私が通ると、蝉が鳴きやむ
私が通ると、蝉が鳴きやむ。
そう気づいたのは、祖母の通夜の翌朝だった。
母の実家は、駅からバスで四十分ほど山へ入ったところにある。盆地の縁にへばりついたような古い集落で、夏になると、山も畑も墓地も、何もかもが蝉の声に沈む。子供のころ、私はその音が苦手だった。うるさい、というより、逃げ場がなかった。耳を塞いでも、頭の骨の中で鳴っているような気がした。
祖母が死んだのは八月の初めだった。
八十九歳。大往生と言っていい年齢で、親戚たちも泣くより先に、葬儀の手順や香典の額や、残された家の処分の話をしていた。私も特別な感慨があったわけではない。小学生のころは毎年のように泊まりに来ていたが、中学に上がってからは足が遠のいた。大学に入ってからは、正月に電話で声を聞く程度だった。
祖母の声は、最後まで変わらなかった。
「暑いから、無理して来んでいい」
それが、私が聞いた祖母の最後の言葉だった。
通夜の翌朝、私は喪服のズボンを脱いで、白いシャツと古いジーンズに着替えた。母は台所で親戚に出す麦茶を作っていた。叔母たちは仏間で、葬儀屋から受け取った書類を広げていた。
「少し外を歩いてくる」
母に言うと、母は振り返らずに言った。
「あんまり奥へ行かないでね」
「子供じゃないよ」
「わかってる。でも、行かないで」
その言い方が妙に硬かったので、私はそれ以上聞かなかった。
玄関を出ると、熱気が顔に張りついた。
庭の柿の木にも、塀の向こうの杉にも、蝉がびっしり鳴いていた。じじじじじ、みんみんみん、しゃあしゃあしゃあ。何種類もの音が重なって、空気そのものが震えている。
私は庭石を避けながら、門のほうへ歩いた。
そのときだった。
すっと、音が引いた。
蝉が、一斉に鳴きやんだ。
私は足を止めた。
空気が急に軽くなった。いや、軽いのではない。抜け落ちたのだ。さっきまで耳の中を埋め尽くしていたものが、不自然に消えていた。
風はない。葉も揺れていない。
私は門のところで振り返った。庭も、蔵も、縁側も、白く乾いた夏の光の中で静まり返っていた。
一匹くらい鳴いていてもよさそうなものだった。
けれど、何も鳴いていなかった。
私が一歩、門の外へ出る。
とたんに、背後で蝉が鳴き出した。
じじじじじじじじじじ。
まるで誰かが、音のスイッチを入れ直したみたいだった。
気のせいだと思った。
通夜の疲れと、寝不足と、暑さのせいだと思った。
けれど、畑へ続く細い道を歩いているあいだ、同じことが何度も起きた。
私が道を進む。両脇の木立で鳴いていた蝉が、私の近くから順に黙る。私が通り過ぎると、背中のほうで鳴き出す。
音が、私を避けていた。
いや、違う。
私のまわりだけ、夏が息を止めていた。
集落の端には、小さな神社がある。子供のころ、そこでよく遊んだ。石段の脇に大きな楠があり、幹の根元には蝉の抜け殻がいくつも残っていた。
その楠の前に立ったときも、蝉は鳴きやんだ。
私は幹に手を当てた。樹皮は乾いて、ひび割れていた。指先に粉のようなものがついた。
ふいに、後ろから声がした。
「帰ってきたんだね」
振り返ると、石段の下に女の人が立っていた。
最初は誰かわからなかった。麦わら帽子をかぶり、薄い作業着を着ている。年は私より少し上だろうか。日に焼けた顔に見覚えがあるような、ないような気がした。
「……佐野さん?」
私が言うと、女の人は少し笑った。
「旧姓で呼ばれるの、久しぶり。今は中村」
「ごめん。美奈子ちゃん?」
「ちゃんはやめてよ。もう四十近いんだから」
佐野美奈子。
近所の家の子だった。私より三つ上で、子供のころ、夏になるとよく遊んでもらった。もっとも、遊んでもらったというより、私たち年下の面倒を押しつけられていたのかもしれない。
「お祖母さん、残念だったね」
「ありがとう」
「でも、長かったからね。最後まで家にいられたんでしょう」
「うん」
そこで会話が途切れた。
