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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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私が通ると、蝉が鳴きやむ

作者: 朝吹龍一朗
掲載日:2026/07/04

私が通ると、蝉が鳴きやむ。

 そう気づいたのは、祖母の通夜の翌朝だった。

 母の実家は、駅からバスで四十分ほど山へ入ったところにある。盆地の縁にへばりついたような古い集落で、夏になると、山も畑も墓地も、何もかもが蝉の声に沈む。子供のころ、私はその音が苦手だった。うるさい、というより、逃げ場がなかった。耳を塞いでも、頭の骨の中で鳴っているような気がした。

 祖母が死んだのは八月の初めだった。

 八十九歳。大往生と言っていい年齢で、親戚たちも泣くより先に、葬儀の手順や香典の額や、残された家の処分の話をしていた。私も特別な感慨があったわけではない。小学生のころは毎年のように泊まりに来ていたが、中学に上がってからは足が遠のいた。大学に入ってからは、正月に電話で声を聞く程度だった。

 祖母の声は、最後まで変わらなかった。

「暑いから、無理して来んでいい」

 それが、私が聞いた祖母の最後の言葉だった。

 通夜の翌朝、私は喪服のズボンを脱いで、白いシャツと古いジーンズに着替えた。母は台所で親戚に出す麦茶を作っていた。叔母たちは仏間で、葬儀屋から受け取った書類を広げていた。

「少し外を歩いてくる」

 母に言うと、母は振り返らずに言った。

「あんまり奥へ行かないでね」

「子供じゃないよ」

「わかってる。でも、行かないで」

 その言い方が妙に硬かったので、私はそれ以上聞かなかった。

 玄関を出ると、熱気が顔に張りついた。

 庭の柿の木にも、塀の向こうの杉にも、蝉がびっしり鳴いていた。じじじじじ、みんみんみん、しゃあしゃあしゃあ。何種類もの音が重なって、空気そのものが震えている。

 私は庭石を避けながら、門のほうへ歩いた。

 そのときだった。

 すっと、音が引いた。

 蝉が、一斉に鳴きやんだ。

 私は足を止めた。

 空気が急に軽くなった。いや、軽いのではない。抜け落ちたのだ。さっきまで耳の中を埋め尽くしていたものが、不自然に消えていた。

 風はない。葉も揺れていない。

 私は門のところで振り返った。庭も、蔵も、縁側も、白く乾いた夏の光の中で静まり返っていた。

 一匹くらい鳴いていてもよさそうなものだった。

 けれど、何も鳴いていなかった。

 私が一歩、門の外へ出る。

 とたんに、背後で蝉が鳴き出した。

 じじじじじじじじじじ。

 まるで誰かが、音のスイッチを入れ直したみたいだった。

 気のせいだと思った。

 通夜の疲れと、寝不足と、暑さのせいだと思った。

 けれど、畑へ続く細い道を歩いているあいだ、同じことが何度も起きた。

 私が道を進む。両脇の木立で鳴いていた蝉が、私の近くから順に黙る。私が通り過ぎると、背中のほうで鳴き出す。

 音が、私を避けていた。

 いや、違う。

 私のまわりだけ、夏が息を止めていた。

 集落の端には、小さな神社がある。子供のころ、そこでよく遊んだ。石段の脇に大きな楠があり、幹の根元には蝉の抜け殻がいくつも残っていた。

 その楠の前に立ったときも、蝉は鳴きやんだ。

 私は幹に手を当てた。樹皮は乾いて、ひび割れていた。指先に粉のようなものがついた。

 ふいに、後ろから声がした。

「帰ってきたんだね」

 振り返ると、石段の下に女の人が立っていた。

 最初は誰かわからなかった。麦わら帽子をかぶり、薄い作業着を着ている。年は私より少し上だろうか。日に焼けた顔に見覚えがあるような、ないような気がした。

「……佐野さん?」

 私が言うと、女の人は少し笑った。

「旧姓で呼ばれるの、久しぶり。今は中村」

「ごめん。美奈子ちゃん?」

「ちゃんはやめてよ。もう四十近いんだから」

 佐野美奈子。

 近所の家の子だった。私より三つ上で、子供のころ、夏になるとよく遊んでもらった。もっとも、遊んでもらったというより、私たち年下の面倒を押しつけられていたのかもしれない。

