聖女様、星との盟約はあなたの担当ではありません。――二百十二年分の星詠み代、きっちり請求させていただきますね?
「リーゼロッテ、君との婚約を破棄する」
大広間の中央で、王太子セヴェリン・ルシエラ殿下は高らかにそう宣言なさいました。
「加えて、星詠みの任も解く。――星に祈るだけの簡単な仕事に、十二年も予算を食わせすぎた」
わたくしはまず、立会人の数を数えました。
宰相閣下以下、十一名。
結構。口頭での一方的な業務指示ですが、証人は十分です。
「リーゼロッテ様、ごめんなさい……」
殿下の腕にそっと手を添えて、蜂蜜色の巻き毛の令嬢が眉を下げました。男爵令嬢ミレーユ・ドラン。自称、聖女。
「わたし、星様の声が聞こえるんです。だから、わたしがやりますねって、言っただけで……」
(出ました。『言っただけ』。前世で何百回聞いたか分かりませんね、その枕詞)
わたくしは一礼し、腰の革帯から携帯帳面を外しました。
インク染みの指先で、日付と時刻を書き込みます。
――星暦二百十二年、霜月三日、午後四刻。星詠み職解任の通告を受領。通告者、王太子セヴェリン・ルシエラ殿下。立会十一名。
「何をしている」
「記録でございます、殿下」
「記録?」
「はい。それと、もう一点」
わたくしは背後に控えていた侍女頭マルタに合図をしました。
運ばれてきたのは、布に包まれた分厚い束です。
「引き継ぎ書類をお渡しします。盟約十二条の逐条解説、過去四千三百八十夜分の観測記録要約、署名手順書、年間の儀式日程表。計九冊」
「……は?」
「ご後任の方に、本日中にお渡しください。特に署名手順書は、今夜から必要になります」
殿下は、わたくしの手元を見もせずに笑いました。
「リーゼロッテ。君は昔から、そうやって紙ばかり抱えている」
「書式は命綱でございますので」
「星は紙では動かん。祈りで動くのだ」
ミレーユ嬢が、ふふ、と小さく笑いました。
「あの、リーゼロッテ様。星様って、たぶん、そういうの気にしてないと思うんです。心のほうが、大事だと思うので」
(心。なるほど。では、そのお心でワイバーンを止めてくださいね)
「わ、ワイバーン……? そんなの、王都に出たことなんて一度も」
「ええ。二百十二年間、一度も。――なぜだとお思いですか」
「もうよい」
殿下が手を振りました。
「殿下。念のため申し上げますが、引き継ぎは業務の一部でございます。受領していただけませんと――」
「必要ない」
殿下は手の甲で、束を払うような仕草をなさいました。
「そんな紙切れ、必要ない」
大広間に、笑いが広がりました。
わたくしは、その音をよく聞きました。何人が笑ったか。どのあたりから笑ったか。
そして、確認いたします。
「ただいまの御発言。『そんな紙切れ、必要ない』。受領拒否、ということでよろしゅうございますね」
「くどい。そうだと言っている」
「かしこまりました」
深く、頭を下げました。
顔を上げたとき、宰相ハウレン・ギーゼル閣下と目が合いました。
鉄灰色の髪の老人は、眼鏡の奥で一度だけ瞬きをし、懐から携帯帳面を取り出しました。
羽根ペンが走る音。
「記録でございます、殿下。形式ですので」
「ああ、好きにしろ。宰相はいつもそればかりだ」
「立会の皆様、ご署名を。……はい、そちらから順に。日付と時刻も添えて」
十一名が、意味も分からぬまま、順に名を書いていきます。
「あの……それ、なんのお名前ですか? みなさん、なんで書いてらっしゃるの?」
ミレーユ嬢が、首を傾げました。
「証拠でございます」と、閣下。
「しょうこ……? でも、わたし、何も悪いことしてません」
「証拠は、善悪を記しません。事実のみを記します」
(ありがとうございます、閣下。三十八年分の職業病に、心から感謝を)
わたくしは九冊の束を抱え直しました。
「お嬢様。お荷物は、わたくしが」
「いいえ。これは、わたくしが持って帰ります。……受け取っていただけませんでしたので」
扉の前で、一度だけ振り返ります。
「殿下。本日、霜月三日。星詠み職の署名権限者は、現在この国に一人も存在いたしません」
「は? いるだろう、ミレーユが」
「任命には、殿下の印による辞令が必要でございます。本日、発行されましたか」
「……後で出す」
「かしこまりました。――『後で』。承りました、そのように記録いたします」
