに、平岡の声はよく通った。非常に目立つことこの上ない。ましてや、社内の有名人なら尚更だ。僕の隣に席を構える佐藤なんかは、視線こそパソコンに向かっていたが集中ができていないようで、クリック音が無駄に多い。
「分かりました、ここではあれなので」
そう言って席を立つ。佐藤の引き継ぎのために取っていた会議室は、午前中いっぱい押さえていたため、そちらにエスコートする。平岡は当部メンバの窺うような視線に刺されながら付いてくる。後ろ手に、会議室のドアを閉め、先ほど座っていた場所に腰を下ろす。対面に座るように促したにも関わらず、それを無視して隣に座る平岡。
「資料は一部しか持ってきてないの」そう言って、ブリーフケースから取り出された資料は、先ほど僕が見ていた資料一式と、他にも幾つかあった。
『これでどうだろう』そう言って広げられた資料は、昨日捨てたカラフルな資料から一転していた。殆ど肩と肩が付くような距離で、こうでもない、ああでもない、と並んで意見を交わしていたことを思い出す。
そうだった、彼女はいつもこの距離だったのだ。
「あ~、昨日久しぶりに飲みすぎた所為か、もう今日の朝から頭がガンガンしてさ、大槻は大丈夫だった?」
「僕も似たようなものだよ。午前中は引き継ぎしか無かったから良かったけれど、全然頭はまだ働いてない」
「それにしてもさ、何か懐かしいね」
椅子の背もたれを精いっぱい後ろに倒して、両手を組んで前に伸ばす平岡。首だけこちらに向けて笑う。丁度さっき僕が思い出したことは、彼女も同じだったようだ。
「あの時は助けて貰うばっかりだったけど、今回は違うからね」
「そりゃあ頼もしい」
「そうだ」と呟いて、平岡は急に立ち上がって窓に向かって行く。何があるのだろうと訝しげに見ていると、ブラインドを制御するパネルの操作を始めた。程なくして、ブラインドは全て仕舞われる。たちまち、部屋が日の光で満たされる。蛍光灯に慣らされた目には少々きつく、僕は目を細めた。
普段彼女がいるフロアは八階で、僕がいるのは二〇階だ。社長室があるのは最上階の二一階だが、これは滅多なことでは入れない。そのため、実質上、このビルの一番上のフロアはここということになる。
今使っている会議室はビルの角に位置するため窓が二面ある。眼下に日比谷公園、左手奥に東京タワーを望むことができる。
「うわ、やっぱり景色いいね。あ、公園で何かやってる」
こちらを振り返って、手でおいでおいでをする平岡。「なんか今日イベントあったっけな」と思案している。そういえば今日、出勤の途中でビラを見た記憶があり、何とか手繰り寄せる。
「確か、アフリカのどこかの国のイベントだったような気がする」
ジャマイカとかカンボジアとか、都内ではある程度お馴染になった、一定の周期で行われているイベントの一つだろう、と付け加える。こういったイベントは、僕は実のところ結構好きだったりする。普段食べないような料理も多く、レストランで食べるのとはまた違った味わいがある。提供される料理は雑であったりもするのだが、きっと日本人向けにアレンジされていないいわゆる本場の味というものなのだろうと思うようにしている。一口だけでこれ以上食べられないという強烈な料理も時折あたることもあるが、しかし、そういったことも含めてついついインターネットで調べて出かけてしまうのだ。
「ああ、なるほど。ホントだ、よく見るとそれっぽい服を来た人もいるね。そういえば、大槻ってこういうの好きだったよね」
「今日、終わったら行くか?」
僕がそう言うと、彼女は「行く!」と即答した。