表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

壊れた国のアリス(短編ver.)

作者: 茗子
掲載日:2026/06/07


 有栖ありすねねの心は、油切れを起こして摩耗した歯車に似ていた。

 窓のない薄暗い時計修理工房。換気扇の低い唸り声だけが響く密室で、彼女は息を殺し、極小の部品をピンセットで掴んでいた。


『カチッ……』


 微かな音を立ててゼンマイが噛み合い、止まっていた時計の秒針が再び動き出す。

 本来なら、職人として最も報われる瞬間のはずだった。

 しかし、ねねの表情に喜びは一切浮かばない。

 彼女の瞳はとっくに光を失い、まるで自分自身が機械の一部になってしまったかのように無機質だった。


「お前の代わりなんて、いくらでもいるんだからな! さっさと次のロットに手を動かせ!」


 背後から容赦なく浴びせられる上司の怒声。

 ねねはビクッと肩を揺らすと、油と煤に汚れた手を膝の上に置き、深く頭を下げた。


「はい。申し訳ありません」


 休日はおろか、まともな睡眠時間すら与えられないブラック企業。ここでねねは、ひたすらに壊れた時計を直し続けるだけの毎日を送っていた。

 どれほど完璧な仕事を見せても、感謝されることはない。少しでも作業が遅れれば「役立たず」と罵られ、存在価値を根本から否定される。


(私がいなくなっても、この店は何も変わらない。代わりの部品がはめ込まれるだけだもの……)


 誰からも必要とされない。自分の代わりなど、この世界にはいくらでもいる。

 長きにわたる否定の言葉は、ねねの自己肯定感を根こそぎ奪い去っていた。


 「誰かに必要とされている」という実感にしがみついていなければ、自分が生きている意味すら見失ってしまいそうなほど、彼女の心はボロボロに壊れていたのだ。

 空虚な絶望が胸の奥を黒く塗りつぶしていくのを感じながら、ねねはルーペ越しに次の時計の基盤を睨みつけた。

 視界がぐにゃりと歪んだのは、三日連続となる徹夜作業の最中だった。


『プツン』


 頭の中で、張り詰めていた糸が切れるような嫌な音がした。


 次の瞬間、抗いようのない目眩が彼女を襲う。


「あ……」


 声にならない悲鳴を上げる間もなく、ねねの意識は深い泥底へと沈み込み――そのまま、底なしの暗闇へと真っ逆さまに落下していった。




 むせるような鉄錆の匂いと、ねっとりとした生温かい風。


 次にねねが重い瞼を開けたとき、視界に飛び込んできたのは、不気味な赤黒い空と、見渡す限りのガラクタの山だった。


「……え? どこ、ここ」


 ゆっくりと体を起こすと、そこはスラム街のような汚れた路地裏だった。

 周囲には、見たこともない形状のぜんまい仕掛けの馬車がひっくり返り、奇妙な動物の耳を生やした人々が虚ろな目で通り過ぎていく。

 誰も彼もが焦点の合わない瞳をしており、まともな会話が成立しそうな空気ではない。


 混乱する頭で状況を整理しようとしたねねの目に、剥がれかけた一枚の古い張り紙が映った。


『ハートの女王の法に逆らう者、すなわち正気を保つ者は、直ちにトランプ兵により消去される』 


 狂気じみた文章。常識が一切通用しない、絵本の中のような異常な世界。


 普通ならパニックを起こして泣き叫ぶところだろう。


 夢だと思い込もうと現実逃避をするか、絶望して座り込むのが当たり前の反応だ。


 しかし、ねねの心には、泣き喚いたり絶望したりするだけのエネルギーすら残っていなかった。

 異常な事態を前にしても、ひどく麻痺した彼女の脳に浮かんだのは、ブラック企業で染み付いた強迫観念だけだった。 


(休んだら、また怒られる……。何か、手を動かさなきゃ……)


 理不尽な状況でも、とにかく役に立たなければ捨てられてしまう。

 そんな呪いのような考えに急き立てられるように、ねねは泥だらけの地面からふらふらと立ち上がった。

 ふと足元を見ると、誰かに捨てられ、壊れたまま放置されている真鍮の歯車が転がっていた。

 ねねはそれを拾い上げ、油に塗れた自分の指先を見つめる。

 上司の「お前の代わりなどいくらでもいる」という冷たい声が蘇った。


(ここなら……)


 見渡す限りのガラクタの山。

 ここで誰かの壊れたものを直していれば、ほんの少しでも「誰かの役に立つ」ことができるかもしれない。

 誰かに「お前が必要だ」と、代わりのきかない存在として認めてもらえるかもしれない。

 生きる意味を失った心が、すがるようにその歪んだ渇望へと手を伸ばす。

 ねねは無表情のまま、泥だらけの指で真鍮の歯車をぎゅっと握りしめた。


「……工具代わりになるものを、探さなきゃ」


 拾い上げた歯車をポケットにしまい込み、ねねは路地裏に転がるガラクタの山へと歩き出す。

 赤黒く淀んだ空の下。彼女はただひたすらに、自分が直せる『壊れたもの』を探し始めた。

 