「お祖母さん、残念だったね」

「ありがとう」

「でも、長かったからね。最後まで家にいられたんでしょう」

「うん」

 そこで会話が途切れた。

 美奈子は私の背後の楠を見た。それから、少しだけ目を細めた。

「鳴かないね」

「え?」

「蝉」

 私は息を呑んだ。

 美奈子は、さも当たり前のことのように言った。

「昔もそうだったよね。君が通ると、蝉が鳴きやんだ」

「昔?」

「覚えてない?」

 覚えていなかった。

 少なくとも、自分ではそう思った。

 美奈子は口元を引き結んだ。何かを言いかけて、やめたようだった。

「おばあちゃんから何か聞いてない?」

「何を?」

「じゃあ、いい」

「待って。何の話?」

 美奈子は神社の奥を見た。そこには古い蔵があった。神社のものではない。昔、祖母の家の土地だった場所を町内に寄付したと聞いたことがある。蔵だけが壊されずに残っていた。

「あの蔵、まだあるんだね」

 私が言うと、美奈子は声を低くした。

「近づかないほうがいいよ」

「どうして」

「知らないなら、そのままでいい」

 美奈子はそれだけ言って、石段の横の道へ消えた。

 蝉は、まだ鳴かなかった。

 私はしばらく楠の前に立っていた。

 暑いのに、背中だけが冷えていた。

     *

 昼過ぎ、葬儀まで少し時間があいた。

 親戚たちは座敷で横になったり、近所の人から届いた煮物や果物を整理したりしていた。私は使われていない二階の部屋へ上がった。

 子供のころ、私が泊まっていた部屋だった。

 畳は新しくなっていたが、柱の傷はそのままだった。窓際には古い本棚があり、漫画や図鑑がまだ残っていた。押し入れを開けると、昔使っていた虫取り網が出てきた。柄の部分が曲がり、網はところどころ破れていた。

 奥に、古いラジカセがあった。

 灰色の、重い機械だった。再生ボタンのところに白いテープが貼ってあり、祖母の字で「強く押す」と書かれていた。

 その横に、カセットテープの箱があった。

 私は何となく手に取った。

 ラベルには、祖母の細い字で日付が書かれていた。

 平成十七年八月九日。

 平成十七年八月十日。

 平成十七年八月十一日。

 その年、私は十歳だった。

 なぜ録音していたのだろう。

 祖母は機械に強い人ではなかった。携帯電話も最後まで持たず、留守番電話の再生すら母に頼んでいた。

 けれどラベルは、何本も続いていた。

 私は八月十一日のテープをラジカセに入れた。

 コンセントを差し、再生ボタンを押す。

 しばらく、ざあっというノイズが続いた。

 やがて、蝉の声が聞こえてきた。

 懐かしい、と思った。

 今、外で鳴いているのと同じ音のはずなのに、録音された蝉の声は少し遠かった。薄い膜の向こうから聞こえるようだった。

 その中に、子供の声が混じった。

「こっちだって」

 私は、思わず息を止めた。

 自分の声だった。

 高くて、少し鼻にかかった声。忘れていたはずなのに、聞いた瞬間にわかった。

 別の子供の声がした。

「ほんとにいるの?」

「いるよ。抜け殻がいっぱいある」

「でも、怒られるよ」

「大丈夫だって。ばあちゃん、昼寝してるし」

 私はラジカセの前で膝をついた。

 声は三人分あった。

 私。

 もう一人の男の子。

 それから、少し年上の女の子。

 美奈子だ。

 テープの中で、美奈子が言った。

「やめなよ。あそこは入っちゃだめって言われてる」

 私の声が笑った。

「美奈子ちゃん、怖いんだ」

「そういうことじゃない」

「じゃあ、見てくればいいじゃん。啓ちゃん」

 啓ちゃん。

 その名前を聞いた瞬間、喉の奥が詰まった。

 啓太。

 近所の家の子だった。私と同い年で、夏のあいだだけ祖父母の家に来ていた。色が白くて、汗をかくとすぐ顔を赤くした。いつも虫かごを持っていた。蝉の抜け殻を集めるのが好きで、抜け殻の背中の割れ目を見せながら、「ここから出るんだよ」と何度も説明した。