「殿下、わたし、今夜からお祈りすればいいんですよね? ちゃんと、心を込めて」
ミレーユ嬢が、嬉しそうに言いました。
わたくしは、足を止めました。
「ミレーユ嬢。ひとつだけ、お伝えしておきます」
「は、はい……?」
「祈りは、契約行為ではございません。――署名です」
「……え? あの、意味が、よく」
「九冊目の、七ページに書いてございます。布に包まれたまま、そちらの床に置かれている束の、九冊目でございます」
「いい加減にしろ、リーゼロッテ。もう君の職ではない」
「ええ」
わたくしは、礼をいたしました。
「ですので、本日をもって、わたくしは空を守りません。――十二年間、ありがとうございました」
廊下に出て、帳面にもう一行、書き足します。
――後任辞令、未発行。『後で出す』との口頭回答あり。
(『後で』。前世でいちばん信用できなかった言葉、堂々の第一位ですね)
空は、まだ青い。
今夜も、星は出るでしょう。
誰も署名しないまま。
◇◇◇
馬車がヴァイン領の門をくぐったのは、三日後の夜でした。
「お嬢様」
玄関先で灯を掲げていたマルタは、わたくしの顔を見て、何も聞きませんでした。
代わりに、湯を沸かし、蜂蜜パンを焼き、それから一度だけ確認しました。
「今夜は、登らなくてよろしいのですね」
「ええ」
「……かしこまりました」
マルタは深く頭を下げ、厨房へ戻りました。
その夜、厨房から小さな音がしていたことを、わたくしは知っています。
知らないふりをしました。それが、たぶん礼儀でしたので。
塔の最上階。
十二年間、毎晩登った石の螺旋。冬は凍り、夏は虫が湧く。手摺りはありません。十二歳のわたくしは、三度落ちかけました。
棚には、革表紙の帳面が並んでいます。
第一巻から、第百九十二巻まで。
日付。天候。十二星霊の高度と離角。備考。そして署名。
四千三百八十夜分。一夜も、欠けていません。
「姉上」
階段の下から、弟のテオが顔を出しました。十一歳。髪は寝癖だらけ、膝には土。
手には、厨房から盗んできた蜂蜜パンが二つ。
「……食べる?」
「いただきます」
二人で床に座って、パンをかじりました。
テオは、しばらく黙っていました。
それから、唐突に言いました。
「姉上は、毎晩塔に登ってた。冬でも。ぼく、知ってる」
「ええ」
「手がしもやけだらけになっても登ってた。血が出てる日もあった。ぼく、見た」
「見られていましたか」
「あいつら、見たこともないくせに」
テオの声が、震えました。
「見たこともないくせに、簡単な仕事って言ったんだろ。予算食ってるって言ったんだろ。姉上、十二年間、給料もらってないのに」
「ええ」
「なんで怒らないんだよ!」
(怒っていますよ、テオ。
ただ、怒鳴ると記録に残らないのです。
前世で学びました。感情は証拠になりません。
書面は、なります)
わたくしは立ち上がり、空の木箱を引き寄せました。
第一巻から、順に詰めていきます。
「……姉上、何してるの」
「封をします」
「封?」
「もう、空は守りませんので」
手が、一度だけ止まりました。
十二歳の冬。初めて署名したときの、歪んだ字。
十四歳の春。熱を出して、震える手で書いた一行。
十七歳の夏。誰も褒めてくれないから、自分で『本日分、良好』と書き足した夜。
(前世のわたしなら、きっと引き継ぎ資料を作り込んで、有給も消化せずに、最後まで丁寧に辞めたでしょう。
そうやって、机に突っ伏して死んだのです。
三十一歳でした。
誰も、ありがとうとは言いませんでした)
無償の善意は、感謝にはなりません。
搾取の口実になるだけです。
十二年かけて、やっと学びました。
蝋を垂らし、ヴァイン家の印を押します。
赤い蝋が固まる音。それだけが、塔に響きました。
「姉上」
テオが、わたくしの袖を引きました。
「うん。やめていいと思う」
「……そう?」
「うん。やめていいと思う。二回言った」
わたくしは、しばらく天井を見ていました。
泣くつもりはありませんでしたので、天井を見るのが一番よいのです。前世で覚えた技術です。
「テオ。盟約書の第七条、言えますか」
「えっと……『盟約の更新は、星詠みの署名をもって成る。署名なき夜は、星霊の干渉義務を免ずる』」
「よくできました。では第十一条」
