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「今日、仕事が終わったら飲みに行かない?」
会議が終わった後、エレベータホールで営業部の平岡結衣に呼び止められ、そう切り出された。普段の快活な彼女は鳴りを潜めて、わざととも思えるほどがっくしと肩を落としている。はぁぁ、と小さくない溜息。肩に掛かるほどの長さの髪が、重力に従って彼女の表情を隠している。左手は書類を持っているが、空いた右手はだらんと、こちらも重力に逆らう気配はない。
腕時計に目を落とす。十七時を回ったところだった。今日の打ち合わせはこれで終わりだったが、仕事がまだ残っている。残業は確定かと、覚悟を決めたことも記憶に新しい。平岡に付き合うか、僕は少し悩んだ。
「別に忙しいならいいよ? そんなに無理強いするつもりもないし」
平岡は僕の顔を覗き込むようにして顔を少し上げ、弱い口調でそう付け加えた。大きな目が所在なさげに揺れている。どの顔で無理強いするつもりはないと言うのか。捨て猫かと心の中で突っ込みを入れつつ、僕以外のやつであれば、この平岡を見れば誘っているのかと勘違いするだろうと思う。
「いや、いいよ。多分行ける。二一時くらいからでよければ、だけど」
今日の作業量と、時間を逆算して、ギリギリ四時間に収まれば御の字、と終わるかどうかくらいの時間を提示する。十二月の決算期が近づくと、直接財務に関わってない部署にも色々な書類の整備などが舞い込む。どうしても今日中に出さないといけない書類があるのだ。
「ほんと? それじゃ、こっちもそれくらいには終わらせるようにするね」
平岡は大きい目を細めて、先ほどより少しはましな声で言った。それでも、会議上での凛として部長席と立ち回っていた営業部のエースと同じ人物とは思えないほどだったが。
「それじゃ、時間になったら声掛けるね」
「了解。あと、今日の宿題で何かあれば遠慮なく聞きに来てくれて構わないから。今日の内容なら大体理解したし」
僕の言葉に平岡はありがとう、と言って背筋を伸ばす。黒いスーツに白のブラウス、身長は一六〇センチに満たないくらいだが、顔が小さいからか、姿勢が良いからかは分らないが実際より身長が高く見られることが多いらしい。「また後でね」そう言って踵を返す彼女は、普段どおりの格好いい営業部のエースに戻っていた。
「大槻先輩、平岡さんと仲良いんですか?」
見られていたぞ、平岡。そう心の中で突っ込みを入れつつ、声を掛けてきた相手に向き直る。遅れて会議室から出てきた佐藤だった。三年目の若手で、今年の春になって僕のいる部署に配属になった。今は僕について回って色々勉強している最中だ。物覚えがよく、本人にはまだ言っていないが、そろそろ一人で色々やらせてみようかと思っているところだ。
佐藤が言うように、平岡は社内で有名人だ。会社の広報のページに写真付きで載っていて、外向けのイベントをやるときもプレゼンターとしてアサインされることが多いのだ最たる理由だ。容姿もさることながら、その実績が凄まじい。平岡案件に負けなし、とまで云われるほどである。もちろん、彼女一人の力で無いことは皆知っているので、やっかみが半分くらい入っている。
一方、僕の方はと言えば、会社的には完全に引篭もりの職場だ。僕の所属する統合マネジメント部という組織は、全社のあらゆるプロジェクトを横断的にサポートする立ち位置だ。いわゆる第三者機関として機能する組織体、どちらかと言えば営業部ではなく開発部に接点が多い。
「そう見えたか?」
「そりゃもう。あんな平岡さん見たことが無いっすから。いつも格好いいじゃないですか、あの人。さっきの会議だって、色々言われていましたけど、真っ向から言い返していて」
佐藤の顔が僅かに紅潮し、下世話な笑いを浮かべる。社内ゴシップのネタとしては満点に違いない。
「昔、ちょっと絡んだことがあってね。まあ、そんなことより、さっきの打合せの議事録、今日中に部長印まで貰って全員に回付な」
「ちょ、今日中って! 部長が帰るまで後二時間しかないじゃないですか」
「頼んだぞ、佐藤。俺はちょっと寄るところがある。一時間ほどで戻るから、それまでに俺に見せられる状態までしておくこと」
二一時。
『そろそろ出られる?』平岡からのメッセージ。ビルの一階で待ち合わせる旨返信し、フロアを後にする。
この時間の正面口は閉まっているため、裏口からに出ることになる。守衛に挨拶をして会社を出る。大手町駅からすぐ近くのこのビルは、都心の割に夜になると明かりもほとんどない。
会議から一本も吸っていなかった煙草に火をつけて、平岡を待つ。
「ごめん、遅れた」