不思議の国に落ちてから数週間。


 ねねは、赤黒い空の下に広がるスラム街の片隅で、今日も油と泥にまみれていた。


『ギギ……カチッ、ルルルル……』


 錆びついたオルゴールが、不格好ながらもたどたどしいメロディを奏で始める。


 ねねが即席で作った小さなドライバーを置くと、それを見守っていた犬の耳を持つ獣人の少年が、パァッと顔を輝かせた。


「すげえ! 直った! ありがとな、ねーちゃん!」


「ふふ、どういたしまして。ゼンマイが少し歪んでただけだから、大事に使ってね」


 少年が差し出した銅貨を数枚受け取り、ねねは泥だらけの顔で微笑んだ。


 ここでの生活は過酷だ。食べ物は硬いパンと得体の知れないスープばかりだし、寝床は隙間風だらけの廃屋である。現代日本の生活水準と比べれば、天と地ほどの差があった。

 それでも、ねねの心は以前よりもずっと穏やかだった。


(私の直したもので、誰かが笑ってくれる……。私でも、少しは役に立てるんだ)


 代わりのきく歯車として扱われ、役立たずと罵られ続けた現代社会。それに比べれば、感謝の言葉と共に銅貨をもらえるこのスラムの路地裏は、ねねにとって精神的な天国と言っても過言ではなかった。


「……おい。お前、またそんなガラクタ直してんのか。殺されてえのか」


 ふいに、頭上から地を這うような低い声が降ってきた。

 ビクッと肩を跳ねさせて見上げると、崩れかけたレンガ塀の上に、見事な銀髪と猫の耳を持った青年がしゃがみ込んでいる。

 スラムの顔役であり、傭兵稼業をしている獣人――チェシャだった。

 彼は鋭い金色の眼光でねねを射抜くと、音もなく塀から飛び降り、ずかずかと大股で近付いてきた。


「ひっ……!」


 間近で見ると、長身で無駄のない筋肉質な身体は威圧感の塊だった。

 ねねは思わず後ずさり、護身用のつもりで純銀のドライバーを両手で構えてしまう。


 すると、チェシャは金色の瞳をさらに細め、不機嫌の極みのような低い声を出した。


「……そんなモノ向けやがって、なめてんのか」


「ひぃっ、すすす、すみません!!」


 ぐるるる、と喉を奥で鳴らすようなドスのある声に、ねねは慌ててドライバーを放り投げ、万歳の姿勢を取ってしまった。


「ちっ、るせえな。喚くな」


「も、申し訳ありません……っ」


「何度も言わせんな。いいか泥ネズミ、ここは『ハートの女王』の領土だ。あいつは狂気を愛し、秩序を憎む。壊れたものを『正しく直す』なんてのは、この国じゃ立派な反逆罪なんだよ」


 チェシャは苛立たしげに舌打ちをしながら、ねねの足元に転がっている巨大な物体を顎で示した。

 それは、ねねが昨日の夜、ゴミ山の中から拾い出してきた巨大な真鍮製の歯車だった。人間ほどの大きさがあり、表面には複雑な幾何学模様と、魔力を帯びた美しい意匠が施されている。

 しかし、中心の軸が完全に歪み、いくつもの歯が欠けてしまっていた。


「お前が直そうとしてるそれ、ただのガラクタじゃねぇぞ。この世界の狂気を制御するための『魔法の歯車』の残骸だ。そんなもん直して女王のシステムに検知でもされたら、それこそ処刑兵トランプのデカい斧で真っ二つにされるぞ」


「ええっ!? そ、そんな物騒なものなんですか!?」


 ねねが慌てて歯車から距離を取ると、チェシャは「分かったらさっさと帰れ」とばかりに、ねねの油と泥に汚れた腕を、無造作にガシッと素手で掴んだ。


「ほら、行くぞ」


「ちょ、待って、わわ……!」


「こんなきったねえ場所でいつまでも油売ってんじゃねえよ。臭せえしな」


 泥も汚れも一切気にせず、乱暴な手つきでねねを立たせようとするチェシャ。口は悪く態度も最悪だが、彼なりにねねを危険から遠ざけようとしてくれているのは明らかだっだ。


 しかし――彼女の職人としての目は、すでにその歯車の構造の美しさにすっかり魅了されてしまっていた。


(でも……構造自体は現代の時計の脱進機にすごく似てる。軸の歪みを補正して、欠けた歯を別の金属で補えば、きっとまた綺麗に回るはずなのに……)