「『星詠みへの報酬未払いが三年を超えたとき、累積債務は王家の血に帰属する』」
「満点です」
わたくしは箱の蓋を閉じました。
「覚えておきなさい。星は喋りません。助けもしません。怒りもしません。
――ただ、黙って、契約通りにするだけです」
窓の外。
十二の星が、いつも通りに昇っていきます。
その第七の星の下、誰もいないはずの星見台の縁に。
銀色の、長い髪が揺れた気がしました。
「……今夜は、登ってこないのか」
風の音のような、低い声。
「……どなた? そこに、どなたかいらっしゃいますか」
返事は、ありませんでした。
瞬きをすると、もう何もいませんでした。
「……気のせい、ですね。星は、喋りませんもの」
◇◇◇
辞職してから、七日が過ぎました。
王都からは、何の連絡もありません。
(辞令、出ていませんね。それとも出したのでしょうか。どちらにせよ、こちらには一通も届いておりませんが)
正直に申し上げますと、三日目まで、夜になると勝手に目が覚めました。
身体が覚えているのです。前世でも、退職の翌週に午前六時に飛び起きました。社畜の呪いは、転生しても解けないらしい。
「リーゼ様ー!」
村の星見台――塔とは名ばかりの、石を積んだ見晴らし台です――に登ると、子どもたちが待っていました。
十二人。いちばん小さい子で六歳。
マルタが焼いた蜂蜜パンの籠を下ろすと、歓声が上がりました。
「はい、順番に。手を拭いてからです」
わたくしは、細い木の棒を配りました。目盛りが刻んであるだけの、何の変哲もない棒です。
「拳を握って、腕をいっぱいに伸ばしてごらんなさい。地平線に拳の下を合わせて、積み上げていきます。拳一つで、だいたい十度」
「じゅうど?」
「空の高さの単位です。一つ、二つ……第七星が、拳三つ半のところにありますね。これを『高度三十五度』と書きます」
テオが、自分の帳面に素早く書き込みました。得意げです。
「あのね、リーゼ様」
六歳のマリが、口の端に蜂蜜をつけたまま言いました。
「お星さまに、お願いしなくていいの? 聖女様は、お祈りするって」
わたくしは、膝をついて目線を合わせました。
「マリ。星は、喋らないの」
「しゃべらないの?」
「ええ。一度も、喋ったことがありません。わたくしは十二年、毎晩見ていましたけれど、一言も」
「じゃあ、お願いは?」
「届きません。星は、人に干渉しないと決まっているから」
マリの顔が、しゅんと曇りました。
「……冷たいね」
「そうね。冷たいかもしれません」
わたくしは、棒の先で空を指しました。
「でも、こちらが数えれば、星は必ず同じ場所にいます。約束した場所に、必ず。二百十二年、一度も間違えたことがありません」
「……へえ」
「星は喋らないの。だから、こっちが数えるの。
数えて、書いて、名前を書く。それだけで、空はずっと閉じないでいてくれる。
――それが、星詠みのお仕事です」
マリが、拳を空に突き上げました。
「ひとつ、ふたつ、みっつ……あ! みっつと、はんぶんくらい!」
「正解です。よくできました」
子どもたちが、わっと笑いました。
(ああ。十二年分の説明を、わたくしは一度も、誰にもしなかったのですね。
聞かれなかったから。
聞かれたら、こんなに簡単に話せたのに)
「リーゼ様」
テオが、袖を引きました。声を落としています。
「……王都の空、どうなるの」
「分かりません。ミレーユ嬢が、毎晩きちんと署名していれば、何も起きません」
「してると思う?」
わたくしは、答えませんでした。
代わりに、西の空を見上げました。
「数えられる人間が、十二人増えました。
――それは、この国が二百十二年かけて、一度もできなかったことです」
第七星が、やけに明るい夜でした。
◇◇◇
その夜、ミレーユ・ドランは筆を置きました。
羊皮紙の署名欄は、白いままでした。
「……だって」
彼女は、誰にともなく呟きました。
「お名前を書くだけなんて、心がこもってない気がするんだもの」
代わりに、彼女は窓辺に跪き、両手を組みました。
「星様。どうか、この国を守ってください。わたし、一生懸命です」
星は、何も言いませんでした。
怒りもしませんでした。
契約通りに、黙っていただけです。
それが、十四夜、続きました。
王都の記録によれば、空が閉じたのは霜月十七日の午後十一刻。
最初に気づいたのは、夜番の衛兵でした。