急いだのだろう、平岡は少し息を切らせてやってきた。吐く息は白く、冬も本格的に始まったかとそんなことを思っていた。ファー付の膝下まである白のロングコートはどちらかと言えば可愛いと形容される部類だろう。中に着込んだスーツとは対称的に。
襟を両手で重ねあわせて、寒いね、なんて言って笑う姿はやはり社内では見られない光景だろう。
「いや、大丈夫。近くでいいよな?」
半分ほど残った煙草を携帯灰皿に突っ込む。
「どこでもいいよ」
それじゃあ、そう言って東京駅との中間ほどにあるダイニングバーを提示すると、ちょうどお腹空いていた、ということで異論は出なかった。
今年も例年通りの西高東低、つまり日本は現在盛大な寒波に見舞われている。普段はただ垂らすだけのマフラーを、首に巻きつけた。
「ごめんね、遅くから付き合わせちゃって」
週半ばにも関わらず、店の席は半分ほどしか入っていなかった。ここ、ダイニングバー『ハッピーカフェ』は、昼間はランチ営業していて、リーズナブルな上にそれほど混まないという穴場的な場所だ。客層も、場所柄か金融関係のきちっとしたスーツに身を包んだ人が多い。
全席ソファー席で、全体的に女の子向けの内装なのだが、食事は結構がっつり系のものが提供される。ターゲット層が良くわからないという最初の印象は今も変わってない。
空いているからか、二人掛けのソファーが対面になった四人用の席に通される。窓の隣の絶好の席にも関わらず、林立する高層ビルの隙間から除くようにして日比谷公園と霞ヶ関の灯が落ちたビル群しか見えないため、夜景としては今ひとつだ。コートを壁に掛け、向かい合って座る。先ずはお飲み物を、という店員にピルスナーを二つ注文する。ビールの種類が多いのはここの売りの一つなのだろう、と僕は勝手に思っている。輸入ものが多く、二十種類ほどある。全部制覇してはいないが、僕はいつも同じものを頼んでいる。過去に一度、平岡に飲ませてからは、同じものを注文するようになった。
向かいに座った平岡は、軽く伸びをしてリラックスモードに入っているようだった。ジャケットが上に引っ張られて、お腹が見えそうになっている。
それを眺めていると、僕の視線に気づいたのか、はっとしてジャケットの襟を直す。こほん、と小さく咳払いする。たまに人の目を気にせず緩むところがあるのだ、彼女は。僕以外の前でやっているかは分からないが、控えてくれていることを望むばかりだ。
そうしている内に届いたビールを、互いのグラスを簡単に合わせてから、半分くらいまで一気に流し込む平岡。相変わらず、いい飲みっぷりだと感心する。
「あー、おいしー。やっぱりビールは最高だね」
泡が口の端に付いていますよ、と僕が言う前にハンカチで拭う彼女。
「そういえば、今回の件は大槻が担当することになったの……って、何?」
首を傾げて聞いてくる。
平岡は話すときは相手の目を見て、一切逸らさない。
「久しぶりだな、そういえば平岡から誘ってくるのって」
「今日の会議はね、さすがの私でも堪えたっていうか、ね。ついでに、向かい側に大槻もいるから変な緊張しちゃってさ。統合マネジメント部も普段出てくる田岡部長だけかと思ったら、いるんだもの。分かる? 普段オフでしか会わない人が向かいにいるっていうのは、中々に緊張するんだよ。まあ、失敗したのは大槻の所為じゃないのだけど」
「ああ、ものの見事に外していたな。けど、うちの若手は凄い凄いって感動していたぞ。その辺の喋りは巧くなったんだな、俺も感心した」
「喋りだけ巧くっても、中身があれじゃあね」
はぁ、と溜息を吐き、残り半分を一気に飲みきった平岡は、片手を挙げて店員を呼ぶ。僕は同じのを、と平岡に伝える。彼女は「同じのを二つと」と、更に続けてメニューを幾つか指して注文を行った。
「適当に頼んじゃったけど良かった?」
「任せるよ」
平岡とは月に一回程度飲みに行っている所為か、大体の好みは把握されているし、僕も大体知っている。といっても、僕の場合は鶏肉であれば何でも良いので、大概のお店には何かしら置いてあるから簡単だ。この店は、炭で炙った鶏肉が絶品なのだと、以前来たときに熱弁を奮っているから、それが入っていることを願うばかりだ。
それから三十分くらいは、互いの近況とかを話して、一段落して酔いも回ってきた頃――
「……ったく! 昨日の今日でできるか、っていう話よ!」
ビールからウィスキーに移行した平岡は吐き捨てるように言った。ただし、声量は抑え目なところを見ると、分別はまだ残っているようだ。
「今日の資料って、あれ、平岡が作ったんじゃないのか?」