「あの、チェシャさん! 私、もう少しだけこれを見ていたいです!」


「……あ? お前、俺の話聞いてたか?」


「少しだけ! あと少しだけ、軸の歪みを見てみるだけだから!」


 ねねが強引に腕を振りほどくと、チェシャは信じられないものを見るような目でねねを見下ろし、やがて深く、ひどく苛立った溜め息を吐いた。


「……勝手にしろ。死んでも知らねえからな」


 そう吐き捨てながらも、チェシャはその場を離れず、腕を組んで壁に寄りかかり、鋭い視線で周囲を警戒し始めた。

 壊れたものを、そのままにしておけない。

 それは、ねねの魂に深く刻み込まれた職人のサガだった。

 ねねは工具を手に取り、再び巨大な歯車に向き直った。

 ――そこからの時間は、ねねにとって至福だった。

 日本の物理法則と時計職人としての緻密な計算。指先から伝わる金属の重みと、油の匂い。歪んだ軸を慎重に叩いて補正し、欠けた歯の代わりに真鍮の破片を噛ませていく。

 息を詰め、世界に自分とこの歯車しか存在しないような極度の集中の末。

 ねねが自作のハンマーで、補強した最後のパーツをコンッと叩き込んだ、その時だった。


『カァァァァンッ……!!』


 突如、巨大な歯車が眩い黄金の光を放ち、澄んだ音を立てて滑らかに回転し始めた。

 完璧な修復。狂っていた魔力の流れが整い、周囲の赤黒い空気が一瞬だけ清浄なものへと書き換わる。

 自分の手で、完全に死んでいた機械に命を吹き込んだ。その圧倒的な達成感と自己肯定感が、ねねの胸を満たそうとした。


「やった……! 直っ――」


 しかし。

 ねねが歓喜の声を上げかけた瞬間、その達成感は、脳髄を直接削るような悍ましいサイレンによって無残に引き裂かれた。


『警告。スラム第十三区画にて、重大なエラーを検知。これより、異物の排除を実行する』 


 無機質な機械音声が響き渡ると同時に、ねねの周囲の空間がぐにゃりと歪んだ。

 空間の裂け目から現れたのは、身の丈2メートルを超える、トランプの意匠を組み込んだ重装甲の兵士たちだった。彼らの手には、ねねの胴体ほどもある巨大な処刑用の斧が握られている。


(う、嘘……っ!?)


 チェシャの忠告は本当だったのだ。

 冷酷な宣告と共に、逃げ場のない路地裏で巨大な斧がねねの頭上高く振り上げられる。死の恐怖に心臓が凍りつき、ねねは悲鳴すら上げられずに地面に這いつくばった。


「ちっ、だから言っただろうが!!」


 怒号と共に、チェシャがねねの前に飛び出してきた。彼は背中に背負っていた無骨な大剣を引き抜き、トランプ兵の巨大な斧を真正面から受け止める。

 火花が散り、獣人の強靭な筋力をもってしても、チェシャの足元の石畳がひび割れた。


「おい泥ネズミ! さっさと逃げ――」


 チェシャが叫ぼうとした、その時だった。


『パチンッ』


 軽快な指鳴らしの音が、路地裏に響き渡った。


 直後、チェシャと鍔迫り合いをしていたトランプ兵を含め、周囲を取り囲んでいた数十体の兵士たちが、まるで砂の城が崩れるようにサラサラと崩壊し、跡形もなく消滅してしまったのだ。


「……は?」


「……え?」


 チェシャが警戒して剣を構え直し、ねねが恐る恐る目を開けた鼻腔を。

 ふわりと、極上の紅茶と薔薇の香りがくすぐった。

 突如としてスラムの路地裏に現れたのは、この薄汚れた景色には不釣り合いすぎるほど豪奢な、漆黒の馬車だった。


 そして、その馬車の前に立っていたのは――一人の、息を呑むほどに美しい人物だった。

 長身を包むのは、最高級のベルベットで仕立てられたフロックコート。銀糸のような長い髪が風に揺れ、深紅の瞳が、地面に座り込むねねを見下ろしている。


(綺麗な、人……)