「おい……星が」
十二の星が、同時に、消えました。
雲ではありません。欠けたのでもありません。
ただ、空から抜け落ちたように、無くなりました。
次の瞬間、王都を囲む魔物避けの結界が、音もなく落ちました。
二百十二年間、誰も見たことのない光景です。
なぜなら、誰も、結界が『ある』ことすら意識したことがなかったからです。
冒険者ギルドに最初の鐘が鳴ったのは、午後十一刻半。
ギルド長ドロテア・バルクは、酒杯を取り落としました。
「北壁! 北壁の上に、何かいます!」
「何かじゃ分からん! 種類を言え!」
「わ……ワイバーンです! 群れ!」
「はあ?」
彼女は窓を蹴り開けました。
星のない夜空に、翼の影が、数え切れないほど。
「待て。ワイバーンは山岳種だぞ。平地に降りるはずが――」
言いかけて、彼女は口を閉じました。
(降りないんじゃない。降りられなかったんだ)
一晩で、ギルドに持ち込まれた緊急依頼は三百十二件。
角熊、土蜘蛛、夜鴉の群れ。ルシエラ王国の冒険者が、一度も戦ったことのない魔物たち。
夜明けまでに、彼女は四十一枚の死亡報告書を書きました。
全員、二十歳そこそこの若者でした。
インクが切れ、血のついた指で羽根ペンを削りながら、彼女はようやく、手を止めました。
「……おい。待て。じゃあ二百十二年間、誰がこれを止めてたんだ?」
一方、王宮の星詠み塔では。
「わたし、ちゃんとお祈りしたんです! 毎晩、本当に、一度も休まずに!」
「書類は」
宰相ハウレンが、眼鏡を押し上げました。
「署名は、なさいましたか」
「……お名前なんて、形だけじゃないですか」
「形でございます」
「えっ?」
「形式が、盟約の本体です。第七条。『盟約の更新は、星詠みの署名をもって成る』」
「そんなの知らないもの! 誰も教えてくれなかった! わたし、何も教わってないのに!」
部屋の隅で、九冊の束が埃をかぶっていました。
布に包まれたまま、十四日間、一度も開かれていない束が。
ハウレンは、それを一瞥し、携帯帳面に淡々と書き込みました。
――霜月十七日。空閉塞。引き継ぎ書類、未開封。
「宰相! どうすればいい!」
飛び込んできたセヴェリン殿下の髪は乱れ、鎧には煤がついていました。自ら城壁に出ていたのでしょう。それだけは、立派なことです。
「星詠みを呼べ! 代わりの者を! 誰でもいい、祈れる者を――」
「殿下」
ハウレンは、帳面を閉じました。
声に、初めて温度が乗りました。
「あの娘は、十二年間、一度も遅刻しておりません」
「……は?」
「ご存じでしたか。熱が四十度あった夜も、登っております。雪で階段が凍った夜は、這って登ったと、侍女の帳簿に残っております。軟膏代、三十七回分」
殿下は、何も言えませんでした。
「殿下が『簡単な仕事』と仰った業務の内訳でございます。――お呼びになりますか。無職の娘を」
王家の使者がヴァイン領の門を叩いたのは、翌日の夕刻でした。
応対したのは、マルタです。
「リーゼロッテ様に、火急のご用件である! 王命である、開門を!」
マルタは、布巾で手を拭きながら、門越しに言いました。
「お嬢様はただいま、無職でいらっしゃいます」
「……は?」
「無職の者に職務のご依頼は、通常、報酬の提示から始めるものと存じますが」
使者は口をぱくぱくさせました。
マルタは深々と頭を下げ、そして付け加えました。
「ああ、それと。前回の受領拒否の件がございますので、本日は書面でお持ちくださいませ。
――紙切れで、結構でございますので」
◇◇◇
王宮の大広間に、わたくしは箱を一つ持って入りました。
十四日前、九冊の束を抱えて出た、同じ扉です。
星のない昼の空は、薄い鉛色をしていました。日中ですら、光が足りないのです。
「リーゼロッテ!」
玉座の段から、セヴェリン殿下が駆け下りてきました。
「来てくれたか! 頼む、星詠みの任に戻ってくれ。今すぐに――」
「殿下」
わたくしは、一礼しました。
「三点ございます」
「……は?」
「一点目」
箱の蓋を開け、一枚の羊皮紙を取り出します。
「霜月三日より十七日まで、十四夜分の署名が欠落しております。
盟約第七条により、本盟約は『自動更新』ではなく『自動停止』の状態に入りました。
星霊は不可侵でございます。怒ってもおりませんし、助けもいたしません。