美奈子は私の背後の楠を見た。それから、少しだけ目を細めた。
「鳴かないね」
「え?」
「蝉」
私は息を呑んだ。
美奈子は、さも当たり前のことのように言った。
「昔もそうだったよね。君が通ると、蝉が鳴きやんだ」
「昔?」
「覚えてない?」
覚えていなかった。
少なくとも、自分ではそう思った。
美奈子は口元を引き結んだ。何かを言いかけて、やめたようだった。
「おばあちゃんから何か聞いてない?」
「何を?」
「じゃあ、いい」
「待って。何の話?」
美奈子は神社の奥を見た。そこには古い蔵があった。神社のものではない。昔、祖母の家の土地だった場所を町内に寄付したと聞いたことがある。蔵だけが壊されずに残っていた。
「あの蔵、まだあるんだね」
私が言うと、美奈子は声を低くした。
「近づかないほうがいいよ」
「どうして」
「知らないなら、そのままでいい」
美奈子はそれだけ言って、石段の横の道へ消えた。
蝉は、まだ鳴かなかった。
私はしばらく楠の前に立っていた。
暑いのに、背中だけが冷えていた。
*
昼過ぎ、葬儀まで少し時間があいた。
親戚たちは座敷で横になったり、近所の人から届いた煮物や果物を整理したりしていた。私は使われていない二階の部屋へ上がった。
子供のころ、私が泊まっていた部屋だった。
畳は新しくなっていたが、柱の傷はそのままだった。窓際には古い本棚があり、漫画や図鑑がまだ残っていた。押し入れを開けると、昔使っていた虫取り網が出てきた。柄の部分が曲がり、網はところどころ破れていた。
奥に、古いラジカセがあった。
灰色の、重い機械だった。再生ボタンのところに白いテープが貼ってあり、祖母の字で「強く押す」と書かれていた。
その横に、カセットテープの箱があった。
私は何となく手に取った。
ラベルには、祖母の細い字で日付が書かれていた。
平成十七年八月九日。
平成十七年八月十日。
平成十七年八月十一日。
その年、私は十歳だった。
なぜ録音していたのだろう。
祖母は機械に強い人ではなかった。携帯電話も最後まで持たず、留守番電話の再生すら母に頼んでいた。
けれどラベルは、何本も続いていた。
私は八月十一日のテープをラジカセに入れた。
コンセントを差し、再生ボタンを押す。
しばらく、ざあっというノイズが続いた。
やがて、蝉の声が聞こえてきた。
懐かしい、と思った。
今、外で鳴いているのと同じ音のはずなのに、録音された蝉の声は少し遠かった。薄い膜の向こうから聞こえるようだった。
その中に、子供の声が混じった。
「こっちだって」
私は、思わず息を止めた。
自分の声だった。
高くて、少し鼻にかかった声。忘れていたはずなのに、聞いた瞬間にわかった。
別の子供の声がした。
「ほんとにいるの?」
「いるよ。抜け殻がいっぱいある」
「でも、怒られるよ」
「大丈夫だって。ばあちゃん、昼寝してるし」
私はラジカセの前で膝をついた。
声は三人分あった。
私。
もう一人の男の子。
それから、少し年上の女の子。
美奈子だ。
テープの中で、美奈子が言った。
「やめなよ。あそこは入っちゃだめって言われてる」
私の声が笑った。
「美奈子ちゃん、怖いんだ」
「そういうことじゃない」
「じゃあ、見てくればいいじゃん。啓ちゃん」
啓ちゃん。
その名前を聞いた瞬間、喉の奥が詰まった。
啓太。
近所の家の子だった。私と同い年で、夏のあいだだけ祖父母の家に来ていた。色が白くて、汗をかくとすぐ顔を赤くした。いつも虫かごを持っていた。蝉の抜け殻を集めるのが好きで、抜け殻の背中の割れ目を見せながら、「ここから出るんだよ」と何度も説明した。
啓太は、その夏の終わりにいなくなった。
そうだ。
いなくなったのだ。
川で流されたのだと聞いた気がする。あるいは、家に帰る途中で迷子になったのだと聞いた気もする。いや、そもそも私は、啓太のことをほとんど覚えていなかった。
忘れていた。
名前ごと、顔ごと、夏の中に置いてきていた。