 啓太は、その夏の終わりにいなくなった。

 そうだ。

 いなくなったのだ。

 川で流されたのだと聞いた気がする。あるいは、家に帰る途中で迷子になったのだと聞いた気もする。いや、そもそも私は、啓太のことをほとんど覚えていなかった。

 忘れていた。

 名前ごと、顔ごと、夏の中に置いてきていた。

 テープの中で、啓太が言った。

「ほんとに、王様の抜け殻があるの?」

「あるよ」

 私が言っている。

「普通のより大きいやつ。金色っぽいやつ」

「嘘だったら怒るからね」

「嘘じゃないって」

 美奈子の声が近づいた。

「だめだよ。そこ、床が腐ってるって」

 がたん、と音がした。

 板戸を開ける音だった。

 それから、空気が変わった。

 テープの中の蝉の声が、少しこもった。外ではなく、古い建物の中に入ったのだとわかった。

 私は知っていた。

 これは、神社の奥の蔵だ。

 昔は祖母の家のものだった。中には農具や古い箪笥や、使われなくなった祭りの道具がしまわれていた。土間の奥に、床板を張った小部屋があった。そこだけ妙に涼しく、夏でも湿った匂いがした。

 子供たちは、その奥を「蝉の穴」と呼んでいた。

 床下に隙間があって、そこから蝉の抜け殻がいくつも出てきたからだ。

 テープの中で、私が言った。

「入れる?」

 啓太が答えた。

「入れるよ」

 美奈子が強く言った。

「やめなって!」

「うるさいな」

 これは、私の声だった。

 私はラジカセに顔を近づけた。

 記憶の底に、薄い膜のようなものが張っていた。触れたら破れそうだった。破れたら、何かが出てくる。

 ごそごそ、という音。

 子供が狭い場所へ入っていく音。

「見える?」

 私の声。

「暗い」

 啓太の声。

「もっと奥。そこじゃない。奥のほう」

「ほんとに?」

「うん。金色のやつ」

 しばらく沈黙があった。

 いや、沈黙ではない。蝉が鳴いていた。テープの中の蝉が、狂ったように鳴いていた。

 その蝉の声が、ふいに途切れた。

 完全な無音。

 次の瞬間、どん、と鈍い音がした。

 何かが落ちた音。

 美奈子の悲鳴。

 私の荒い息。

 そして、土の下から聞こえるような、くぐもった声。

「出して」

 私は、再生ボタンを止めた。

 部屋の中が静まり返った。

 窓の外では、蝉が鳴いていなかった。

 私は、自分の手を見た。

 指が震えていた。

     *

 葬儀が終わるまで、私は何も言わなかった。

 焼香のあいだも、親戚の挨拶のあいだも、火葬場へ向かう車の中でも、頭の中で何度も同じ音が鳴っていた。

 どん。

 そのあとに続く、かすかな声。

 出して。

 出して。

 出して。

 母は私の様子に気づいていたのだと思う。帰りの車で、私の横顔を何度も見た。しかし何も聞かなかった。

 祖母の骨は小さかった。

 あんなに強かった人が、白く砕けた欠片になって箸で拾われていく。親戚の一人が、「おばあちゃん、軽くなったね」と言った。誰かが「昔から小柄だったから」と答えた。

 私は骨壺を見ていた。

 軽くなったのではない。

 人は最後に、隠してきたものを全部どこかへ置いていくのだと思った。

 その夜、親戚が帰ったあと、母と二人で台所に残った。

 外では蝉が鳴いていた。

 夜なのに、鳴いていた。

 じじじじじじ、じじじじじじ。

 窓の外は黒く、台所の蛍光灯だけが白かった。

「二階のテープ、聞いた」

 私が言うと、母の手が止まった。