――ただ、契約通りに、何もしていないだけです」
「な……では、今からでも祈れば――」
「二点目」
わたくしは、殿下の言葉を遮りました。
生まれて初めて、王族の発言を遮りました。
「祈りは、契約行為ではございません。署名です」
「……署名」
「そして署名権限者は、殿下が十二年前にご自身の印で任命した者のみ。殿下は先日、その任を解かれましたね。
後任の辞令は、本日まで未発行。宰相府の発行台帳、第四一二八番以降が空白であることで確認済みです」
「……」
「現在、この国に署名権限者は、一人も存在いたしません」
大広間が、ざわめきました。
柱の陰で、ミレーユ嬢が泣き崩れました。
「そんなの知らないもの! 誰も教えてくれなかった! わたしは、一生懸命だったのに!」
「ミレーユ嬢」
わたくしは、静かに言いました。
「教えようとした書類は、九冊ございました。王宮の塔の隅で、十四日間、布に包まれたままだったと伺っております」
「……読めなかったの! 長いんだもの!」
「存じております」
わたくしは、三枚目の羊皮紙を取り出しました。
「三点目。
引き継ぎ書類は、確かにお渡ししようといたしました。
受領を拒否された記録は、宰相閣下以下十一名の立会署名付きで、こちらに」
羊皮紙を掲げます。
十一の署名。日付。時刻。
そして、発言の記録。
「――『そんな紙切れ、必要ない』。
議事録、残しておりますので」
殿下の顔から、色が失せました。
「待て、私は――いや、しかし――あれは、言葉の綾で――」
「口頭での発言も、立会人のある場では記録の対象でございます」
そのとき、大扉が蹴り開けられました。
血と泥にまみれた革鎧の女が、まっすぐ玉座に向かって歩いてきます。
ギルド長ドロテア・バルク。左目の傷が、灯りに光りました。
彼女は、机に報告書の束を叩きつけました。
「殿下。昨夜の死者、四十一名。全員うちの若いのです」
「ギルド長、今は――」
「で、伺いたいんですがね」
彼女は、報告書の山を指で叩きました。
「星詠みってのは、何をしてた職でしたっけ。
――『祈るだけの簡単な仕事』でしたよね?」
広間が、水を打ったように静まりました。
それまで殿下の側に立っていた貴族たちが、一人、また一人と、視線を逸らしていきます。
(ああ。これが、群衆というものですね。
十二年間、誰も見ていなかったものを、死体の数で初めて見る)
「……リーゼロッテ」
殿下の声は、掠れていました。
「頼む。戻ってくれ。金なら、いくらでも」
「では、そのお話を」
わたくしは、箱の底から、最後の束を取り出しました。
厚さ、指三本分。
「盟約第十一条。『星詠みへの報酬未払いが三年を超えたとき、累積債務は王家の血に帰属する』」
「……待て」
「初代エルナより第十七代わたくしまで、計十七名分。二百十二年分の未払い報酬でございます。
歴代星詠みはすべてヴァイン家の血族であり、相続人はわたくし一人。債権は正当に承継しております」
わたくしは、束の一枚目をめくりました。
「実費につきましても、侍女頭マルタ・ケーニヒの帳簿に十二年分。
蝋燭代、インク代、羊皮紙代、冬季毛布、しもやけ軟膏三十七回分、夜食のパン代。
領収書は、すべて保管されております」
「……いくらだ」
「元本と、年利二分の遅延損害金を合算いたしまして」
わたくしは顔を上げました。
「金貨八十万枚でございます」
誰かが、悲鳴のような息を吐きました。
王家の年間税収、六年分。
「は……払えるわけが」
「払えないのでしたら、結構です」
わたくしは、束を閉じました。
「わたくしが求めるのは、金銭ではございませんので」
「……なに?」
「二点、ご承認いただければ、債権は全額放棄いたします」
わたくしは指を二本、立てました。
「一。星詠み職の、王家からの完全独立。
二。辺境ヴァイン領への、盟約管理権の全面移管」
「それは……それでは、この国の空が、辺境伯家の手に渡るということだぞ!」
「はい」
わたくしは、まっすぐに殿下を見ました。
「十二年間、王家の管理下にございましたが、一度もご覧になりませんでしたね。
――管理とは、見ることでございます」
殿下は、膝から崩れました。
宰相ハウレンが、無表情に羽根ペンを走らせます。
「承認、ということでよろしゅうございますか、殿下」