 ねねは呆然とその姿を見上げた。

 しかし、ねねを見下ろす男の深紅の瞳には、一切の感情が浮かんでいなかった。

 哀れみも、興味も、怒りすらもない。そこにあるのは、ただ路地裏を這い回る醜い羽虫を見つめるような、絶対的な無関心と氷点下の冷酷さだけ。

 言葉を交わす価値すらない命だと、その視線だけで死刑宣告されているような錯覚を覚えた。


「やだァ。……どこから湧いたのよ、この見事な薄汚いブスは。私の視界が汚れるじゃない」


 優雅な、しかし絶対的な見下しを含んだ言葉。

 チェシャの粗野な威圧感とは次元が違う、世界そのものを支配する絶対者の気配に射すくめられ、ねねはガタガタと震えながら縮こまった。


「あ、はい、すみません……」


 その時、残っていたもう一体のトランプ兵が、システムのプロトコルに従って男へと無機質な声を向けた。


「エリオット様。彼女は女王の法に背いた反逆者です。直ちに引き渡しを――」


 ――空気が、物理的な重さを持って凍りついた。

 トランプ兵が口にした『エリオット』という名。それは、この世界において絶対に口にしてはならない、彼が人間であった頃の禁忌の本名だった。

 男から芝居がかった態度が消え失せ、冷酷な本性が完全に剥き出しになる。


「……誰が、その名で呼んでいいと言った?」


 地を這うような、低く冷酷な男の声。

 先ほどまでの優雅さは微塵もない。空間そのものを圧殺するような圧倒的な殺気と魔力が路地裏を制圧し、チェシャでさえも息を呑んで剣を握り直した。

 男がひどく退屈そうに目を細め、虫でも払うように軽く指を振るう。


『ギシッ……バツンッ!!』


 悲鳴を上げる暇すらなかった。トランプ兵の装甲が内側からひしゃげ、空間そのものから削り取られるように完全消去された。

 絶対的な暴力と、命を命とも思わない冷酷さ。それが、この男の本当の姿だった。

 静まり返った路地裏で、男――不思議の国の支配者・エリーはゆっくりとねねに向き直る。

 這いつくばるねねを氷点下の瞳で見下ろした彼は、ふっと息を吐き、再び仮面を被り直した。


「……まったく、忌々しい連中ねェ。ところで、そこの小汚いブス!」


 エリーはねねの胸ぐらを乱暴に掴み、自分の顔のすぐ近くまで引き上げた。

 紅茶の香りがねねを包み込む。彼の深紅の瞳は、やはりねねをただの「汚い塵」としか見ていない。


「アァタが勝手にその歯車を直したせいで、私のティータイムが三秒も狂ったわ。女王の監視まで引き連れてきて、大迷惑よ。……責任取って一億G、払いなさいな」


「い、一億……!?」


「払えないなら、アァタは今日から私の所有物モノよ。その借金を返すまで、死ぬまで私のそばで働かせてやるわ。……私の許可なく死ぬことも、逃げることも許さない。覚悟なさい」


 それは、最悪の奴隷宣言だった。

 胸ぐらを掴まれたまま、ねねの頭はパニックを起こしていた。

 目の前にいるのは、一瞬で命を消し飛ばす化け物だ。自分はただの変哲もない虫のように見下され、理不尽な理由で一億Gもの借金を背負わされ、一生を奴隷として拘束されようとしている。

 恐怖。

 そして、真っ暗な絶望がねねの心を塗りつぶしかけた。


 ――しかし。


(……え?)


 『死ぬまで働かせてやる』


 『私の許可なく死ぬことも、逃げることも許さない』


 頭の中で、その残酷な言葉が反芻した瞬間。ピタリ、と。ねねの中で、何かが狂った音を立てて噛み合った。

 現代社会で、どれだけ身を粉にして働いても「お前の代わりなんていくらでもいる」とゴミのように切り捨てられ続けてきた彼女にとって。

 自分を虫けらのように見下すこの絶対的な支配者が、わざわざ『一億G』という天文学的な価値を自分に課し、死ぬことすら許さず『手放さない』と宣言してくれた事実。

 それは、絶望の淵にいたねねにとって、雷に打たれたような圧倒的な『存在意義の証明』だったのだ。


(私を、必要としてくれるの……?)


 恐怖が、波が引くようにスーッと消え去っていく。

 代わりに湧き上がってきたのは、奴隷としてでも、一生誰かに執着してもらえるという、甘く歪んだ歓喜だった。


(奴隷としてでも、一生手放さないくらい……私に、価値があるって言ってくれるの……?)