テープの中で、啓太が言った。
「ほんとに、王様の抜け殻があるの?」
「あるよ」
私が言っている。
「普通のより大きいやつ。金色っぽいやつ」
「嘘だったら怒るからね」
「嘘じゃないって」
美奈子の声が近づいた。
「だめだよ。そこ、床が腐ってるって」
がたん、と音がした。
板戸を開ける音だった。
それから、空気が変わった。
テープの中の蝉の声が、少しこもった。外ではなく、古い建物の中に入ったのだとわかった。
私は知っていた。
これは、神社の奥の蔵だ。
昔は祖母の家のものだった。中には農具や古い箪笥や、使われなくなった祭りの道具がしまわれていた。土間の奥に、床板を張った小部屋があった。そこだけ妙に涼しく、夏でも湿った匂いがした。
子供たちは、その奥を「蝉の穴」と呼んでいた。
床下に隙間があって、そこから蝉の抜け殻がいくつも出てきたからだ。
テープの中で、私が言った。
「入れる?」
啓太が答えた。
「入れるよ」
美奈子が強く言った。
「やめなって!」
「うるさいな」
これは、私の声だった。
私はラジカセに顔を近づけた。
記憶の底に、薄い膜のようなものが張っていた。触れたら破れそうだった。破れたら、何かが出てくる。
ごそごそ、という音。
子供が狭い場所へ入っていく音。
「見える?」
私の声。
「暗い」
啓太の声。
「もっと奥。そこじゃない。奥のほう」
「ほんとに?」
「うん。金色のやつ」
しばらく沈黙があった。
いや、沈黙ではない。蝉が鳴いていた。テープの中の蝉が、狂ったように鳴いていた。
その蝉の声が、ふいに途切れた。
完全な無音。
次の瞬間、どん、と鈍い音がした。
何かが落ちた音。
美奈子の悲鳴。
私の荒い息。
そして、土の下から聞こえるような、くぐもった声。
「出して」
私は、再生ボタンを止めた。
部屋の中が静まり返った。
窓の外では、蝉が鳴いていなかった。
私は、自分の手を見た。
指が震えていた。
*
葬儀が終わるまで、私は何も言わなかった。
焼香のあいだも、親戚の挨拶のあいだも、火葬場へ向かう車の中でも、頭の中で何度も同じ音が鳴っていた。
どん。
そのあとに続く、かすかな声。
出して。
出して。
出して。
母は私の様子に気づいていたのだと思う。帰りの車で、私の横顔を何度も見た。しかし何も聞かなかった。
祖母の骨は小さかった。
あんなに強かった人が、白く砕けた欠片になって箸で拾われていく。親戚の一人が、「おばあちゃん、軽くなったね」と言った。誰かが「昔から小柄だったから」と答えた。
私は骨壺を見ていた。
軽くなったのではない。
人は最後に、隠してきたものを全部どこかへ置いていくのだと思った。
その夜、親戚が帰ったあと、母と二人で台所に残った。
外では蝉が鳴いていた。
夜なのに、鳴いていた。
じじじじじじ、じじじじじじ。
窓の外は黒く、台所の蛍光灯だけが白かった。
「二階のテープ、聞いた」
私が言うと、母の手が止まった。
母は麦茶のポットを冷蔵庫へ入れようとしていた。扉を開けたまま、しばらく動かなかった。
「そう」
それだけだった。
「知ってたの」
「何を」
「啓太のこと」
母は冷蔵庫を閉めた。
ぱたん、という音がいやに大きく響いた。
「お祖母ちゃんが死ぬ前に言ってた」
「何て」
「二階にテープがあるって。聞かせるかどうかは、私が決めればいいって」
「どうして隠してたの」
「隠したのは、私じゃない」
「じゃあ誰」
母は私を見た。
その目は、ひどく疲れていた。
「お祖母ちゃんよ」
「どうして」
「あなたを守るため」
私は笑いそうになった。
守る。
その言葉が、あまりにも遠く感じられた。
「啓太はどうなったの」
「知らない」
「知らないわけないだろ」
「本当に知らない。少なくとも、私は見ていない」
「じゃあ、ばあちゃんは」
母は黙った。
外の蝉が、急に鳴きやんだ。
台所の蛍光灯が、低く唸っていた。
「警察には、川で遊んでいるのを見た子がいるって話になった」