「……」
「ご返答を。記録いたしますので」
長い沈黙のあと、掠れた声がしました。
「……承認する」
「承知いたしました。立会人、ご署名を」
今度は、誰も笑いませんでした。
二十三名が、震える手で名を書きました。
わたくしは、最後の羊皮紙を箱に納め、蓋を閉じました。
「それでは、本日より盟約の管理はヴァイン領にて執り行います。
――本日分の署名は、日没後に」
扉へ向かうわたくしの背に、ドロテア・バルクが声をかけました。
「あー……嬢ちゃん。あー、その。今まで、知らなくて、悪かった」
わたくしは、振り返りました。
「存じ上げております。誰も知りませんでしたので」
「……そういうとこだぞ、あんた」
彼女は、ぐしゃぐしゃと赤毛を掻きました。
「契約書、読み上げてくれ。全部だ。今度こそ、全部聞く」
「十二条、逐条解説込みで、四刻ほどかかりますが」
「かかれ」
わたくしは、少しだけ、笑いました。
十四日ぶりに。
◇◇◇
その夜、ヴァイン領の星見台に、わたくしは十二年ぶりに『新しい』帳面を開きました。
第百九十三巻。
日付。天候、晴。
第一星、高度十二度。第二星、二十九度。
順に書き込み、最後の欄へ。
第七星。
――そこに、人が立っていました。
腰まである銀の髪。夜明け前の群青の瞳。瞬きを、ほとんどしません。
背が高く、立ち姿は彫像のようで、ただそこにいるだけで息が詰まるほどの圧がありました。
わたくしは、羽根ペンを置きました。
「……どちら様でしょうか」
「ネフィス」
「……第七星霊、ネフィス様」
「そうだ」
声は、低く、短い。
(星霊は、人間に干渉しない。姿を見せることも、干渉に含まれるのでは?)
そう思った瞬間、彼が言いました。
「姿を見せるのは、干渉ではない。盟約第三条に、定義がある。
……干渉とは、人の行動の結果を変えることだ。見られるだけでは、何も変わらない」
「……条文を、読まれたのですか」
「読んだ」
「いつ?」
「お前が、辞めた夜から」
彼は、少しだけ目を伏せました。
「二百十二年、読んだことがなかった。……読めばよかった」
風が吹いて、彼の髪が揺れました。
「リーゼロッテ」
「はい」
「今夜は、三刻ほど遅かった」
「……は?」
「いつもは、日没後一刻で登ってくる。今夜は四刻だ」
「……王都から帰りましたので」
「そうか」
彼は頷きました。それから、言いました。
「帳面の、百八十二巻、十二ページ目。インクが滲んでいた」
「……え」
「三年前の、冬至の夜だ。手が震えていた。しもやけだった」
わたくしは、羽根ペンを取り落としました。
「七十三巻の四ページ目は、涙が落ちていた。十五の年だ。誰も、来なかった日の」
「……どうして」
「見ていた」
彼は、そう言いました。
「お前が十二のときから、ずっと。その前も。十六人分。
……七万七千四百二十夜」
星のない空のはずなのに、星見台だけが、なぜか明るい気がしました。
「……助けては、くださらなかったのですね」
「できない」
「ええ。存じております。不可侵ですので」
「……できなかった」
彼は、繰り返しました。
一度目と二度目で、言葉の重さが違いました。
「触れることも、言葉をかけることも、警告することもできない。できるのは――」
彼は、わたくしの帳面を見下ろしました。
署名欄。
その、右隣。
常に空白の、意味のない余白を。
「署名欄の隣に、同じ時刻に、立っていることだけだ」
わたくしは、言葉を失いました。
十二年間。
誰も見ていないと思っていた、あの夜のすべて。
熱を出した夜も、落ちかけた夜も、自分で『本日分、良好』と書き足した夜も。
一人ではなかったのです。
ただ、一言も、なかっただけで。
「……ネフィス様」
声が、妙に掠れました。
十二年間、一度も震えなかった声が。
「わたくしは、怒るべきでしょうか」
「……分からない」
「わたくしも、分かりません」
夜風が吹きました。
彼は、しばらく黙っていました。
それから、懐から――星霊に懐などあるのか、とは思いましたが――一枚の羊皮紙を取り出しました。
「読んだ結果だ」
「は?」
「盟約を、端から端まで読み直した。十二条、附則、例外規定、すべて。……抜け穴を探した」
「……抜け穴」
「不可侵とは、干渉の禁止だ。同居の禁止ではない」
(……は?)