 ポロポロと、ねねの瞳から大粒の涙が溢れ落ちた。

 それは恐怖の涙ではない。ねねは胸ぐらを掴まれたまま、泥だらけの顔をくしゃくしゃにして、最高に幸せそうな満面の笑みを浮かべた。


「はいっ……! 私、一生懸命働きます! なんでも直しますから、どうかよろしくお願いしますっ!」


 エリーの動きが、ほんの数秒だけ止まった。

 彼は無表情のまま、泣き笑いするねねの顔をじっと見つめ――やがて、喉の奥でひどく冷たく、傲慢な笑い声を漏らした。


「……フッ、狂ってるわねェ。いいわ、その言葉、絶対に後悔させてあげる」


 エリーはねねを乱暴に地面へ突き放すと、一切の感情を見せない横顔で馬車へと歩き出した。


「乗れ。二度と言わせるな」


 声の温度は氷のように冷たかった。

 ねねは「はいっ!」と元気よく返事をし、その後を嬉々として追いかけていく。


「おい、お前……正気かよ」


 置き去りにされたチェシャは、最悪の暴君に喜んでついていくねねの後ろ姿を、信じられないものを見るような目で見送ることしかできなかった。


 自分が『都合の良い所有物』として利用されているだけだと信じて疑わないまま。この残酷で美しい主のために、一生懸命働いて恩を返そうと心に誓いながら。


 漆黒の馬車は、静かに夜の不思議の国へと走り出した。 





不思議の国の空を覆う赤黒い雲を抜け、漆黒の馬車は深い森の奥に聳え立つ巨大な城へと辿り着いた。

 それが、この狂った世界をたった一人で支配する絶対者、帽子屋エリーの居城だった。

「ひゃっ……!」

 馬車から降りるなり、ねねは冷たい大理石の床に乱暴に放り出された。

 豪奢なシャンデリアが照らすエントランス。見渡す限り金と大理石で彩られた空間に、スラムの泥と油にまみれたねねの姿は、あまりにも不釣り合いで惨めだった。


「やだァ。私の美しい城に、薄汚いウジ虫の這いずった跡がついちゃったじゃないの」


 馬車から降り立ったエリーは、ひどく不快そうに顔を顰め、ねねを見下ろした。

 そして、羽虫でも払うように軽く指を鳴らす。


『スァァッ……』


 次の瞬間、ねねの身体を黄金の魔力が包み込んだ。

 あたたかい光が通り抜けると、ねねの肌や服にこびりついていたスラムの悪臭やヘドロが、一瞬にしてチリ一つなく浄化されていた。


「あ……汚れが……!」


「勘違いしないでちょうだい。アァタみたいなゴミの臭いで、私の極上のフレーバーティーが台無しになるのを防いだだけよ」


 エリーは冷酷な深紅の瞳でねねを射抜くと、エントランスの奥に控えていた二つの影に向かってアゴでしゃくった。


「アルテ、オルテ。このブスを空き部屋に放り込みなさい。今日から死ぬまで、一億G分の労働をさせるわ」


「「御意に、マスター」」


 影から音もなく現れたのは、お揃いの黒いスーツを着た双子の従者だった。

 彼らは一切の感情を感じさせない無表情のまま、ねねの両脇をガシッと掴み、引きずるようにして廊下の奥へと連行していく。


「あ、あの! エリー様! 私、なんでも直しますからっ!」


「……黙りなさい。私の許可なく口を開くな」


 背後から叩きつけられた絶対零度の声に、ねねはヒッと喉を引き攣らせ、口を噤んだ。

 エリーはそれ以上ねねを一瞥することもなく、優雅な足取りで自室へと消えていった。





 ねねが押し込まれたのは、城の片隅にある「空き部屋」だった。

 しかし、スラムの廃屋で寝起きしていたねねにとって、そこは異常な空間だった。

 床には足が沈み込むほど分厚い絨毯が敷かれ、部屋の隅には、王族が使うような天蓋付きのふかふかのベッドが置かれている。さらに、作業台として用意された机は、傷一つない最高級のマホガニー材だ。



(こ、これが、空き部屋……?)



 ねねが困惑していると、双子の従者であるアルテとオルテが、ドサリと机の上に巨大な麻袋を置いた。

 中からガラガラとこぼれ落ちたのは、大量の壊れた時計や魔導具の部品だった。


「これより、ねね様の労働を開始していただきます。マスターからの命により、これらの廃棄物を修復してください」


「これは……スラムのゴミ山にあったガラクタ……?」


「はい。マスターが『あのブスには、スラムのゴミがお似合いだ』と仰り、我々が回収してまいりました」


 双子は淡々と事実だけを告げる。

 さらに、アルテが銀色の重厚なアタッシュケースを開き、机の上に並べた。


「あの、これは……?」


「マスターが『業者が誤って納品した不要品の工具だ。捨てようと思っていたが、あの不器用なブスに使わせておけ』と」


「えっ」


 ねねは目を丸くした。

 ケースの中に整然と並べられていたのは、時計職人であるねねが見ても息を呑むほどに美しく、計算し尽くされた純銀のツールセットだった。

 こんな超一級品の工具が「不要品」だなどと、あり得ない。


(……きっと、私が一億Gの借金を少しでも早く返せるように、わざわざ用意してくれたんだ……!)