 母は麦茶のポットを冷蔵庫へ入れようとしていた。扉を開けたまま、しばらく動かなかった。

「そう」

 それだけだった。

「知ってたの」

「何を」

「啓太のこと」

 母は冷蔵庫を閉めた。

 ぱたん、という音がいやに大きく響いた。

「お祖母ちゃんが死ぬ前に言ってた」

「何て」

「二階にテープがあるって。聞かせるかどうかは、私が決めればいいって」

「どうして隠してたの」

「隠したのは、私じゃない」

「じゃあ誰」

 母は私を見た。

 その目は、ひどく疲れていた。

「お祖母ちゃんよ」

「どうして」

「あなたを守るため」

 私は笑いそうになった。

 守る。

 その言葉が、あまりにも遠く感じられた。

「啓太はどうなったの」

「知らない」

「知らないわけないだろ」

「本当に知らない。少なくとも、私は見ていない」

「じゃあ、ばあちゃんは」

 母は黙った。

 外の蝉が、急に鳴きやんだ。

 台所の蛍光灯が、低く唸っていた。

「警察には、川で遊んでいるのを見た子がいるって話になった」

「誰がそんなことを」

「お祖母ちゃん」

「嘘をついたの?」

「そう」

「何で」

「だから、あなたを守るため」

「僕が、何をしたの」

 母は、その問いには答えなかった。

 代わりに、窓の外を見た。

「あなた、あの夏から変だった。蝉の声を聞くと泣いた。夜中に、床下で誰かが呼んでるって言った。何日も熱を出した。そのあと、全部忘れた」

「忘れたんじゃない」

 私は言った。

「忘れさせられたんだ」

 母はゆっくり首を振った。

「人はね、自分で忘れるのよ。忘れないと生きられないことは、自分で隠すの」

 その言葉は、妙に祖母に似ていた。

 私は椅子から立ち上がった。

「蔵に行く」

「だめ」

 母の声が鋭くなった。

「今さら行って、何になるの」

「今さらだから行くんだよ」

「もう何もない」

「何もないかどうか、見てくる」

「やめて」

 母は、私の腕を掴んだ。

 驚くほど強い力だった。

「お願い。もう終わったことにして」

 私は母の手をほどいた。

「終わってない」

 そう言った瞬間、床の下で何かが鳴いた。

 じじ。

 蝉だった。

 台所の床下から、たった一声だけ、蝉の声がした。

 母の顔から血の気が引いた。

     *

 懐中電灯を持って、私は神社へ向かった。

 夜の集落は静かだった。昼間あれほど鳴いていた蝉も、今はほとんど声を潜めている。遠くで犬が吠え、すぐに黙った。

 神社の石段を上がる。

 楠の前に立つと、風もないのに葉がざわめいた。いや、葉ではない。もっと低いところ、土の下が動いているような音だった。

 蔵は、昼間見たときより小さく見えた。

 古い木の戸には錆びた南京錠がかかっていた。けれど、金具は腐っていて、少し力を入れると外れた。

 戸を開けると、湿った匂いがした。

 懐中電灯の光が、土間を照らした。古い鍬。壊れた椅子。竹籠。布をかけられた箪笥。時間が止まったような空間だった。

 奥に、小部屋があった。

 床板は、ところどころ新しくなっていた。誰かが張り替えたのだろう。祖母だろうか。

 私は靴のまま上がった。

 床が鳴った。

 ぎし。

 その音を聞いた瞬間、記憶が戻った。

 私は十歳だった。

 暑い日だった。啓太が私の虫かごを勝手に開けて、中の蝉を逃がした。私は怒った。啓太は「蝉は閉じこめちゃだめなんだよ」と言った。私はその言い方が嫌だった。自分だけが蝉のことを知っているような顔が嫌だった。