「対等な契約当事者であれば、それは干渉ではない。契約の履行だ」
彼は、羊皮紙を差し出しました。
わたくしは受け取り、読み――
読んで、固まりました。
婚姻契約書でした。
十二条からなる、恐ろしく丁寧な、附則つきの。
「……ネフィス様。これは」
「対等な当事者になれば、隣に立てる。同じ家に。同じ時刻に。
――触れることも、できる」
「あの」
「二百十二年、探した」
彼は、初めて、わたくしの目を見ました。
群青の瞳が、ほんの少しだけ、揺れていました。
「見つかったのは、一つだけだった」
「……」
「……お前の帳面の、署名欄の隣が、ずっと空いていた」
(出ました。
契約書で求婚。
――前世込みで、人生で一番、刺さる口説き文句です)
わたくしは、羽根ペンを拾いました。
そして、契約書を星見台の机に広げ、灯りを引き寄せました。
「……お返事の前に、一点」
「何だ」
「第九条、解除条項。一方当事者の申し出により即時解除可能、とございますが」
「……そうだ」
「これ、わたくしに不利すぎます。修正をお願いしてもよろしいですか」
ネフィス様は、長いあいだ、黙っていました。
それから。
「……うん」
その一言だけが、異様に、柔らかい声でした。
階下から、どたどたと足音がしました。
「姉上! 蜂蜜パンが焼けた――って、誰だよこの銀髪!」
テオが、パンの皿を構えて仁王立ちになりました。
「姉上の隣に立つな! そこはぼくの場所だぞ!」
「……」
「おい、無視するな!」
「テオ。この方は、二百十二年間、ずっとそこに立っていらしたそうです」
「……え」
テオが、固まりました。
「……あんた、ずっといたの? ぼくの姉上の隣に?」
「……そうだ」
「姉上が、しもやけで泣いてたときも?」
「いた」
「……じゃあ」
テオは、皿をずいと突き出しました。
「じゃあ、ちゃんとしてよ」
階段の下から、マルタの声が上がりました。
「星霊様は、お食べになりますか」
「……食べない」
「では、置いておきます」
翌朝。
皿は、空になっていました。
◇◇◇
王都は、一年、星なき冬を越えました。
盟約の再締結は可能でしたが、停止した盟約の再起動には、十二星霊それぞれへの奉納と、三百六十五夜の連続署名が必要でした。
条文に、そう書いてあります。
「読んでいれば、分かったことでございますが」とは、宰相閣下の弁です。
セヴェリン殿下は、廃太子となりました。
弟君が王太子に立ち、彼は爵位も領地も持たぬまま、北辺の救援隊に自ら志願しました。
報告によれば、彼は凍えた手で毛布を配り、炊き出しの列に並び、夜は配給帳面をつけているそうです。
その帳面を、一度だけ見る機会がありました。
日付が抜け、数量が合わず、同じ村が二度書かれていました。
――致命的に、雑でした。
(それでも、つけてはいるのですね)
わたくしは何も言わず、書式の見本を一枚、送りました。
返事は来ませんでした。
受領の署名だけが、震えた字で返ってきました。
それで、十分です。
ミレーユ嬢は、領地に下がりました。
最後に彼女が言ったのは、こうです。
「わたしは、祈っていただけなのに」
悪意は、ありませんでした。本当に、一片も。
風の噂では、新しい村で慈善活動を始めたと聞きます。
善意で、熱心に、書類を読まずに。
――そこが、一番、救いがありません。
宰相ハウレン・ギーゼル閣下は、辞職なさいました。
三十八年分の携帯帳面が詰まった木箱を背負って、ヴァイン領の門に現れたのは、春の終わりです。
「顧問として雇っていただきたい」
「報酬は、いかほど」
「書類の閲覧権で結構です」
「……かしこまりました」
彼は今、星詠み組合の契約書審査を一手に担っております。
他国からの依頼書の不備を、一日に平均十四件、容赦なく突き返しています。