 エリーの「ゴミ」「ブス」という冷酷な暴言の数々。

 普通なら心を折られるところだが、現代社会で「誰にも必要とされない」という絶望を抱えていたねねにとって、それはむしろ逆効果だった。

 わざわざ自分に仕事を与え、環境を整え、逃げ出さないように監視してくれている。

 それは、ねねにとって『あなたは私にとって、それだけ利用価値のある道具だ』と強烈に肯定されているようなものだった。


「はいっ! 私、頑張ります! エリー様のために、絶対に全部直してみせます!」


 ねねは満面の笑みで双子に頭を下げると、純銀のツールを手に取り、嬉々としてガラクタの山に向かい合った。




 ◆



 ――数時間後。


 ねねは、エリーの執務室の前に立っていた。

 手には、彼女が数時間かけて完璧に組み上げた、美しい真鍮の置き時計が握られている。


「入っていいわよ」


 扉の奥から響いた優雅な声に、ねねはビクビクしながら執務室へと足を踏み入れた。

 豪奢なデスクの奥で、エリーは最高級のソファに深く腰掛け、退屈そうに紅茶を飲んでいた。


「あ、あのっ……エリー様。指示された時計、直しました」


「……」


 エリーはねねが差し出した時計を、虫でも見るような冷たい目で一瞥した。

 そして、ティーカップをことりと置き、ねねの手から乱暴に時計を奪い取る。


「……フン。相変わらず、不格好で吐き気がする仕上がりねェ」


 エリーは時計の表面を指でなぞりながら、氷のような声で吐き捨てた。

 その絶対的な冷酷さに、ねねはヒッと肩を竦める。

 突き返される。ゴミだと罵られる。そう覚悟して、ねねがギュッと目を閉じた、その時だった。


「まあ、動くことには動くようね。……アァタの借金から、銅貨一枚分だけ引いてあげるわ」


「え……?」


「一億G引く、銅貨一枚よ。……何をしてるの。さっさと次のゴミを直しに戻りなさい。アァタには休む時間なんて一秒も与えられていないのよ」


 エリーは直された時計を無造作に机の端に置くと、再びねねに向かって「消えろ」とばかりに手を振った。

 受け取って、くれた。

 私の仕事が、彼に認められたのだ。


「あ、ありがとうございますっ! 私、もっと頑張ります!」


 ねねは涙ぐみながら深く頭を下げ、逃げるように執務室を後にした。

 その背中を見送りながら、エリーはふっと、ひどく冷酷で、けれどどこか昏い執着を孕んだ深紅の瞳で、机の端の時計を見つめていた。


「アルテ、オルテ」


「「はっ」」


 影から現れた双子に、エリーは氷の底のような声で命じる。


「あのウジ虫に、エサを与えなさい。シェフが作りすぎた失敗作の残飯でいいわ。……私の所有物モノが、勝手に餓死するなんて絶対に許さないから」


「御意に。本日の『失敗作の残飯(最高級黒毛和牛のロッシーニ風)』を運ばせます」


 双子が恭しく一礼して姿を消す。

 残された執務室で、エリーはねねが直した不格好な時計を手に取った。

 彼が指を一度鳴らせば、一瞬で新品以上に直せるような、無価値なガラクタ。

 しかし、絶対支配者である彼は、その時計を壊すことも、作り変えることもせず。ただ退屈そうに、チクタクと響くその不器用な音色を、いつまでも静かに聴き続けていた。




不思議の国での、狂気に満ちた、けれど甘美な奴隷生活。

 エリーの城での日々は、ねねにとって夢のように満たされた時間だった。

 毎日、朝から晩までアトリエに籠もり、エリーが「スラムから回収させた」というガラクタの山を純銀のツールで修理し続ける。

 三度の食事は、現代の高級フレンチも顔負けの絶品が運ばれてきた。双子の従者たちはあくまで「失敗作の残飯の処理」だと無表情に言い添えるが、ねねは「たくさん働いているから、これくらい食べても許されるのだ」と都合よく解釈していた。


(今日もたくさん直した! これなら、一億Gの借金も着実に減ってるはず!)


 机の上に並べられた、ピカピカに修理された時計や魔導具の数々を見下ろし、ねねは額の汗を拭った。

 どれも構造は複雑だったが、少しの根気と職人の知識があれば直せる程度の破損ばかりだ。自分の手で命を吹き返した機械たちを見ると、胸の奥底にあった「誰にも必要とされない空虚感」がじんわりと温かく満たされていく。


『ドンッ!!』


 ふいに、開け放たれた窓枠に重々しい着地音が響いた。

 ビクッと肩を跳ねさせて振り返ると、巨大な無骨な剣を背負った獣人の青年――チェシャが、不機嫌の極みのような顔で部屋の中を睨みつけていた。


「ちっ……相変わらず油臭せえ部屋だな。あの潔癖症の傲慢野郎が、よくこんな部屋を城の中に許してんぜ」


「ひっ……! チェ、チェシャさん!?」


 スラムでの恐ろしい記憶が蘇り、ねねは思わず後ずさった。

 チェシャはねねの怯えなど一切気にも留めず、鋭い金色の眼光で部屋を見回すと、ずかずかと大股で踏み込んできた。


「おい、泥ネズミ。いつまでそんな無意味な泥遊びしてんだ」


「ど、泥遊びじゃありません! 私はエリー様に一億Gの借金をしていて、それを返すために毎日ここで修理の仕事を――」


「あ?」


 地を這うような低い声。

 チェシャが射殺すような目で睨み下ろしてくると、ねねはヒッと息を呑んで言葉を詰まらせた。


「……お前、本気で言ってんのか? 自分が自分の腕で、あの『帽子屋エリー』の役に立ってるって、本気で信じてんのかよ」


「な、なに言ってるんですか。だって、エリー様は私に仕事を与えてくれて……」


「うるせえ、頭使えよ馬鹿が」


 チェシャは容赦なくねねの言葉を叩き斬ると、無造作にねねの腕をガシッと掴んだ。


「痛っ……!」


「いいから来い。よく見ろ」


 強引に机の前まで引きずられ、ねねは修理前の時計の基盤に顔を近づけさせられた。

 チェシャの大きな手が、時計の折れたゼンマイを乱暴に指差す。


「あいつは、この狂った不思議の国をたった一人で支配する最強の化け物だぞ。壊れたものを直す? そんなもん、あいつが指を一度鳴らせば、一瞬で新品以上の状態に復元できる。……お前のそのちっぽけな修理の腕なんて、あいつはこれっぽっちも『必要』としてねぇんだよ」