 だから言ったのだ。

 蔵の床下に、金色の抜け殻があると。

 蝉の王様の抜け殻だと。

 啓太は信じた。

 美奈子は止めた。

 私は笑った。

 啓太は床下へ潜った。

 細い体だったから、入れた。

 そのあと、床が抜けた。

 小部屋の下には、昔の貯蔵穴があった。芋や味噌樽をしまうための、土を掘った穴。大人が見れば危ないとわかる場所だった。子供には、ただ暗い隙間に見えた。

 どん。

 啓太が落ちた。

 美奈子が叫んだ。

 私は床下を覗いた。

 暗くて何も見えなかった。

 けれど、声は聞こえた。

 出して。

 痛い。

 出して。

 私は、逃げた。

 美奈子も逃げた。

 私たちは祖母に言った。蔵で遊んでいたら、啓太がいなくなった、と。祖母は一人で蔵へ行った。私たちは庭で待っていた。

 そのとき、蝉が鳴きやんだ。

 祖母が戻ってきた。

 顔は真っ白だった。

 祖母は私の肩を掴んで言った。

「何も聞かんかったね」

 私は泣きながら頷いた。

「何も見んかったね」

 頷いた。

「蝉が鳴いとるあいだは、だれも死んどらん。そういうことにする」

 そのあと、本当に蝉が鳴き出した。

 祖母は警察に、啓太は川のほうへ走っていったと言った。近所の大人たちは川を捜した。山も捜した。けれど啓太は見つからなかった。

 蔵の床は、その数日後に直された。

 私は熱を出した。

 そして、忘れた。

 懐中電灯の光が揺れた。

 私は床に膝をつき、手で板を叩いた。

「啓太」

 声は返らなかった。

 代わりに、床下で蝉が鳴いた。

 一匹ではなかった。

 じじじじじじじじじじ。

 みんみんみんみん。

 しゃあしゃあしゃあしゃあ。

 床の下から、土の中から、壁の隙間から、蔵そのものが鳴っているようだった。

 私は耳を塞いだ。

 けれど音は止まらなかった。

 二十年分の夏が、一度に始まったみたいだった。

 その中に、声が混じった。

「見つけた?」

 子供の声だった。

 私は動けなかった。

「王様の抜け殻、見つけた?」

 啓太の声だった。

 私は床に額をつけた。

「ごめん」

 それしか言えなかった。

「ごめん、啓太。ごめん」

 蝉の声が、少しずつ小さくなっていった。

 やがて、完全に消えた。

 蔵の中は静かになった。

 私はしばらくそのまま動けなかった。

 どれくらい経ったのかわからない。

 ふいに背後で、板戸がきしんだ。

 振り返ると、入口に母が立っていた。

 その後ろに、美奈子がいた。

 美奈子は懐中電灯を持っていた。母の顔は涙で濡れていた。

「やっぱり、来たんだね」

 美奈子が言った。

「君なら来ると思った」

「美奈子さんは、覚えてたの」

「忘れられるわけない」

 その声に、責める響きはなかった。

 それがかえって苦しかった。

「どうして言わなかったの」

 私が聞くと、美奈子は床を見た。

「言ったよ。何度も。大人に。でも、子供の言うことだからって。お祖母さんが、あの子は川へ行ったって言い張ったから」

「ごめん」

「私に謝らないで」

 美奈子はそう言って、少しだけ顔を歪めた。

「謝る相手は、下にいる」

 母が口を押さえて泣いた。

 私はもう一度、床を見た。

 そこには何もなかった。

 新しい板が、ただ暗く光っていた。

     *

 翌朝、警察を呼んだ。

 母は反対しなかった。

 美奈子が近所の人に連絡した。啓太の家族は、もうこの町にはいなかった。父親は亡くなり、母親は県外の施設に入っているらしい。連絡がつくまで時間がかかる、と警察官は言った。

 蔵の床板が外された。

 そのあいだ、私は神社の楠の下に立っていた。

 朝から蝉が鳴いていた。

 けれど、私の周りだけは静かだった。

 警察官の一人が、蔵の中から出てきた。白い手袋をしていた。その手に、小さなものが乗っていた。

 蝉の抜け殻だった。

 茶色く透き通った殻。

 けれど、それは普通の抜け殻より大きく見えた。

 金色に見えた。

 私は吐きそうになった。

 警察官は何も言わず、また蔵の中へ戻っていった。

 その日の夕方、私は祖母の家を出た。

 母は残ると言った。警察の事情聴取や、啓太の家族への説明がある。私は何度も「一緒に残る」と言ったが、母は首を振った。

「あなたは一度、帰りなさい」

「逃げるみたいだ」

「逃げるんじゃない。戻れる場所があるか、確かめてきなさい」

 駅へ向かうバスの中で、私は窓の外を見ていた。

 田んぼも、山も、民家の庭も、蝉の声に満ちていた。

 ただ、バスが神社の前を通ったときだけ、音が消えた。

 乗客の誰も気づかなかった。

 気づいたのは、私だけだった。

 東京へ戻ったのは夜だった。

 駅のホームは蒸し暑く、コンクリートの熱が足元から上がってきた。都会には土が少ない。蝉の声も、山の中ほど濃くはない。街路樹の上で、申し訳程度に鳴いているだけだ。

 私は改札へ向かって歩いた。

 そのとき、ホームの端で鳴いていた蝉が、ふっと黙った。

 私は足を止めた。

 続いて、駅前の街路樹の蝉が鳴きやんだ。

 音が、私の進む先から消えていく。

 人々はスマートフォンを見ながら歩いていた。誰も気づかない。誰も、夏が私を避けていることに気づかない。

 改札を出る。

 信号を渡る。

 マンションへ向かう。

 私が歩くたびに、蝉が黙る。

 それでも私は歩いた。

 部屋に戻り、鍵を閉め、靴を脱いだ。

 エアコンをつけようとして、リモコンを探した。

 そのとき、床の下で音がした。

 じじ。

 私は動けなかった。

 この部屋は五階だ。

 床の下に、土などない。

 もう一度、音がした。

 じじじ。

 それから、子供の声がした。

「見つけた?」

 私はゆっくり床を見た。

 フローリングの継ぎ目に、小さな茶色いものが挟まっていた。

 蝉の抜け殻だった。

 背中が、ぱっくり割れていた。

 その奥で、誰かがまだ、出ようとしていた。


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