「閣下。少しお手柔らかに」
「その件は三日前にも申し上げました。議事録番号〇〇八九」
(この方、やはり同類ですね)
ヴァイン領星詠み組合は、法人化しました。
第一期生、十二人。筆頭はテオです。
「ぼく、字が下手だと契約が無効になるって姉上が」
「ならないわよ」
「でも練習する」
彼は毎晩、署名の練習を三十枚ずつしています。もう、九百枚を超えました。
マルタは事務方を仕切り、子どもたちに蜂蜜パンを焼き、ネフィス様の分も当然のように一人分出します。
「星霊様。本日は、くるみ入りでございます」
「……食べない」
「では、置いておきます」
翌朝の皿は、いつも空です。
ネフィス様は、一度もお認めになりません。
冒険者ギルドとの業務提携も、締結済みです。
ドロテア・バルク殿は、契約書の読み上げ四刻に、最後まで付き合いました。途中で三度、寝ましたが。
星見台に灯がともります。
わたくしは帳面を開きました。
第二百四巻。
日付。天候、晴。第一星、高度十一度――
「姉上、本日分、ぼくが先に測っておきました。……合ってます?」
「第五星が一度ずれていますね。やり直し」
「うえっ」
「でも、ほかは満点です」
テオが、ふふんと鼻を鳴らして階段を降りていきました。
わたくしは、最後の欄に名を書きます。
――第十七代 リーゼロッテ・ヴァイン
その右隣に、もう一つ、字が増えました。
――第七星霊 ネフィス
「本日分、受領いたしました」
「……うん」
隣に立つ人は、相変わらず瞬きが少なく、無表情で、威圧的です。
ですが、その手は、今、わたくしの手の上にあります。
冷たくはありませんでした。
星は、今夜も喋りません。
ただ、確かに、そこにいます。
◇
その夜、わたくしは古い棚を整理していて、一冊の帳面を見つけました。
革は黒く変色し、綴じ糸は切れかけています。
表紙に、一行。
――第一代 エルナ
二百十二年前の帳面です。
開いて、わたくしは息を呑みました。
書式が、同じでした。
日付、天候、高度、備考、署名。
誰に教わったわけでもない、七歳のわたくしが自分で考えたはずの様式と、一文字も違わずに。
(……どうして)
震える指で、最終ページをめくります。
最後の夜の記録。
その署名欄に、インクも褪せぬまま、一行。
――第十七代 リーゼロッテ・ヴァイン
「……ネフィス様」
振り返ると、彼は、初めて目を逸らしました。
「……エルナは」
名を口にするのを、ためらうように。
「星に恋をして、星に人を滅ぼさせかけた。だから、十二柱と交渉した。
――『もう二度と手を出さないで』と」
「それが、不可侵の盟約」
「そうだ。愛さないことで、守るという契約だ」
彼は、二百十二年分の沈黙を、ひとつ飲み込みました。
「だが、あの娘は第七条と第十一条を仕込んだ。
……後の星詠みが搾取されたときの、逃げ道と、武器を」
「干渉ではなく」
「契約で、未来に手を伸ばした」
窓の外、第七星が、ゆっくりと昇っていきます。
わたくしは、二百十二年前の署名欄を、もう一度見ました。
自分の字です。間違いなく。
(……前世の記憶を持って生まれたのは、偶然でしょうか)
(それとも、どなたかの、周到な履行でしょうか)
帳面を閉じ、わたくしは新しい一行を書き足しました。
――備考。初代帳面、最終頁に当職名義の署名を発見。要調査。
(ええ。調べます。
記録は、残っておりますので)
二百十二年分の沈黙は、まだ、終わっていません。
※ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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