「う、嘘です……っ! だって、だったらどうして……!」


「だからよく見ろっつってんだろ!」


 チェシャの怒号に、ねねはビクッと肩をすくめ、涙目で時計の部品を凝視した。


「……なんでこんな都合よく、お前が直せる程度にだけ綺麗に折れてんだよ。スラムのゴミ山から拾ってきたなら、泥や油まみれで、もっと無残にぶっ壊れてるのが普通だろうが」


 ――ガンッ、と。


 頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。


「決まってんだろ。あいつはお前を逃がさねぇために、『一億Gの借金がある』って嘘をつき続けて、この安全な鳥籠に縛り付けてんだよ。お前を自分の所有物ペットとして飼い殺すために、わざわざ無意味な仕事を作って、冷酷な雇い主のフリをしてやってるだけだ」


「――――」


 声が出なかった。

 チェシャが突きつけてきた氷のような事実が、ねねの脳髄をゆっくりと侵食していく。


「……ちっ、何度も言わせんな。お前の修理の腕なんて、最初からどうでもよかったんだよ」


 チェシャはねねの腕を乱暴に手放すと、「馬鹿馬鹿しい、俺の知ったこっちゃねえがな」と吐き捨て、再び窓から身を翻して消えていった。

 アトリエに、静寂だけが残される。

 ねねは、純銀のドライバーを握りしめたまま、その場にへたり込んだ。


(嘘だ。嘘だ、嘘だ、嘘だ……!)


 ねねは激しく首を振った。

 もしチェシャの言う通りなら、エリーからの「所有宣言」も、「借金」も、「一から十までの徹底的な管理」も、すべては彼がねねをペットとして安全に飼うための演技だったことになる。

 自分は、ちっとも役に立っていなかった。

 ただ、一方的に哀れまれ、玩具として囲われていただけ。


(私が、必要だったわけじゃないの……?)


 現代で「代わりはいくらでもいる」と切り捨てられたねねにとって、「仕事としての必要性」を奪われることは、自分の存在意義を根こそぎ奪われるに等しかった。

 呼吸が浅くなる。冷や汗が全身から噴き出す。

 この疑惑を、この目で確かめなければ、狂ってしまいそうだった。



 その日の深夜。

 ねねはベッドを抜け出し、音を殺して静まり返った城の廊下を歩いていた。

 向かった先は、エリーが普段執務を行っている巨大な書斎だ。

 分厚い扉の隙間から、淡い魔力の光が漏れている。


(……いる)


 ねねは息を殺し、ほんのわずかに開いた扉の隙間から中を覗き込んだ。

 豪奢なデスクの前に、エリーが座っていた。

 彼は相変わらず氷のように冷ややかで、一切の感情を排した無表情を保っている。

 その机の上に山積みになっているのは、ねねが今日一日かけて必死に修理したはずの時計や魔導具の数々だった。


(どうして、私が修理したものがエリー様の部屋に……?)


 ねねが目を丸くして見つめる中。

 エリーは、ねねが直したばかりの時計を手に取ると、ひどく退屈そうに、そして底知れぬ見下しを含んだ瞳で目を細めた。


「……チッ。本当に不格好で、不器用なゴミねェ」


 独り言のように呟かれた低く冷たい声。

 次の瞬間、エリーは時計を持った手とは逆の指を、パチンと軽く鳴らした。


『スァァァァッ……』


 途端に、黄金の魔力が時計を包み込む。

 ねねが数時間かけて必死に研磨し、代替の部品で何とか動くようにしただけの時計が、瞬く間に「新品同様」の完璧な状態へと作り変えられてしまったのだ。


(っ……!!)