疑問を素直に口にすると、平岡は少し目を吊り上げる。美人がそんな顔をしては駄目だと思うのだが。今日何度目か分からない溜息を吐くと、両手を顔の位置まで挙げて、やれやれと首を振る。
「そうよ、RFP(提案依頼書)が結構アバウトだったから、ある程度柔軟な構成にして、ってそれでずっと進んでいたのよ。それが昨日になって急に上からさ」
「ああ、後半の既製パッケージの導入案な。あれ、業務フローのFit&Gapもできてないし、他とのインタフェースも実現可能性も不詳。よくあれで持っていったと思うよ。前半だけなら通っていたのかもね」
とある証券会社の基幹システムのリプレイス案件。
うちの会社は、こういっては何だが、IT業界ではそれなりに名の通った会社だ。物流、金融、小売など手広くやっている。ただし、一般認知度はほとんど無いに等しいため、人に説明するときはIT系とだけ言うことにしている。
それで、過去に実績のあって付き合いも長いところ数社にRFPが配布され、平岡がうちの会社では担当になったらしい。
「競争入札形式だからさ、いつものことなんだけど。上の連中がこそこそ動いていて、トールハンマーって知っているでしょ? そのパッケージ製品をねじ込めって、先週末になって資料渡されて、溯上に上がったという訳」
「トールハンマー」とは、うちの会社が次期主力製品と謳っているパッケージだ。名前こそ物騒だが、決め細やかな設定と、カスタマイズの柔軟さが売りだ。
ただし、ターゲットはあくまで中小企業向けで、機能もそれほど多いわけではない。
今回のように大型顧客には不向きだ。一部機能流用ならともかく、トールハンマーを前提とした構成は難しい。
「更に悪いことに、トールハンマーを作った部署の担当を捕まえられたのが一昨日の夜だったのよね……数字は全部弾き出したんだけど、根幹の部分が資料に全然反映できなくて急ごしらえもいいところよ。それが今回の顛末」
「リベンジは三週間後、つまりは年始早々と聞いたけど?」
三週間と言っても、営業日(土日祝日を除く平日)ベースで十日間しかない。その短期間で他の業務もこなしつつ、決算用の資料整備をしながら、この対案に対する評価と、ついでに当初案でも指摘があった点を修正する。
営業部総出でも難しいだろう、頭数があって解決するものでもないからだ。
「もしかして助けてくれるの?」
大きな目を真っ直ぐに向けてくる。相当飲んでいるくせに、視線にぶれは無い。
「今回の件に関わらず、うちの部署は一定規模以上の案件の立ち上げには必ず絡んでいる。 ついでに言うと、今回の件は俺がうちの部署では担当になる」
何とも言えない表情をする平岡。しかし、それも一瞬のことで、すぐに口角を上げ、楽しそうな笑みを浮かべる。
「そっか、だから今日いたんだね。でも立ち上げって、社内承認後でしょ?」
社内規定上、案件の立ち上げは社内承認に基づき始動する。それまでは営業部とそのサポート要員(大抵は技術部や直接顧客サービスを行っている部署から必要に応じて参画する)で行い、承認後に統合マネジメント部の所管に移るフローだ。
統合マネジメント部では、承認内容に基づき、必要な資材の調達を開始するとともに、全体計画の立案を行い、この過程でリーダーを選抜し、プロジェクトチームを組成する。
「今時点で、他の面子は?」
「技術部から一人と、証券開発二部から一人、それから営業部は私ともう一人」
私も含めて全員兼務だけどね、と彼女は付け加える。僕が会議後、営業部長と直属上司である田岡部長に呼び出されたのを、平岡は知っているのだろうか。
「一応聞くけど、更に助っ人が来るって話は」
「もしかして?」
期待するような目で見てくる平岡。
僕のタスクはもう年内は満杯なのですが、と部長に言ったところ『そろそろ佐藤に責任持ってやらせろ』という一言で体が少し空いた。……いや、空いてしまった。佐藤のフォローにしても、僕の一つ上の先輩を付けるというアフターケアまで万全なところを見ると、いつでも放出できるように仕込んであったに違いない。
「明日の午前中は引き継ぎがあるから、午後からになるけどね」
ひゅう、と静かな店内に音が響く。丁度、音楽の合間になったそれは、平岡が思った以上に注目を集めてしまったようで、店員さんに軽く頭を下げている。他のお客さんも一瞬こちらを見たものの、すぐに興味を失って元の会話に戻っていった。
小さくなった平岡は、それでも嬉しそうに笑っていた。
「そっか、大槻とまた組めるんだね。なんか一気に酔いが回ってきたよ」
それは今しがた喉に流し込んだウィスキーの所為に違いない。にへら、と笑う平岡は本当に営業部のエースなのだろうか。
「ね、そっち行っていい?」
2014.1.11 改訂