「誰がそんなことを」
「お祖母ちゃん」
「嘘をついたの?」
「そう」
「何で」
「だから、あなたを守るため」
「僕が、何をしたの」
母は、その問いには答えなかった。
代わりに、窓の外を見た。
「あなた、あの夏から変だった。蝉の声を聞くと泣いた。夜中に、床下で誰かが呼んでるって言った。何日も熱を出した。そのあと、全部忘れた」
「忘れたんじゃない」
私は言った。
「忘れさせられたんだ」
母はゆっくり首を振った。
「人はね、自分で忘れるのよ。忘れないと生きられないことは、自分で隠すの」
その言葉は、妙に祖母に似ていた。
私は椅子から立ち上がった。
「蔵に行く」
「だめ」
母の声が鋭くなった。
「今さら行って、何になるの」
「今さらだから行くんだよ」
「もう何もない」
「何もないかどうか、見てくる」
「やめて」
母は、私の腕を掴んだ。
驚くほど強い力だった。
「お願い。もう終わったことにして」
私は母の手をほどいた。
「終わってない」
そう言った瞬間、床の下で何かが鳴いた。
じじ。
蝉だった。
台所の床下から、たった一声だけ、蝉の声がした。
母の顔から血の気が引いた。
*
懐中電灯を持って、私は神社へ向かった。
夜の集落は静かだった。昼間あれほど鳴いていた蝉も、今はほとんど声を潜めている。遠くで犬が吠え、すぐに黙った。
神社の石段を上がる。
楠の前に立つと、風もないのに葉がざわめいた。いや、葉ではない。もっと低いところ、土の下が動いているような音だった。
蔵は、昼間見たときより小さく見えた。
古い木の戸には錆びた南京錠がかかっていた。けれど、金具は腐っていて、少し力を入れると外れた。
戸を開けると、湿った匂いがした。
懐中電灯の光が、土間を照らした。古い鍬。壊れた椅子。竹籠。布をかけられた箪笥。時間が止まったような空間だった。
奥に、小部屋があった。
床板は、ところどころ新しくなっていた。誰かが張り替えたのだろう。祖母だろうか。
私は靴のまま上がった。
床が鳴った。
ぎし。
その音を聞いた瞬間、記憶が戻った。
私は十歳だった。
暑い日だった。啓太が私の虫かごを勝手に開けて、中の蝉を逃がした。私は怒った。啓太は「蝉は閉じこめちゃだめなんだよ」と言った。私はその言い方が嫌だった。自分だけが蝉のことを知っているような顔が嫌だった。
だから言ったのだ。
蔵の床下に、金色の抜け殻があると。
蝉の王様の抜け殻だと。
啓太は信じた。
美奈子は止めた。
私は笑った。
啓太は床下へ潜った。
細い体だったから、入れた。
そのあと、床が抜けた。
小部屋の下には、昔の貯蔵穴があった。芋や味噌樽をしまうための、土を掘った穴。大人が見れば危ないとわかる場所だった。子供には、ただ暗い隙間に見えた。
どん。
啓太が落ちた。
美奈子が叫んだ。
私は床下を覗いた。
暗くて何も見えなかった。
けれど、声は聞こえた。
出して。
痛い。
出して。
私は、逃げた。
美奈子も逃げた。
私たちは祖母に言った。蔵で遊んでいたら、啓太がいなくなった、と。祖母は一人で蔵へ行った。私たちは庭で待っていた。
そのとき、蝉が鳴きやんだ。
祖母が戻ってきた。
顔は真っ白だった。
祖母は私の肩を掴んで言った。
「何も聞かんかったね」
私は泣きながら頷いた。
「何も見んかったね」
頷いた。
「蝉が鳴いとるあいだは、だれも死んどらん。そういうことにする」
そのあと、本当に蝉が鳴き出した。
祖母は警察に、啓太は川のほうへ走っていったと言った。近所の大人たちは川を捜した。山も捜した。けれど啓太は見つからなかった。
蔵の床は、その数日後に直された。
私は熱を出した。
そして、忘れた。
懐中電灯の光が揺れた。
私は床に膝をつき、手で板を叩いた。
「啓太」
声は返らなかった。
代わりに、床下で蝉が鳴いた。
一匹ではなかった。
じじじじじじじじじじ。
みんみんみんみん。
しゃあしゃあしゃあしゃあ。
床の下から、土の中から、壁の隙間から、蔵そのものが鳴っているようだった。
私は耳を塞いだ。
けれど音は止まらなかった。
二十年分の夏が、一度に始まったみたいだった。
その中に、声が混じった。
「見つけた?」
子供の声だった。
私は動けなかった。
「王様の抜け殻、見つけた?」
啓太の声だった。
私は床に額をつけた。
「ごめん」
それしか言えなかった。
「ごめん、啓太。ごめん」
蝉の声が、少しずつ小さくなっていった。
やがて、完全に消えた。
蔵の中は静かになった。
私はしばらくそのまま動けなかった。
どれくらい経ったのかわからない。
ふいに背後で、板戸がきしんだ。
振り返ると、入口に母が立っていた。
その後ろに、美奈子がいた。
美奈子は懐中電灯を持っていた。母の顔は涙で濡れていた。
「やっぱり、来たんだね」
美奈子が言った。
「君なら来ると思った」
「美奈子さんは、覚えてたの」
「忘れられるわけない」
その声に、責める響きはなかった。
それがかえって苦しかった。
「どうして言わなかったの」
私が聞くと、美奈子は床を見た。
「言ったよ。何度も。大人に。でも、子供の言うことだからって。お祖母さんが、あの子は川へ行ったって言い張ったから」
「ごめん」
「私に謝らないで」
美奈子はそう言って、少しだけ顔を歪めた。
「謝る相手は、下にいる」
母が口を押さえて泣いた。
私はもう一度、床を見た。
そこには何もなかった。
新しい板が、ただ暗く光っていた。
*
翌朝、警察を呼んだ。
母は反対しなかった。
美奈子が近所の人に連絡した。啓太の家族は、もうこの町にはいなかった。父親は亡くなり、母親は県外の施設に入っているらしい。連絡がつくまで時間がかかる、と警察官は言った。
蔵の床板が外された。
そのあいだ、私は神社の楠の下に立っていた。
朝から蝉が鳴いていた。
けれど、私の周りだけは静かだった。
警察官の一人が、蔵の中から出てきた。白い手袋をしていた。その手に、小さなものが乗っていた。
蝉の抜け殻だった。
茶色く透き通った殻。
けれど、それは普通の抜け殻より大きく見えた。
金色に見えた。
私は吐きそうになった。
警察官は何も言わず、また蔵の中へ戻っていった。
その日の夕方、私は祖母の家を出た。
母は残ると言った。警察の事情聴取や、啓太の家族への説明がある。私は何度も「一緒に残る」と言ったが、母は首を振った。
「あなたは一度、帰りなさい」
「逃げるみたいだ」
「逃げるんじゃない。戻れる場所があるか、確かめてきなさい」
駅へ向かうバスの中で、私は窓の外を見ていた。
田んぼも、山も、民家の庭も、蝉の声に満ちていた。
ただ、バスが神社の前を通ったときだけ、音が消えた。
乗客の誰も気づかなかった。
気づいたのは、私だけだった。
東京へ戻ったのは夜だった。
駅のホームは蒸し暑く、コンクリートの熱が足元から上がってきた。都会には土が少ない。蝉の声も、山の中ほど濃くはない。街路樹の上で、申し訳程度に鳴いているだけだ。
私は改札へ向かって歩いた。
そのとき、ホームの端で鳴いていた蝉が、ふっと黙った。
私は足を止めた。
続いて、駅前の街路樹の蝉が鳴きやんだ。
音が、私の進む先から消えていく。
人々はスマートフォンを見ながら歩いていた。誰も気づかない。誰も、夏が私を避けていることに気づかない。
改札を出る。
信号を渡る。
マンションへ向かう。
私が歩くたびに、蝉が黙る。
それでも私は歩いた。
部屋に戻り、鍵を閉め、靴を脱いだ。
エアコンをつけようとして、リモコンを探した。
そのとき、床の下で音がした。
じじ。
私は動けなかった。
この部屋は五階だ。
床の下に、土などない。
もう一度、音がした。
じじじ。
それから、子供の声がした。
「見つけた?」
私はゆっくり床を見た。
フローリングの継ぎ目に、小さな茶色いものが挟まっていた。
蝉の抜け殻だった。
背中が、ぱっくり割れていた。
その奥で、誰かがまだ、出ようとしていた。