 息が、止まった。

 チェシャの言葉は、本当だった。

 エリーにとって、壊れたものを直すことなど造作もないことだったのだ。ねねの泥臭い職人仕事など、彼からすれば取るに足らない、無価値なゴミでしかなかった。

 しかし、エリーの残酷な所業はそれだけでは終わらない。

 完璧に直った時計を見下ろし、エリーはひどく不機嫌そうに舌打ちをした。


「……たかが一匹のウジ虫を、私の所有物として生かし続けてやるためだけに、毎日わざわざ『仕事』という名のエサを手作りしてやらなきゃならないなんて。本当に、不愉快極まりないわ」


 ボソリと呟かれた、氷点下の言葉。

 そこに、ねねを思いやるような温かな感情は微塵もなかった。あるのはただ、自分の所有物が勝手に壊れる(死ぬ)ことを許さないという、暴君の傲慢で冷酷な支配欲だけ。

 エリーはそのまま、時計の中枢を担う一番太いゼンマイを、魔力で『わざと、ねねが修理可能な程度に』ポキリと折った。

 そして、その人為的に壊された時計を、明日ねねの工房に運ばせるための麻袋の中へと無造作に放り投げたのだ。


「せいぜい明日も、一億Gの負債とやらにしがみついて、私の手のひらで滑稽に足掻きなさいな」


(あ……、ああ……)


 ねねは両手で口を覆い、後ずさった。

 一億Gの借金。死ぬまで働けという命令。純銀のツール。

 そのすべてが、何の価値もないペットを屋敷に閉じ込めておくために、彼が完璧に演じていた「見え透いた嘘」だったのだと、痛いほどに理解してしまった。

 彼は、ねねの技術など微塵も必要としていなかった。

 ただの気まぐれで、哀れなペットに「仕事」というエサを与え、飼育し管理していただけだったのだ。


(私が、必要だったわけじゃない。……ただの気まぐれで、哀れなペットとして生かされていただけだったんだ)


 暗い廊下の隅で、ねねは声も出せずに泣き崩れた。

 現代社会で切り捨てられ、ようやく見つけたと思った自分の存在意義。

 「誰かに必要とされたい」という彼女の切実な祈りは無残に打ち砕かれ、心を辛うじて支えていた最後の歯車は、今度こそ完全に砕け散ってしまったのだった。





暗い廊下の冷たい床にへたり込み、ねねは声を出さずに泣き続けた。

 自分の存在意義が根底から崩れ去る恐怖。自分は彼にとって、代わりのきかない職人などではなかった。ただの悪魔の気まぐれで囲われ、残酷な希望ウソを与えられて嘲笑われていた、哀れなペットでしかなかったのだ。


(私に一億Gの価値があったわけじゃない。私の腕が、必要だったわけじゃない)


 ねねは、涙でぐしゃぐしゃになった顔を両手で覆った。

 現代社会で心をすり減らし、誰かに「お前が必要だ」と言われなければ立っていられなかった自分。その歪んだ渇望を、彼は嘘の借金と無意味な仕事で見事

に満たし、そして最悪の形で叩き落としてみせた。


(でも……私は、哀れなペットのままじゃ嫌だ)


 役に立たない玩具として、ただ一方的に弄ばれるだけの存在。

 いつか彼がこの「修理屋ごっこ」に飽きたら、自分はまた、代わりのきくゴミとして捨てられてしまうのだろうか。

 そんなのは絶対に嫌だった。彼に嘘をつかれ、虫けらのように見下されていたと知ってもなお、ねねの胸の奥で燃える彼への狂おしいほどの執着は、決して消えなかった。


(私は彼にとって、唯一無二の必要な存在になりたい。……代わりのきかない、本当の時計職人に)


 涙を乱暴に拭い、ねねはよろよろと立ち上がった。

 自室に戻ろうとした彼女の足が、ふと、廊下の最奥にある重厚な扉の前で止まる。

 そこは、エリーから「絶対に近づくな」と厳命されていた『開かずの間』だった。


(……そういえば)


 昼間、アトリエへ向かう途中、ねねは偶然見かけていた。

 あの氷のように冷酷で、悪魔のように嘲笑うエリーが、一人でこの扉の前に立ち尽くしている姿を。

 彼は扉にそっと手を添え、まるで凍りついた湖面を眺めるような、ひどく孤独で、触れれば崩れ落ちてしまいそうな痛ましげな表情を浮かべていた。あの傲慢な絶対者が、たった一つだけ抱え込んでいる痛み。

 なぜか今夜に限って、その扉の鍵は開いており、微かな隙間が空いている。

 何かに呼ばれるように中へ足を踏み入れると、そこは窓のない円形の部屋だった。

 部屋の中央には、何重にも強力な魔法の結界が張られたガラスの台座がある。

 ねねは引き寄せられるように台座に近づき、中を覗き込んだ。


「あっ……」


 そこに安置されていたのは、手のひらサイズの古い懐中時計だった。

 しかし、それは酷く壊れていた。ガラス風防は粉々に砕け、長針も短針もひしゃげ、中の精巧な歯車は完全に噛み合わせを失っている。

 いや、ただ劣化しただけではない。まるで持ち主自身が、強い力で無理やり心臓部テンプを叩き壊したかのような、ひどく無残な壊れ方だった。

 エリーが指を一度鳴らせば、どんなものでも直せるはずなのに。

 この城の中で、たった一つだけ。この時計だけが、直されないまま(あるいは直せないまま)冷たい台座の上に放置されていたのだ。


「……おい。そこで何してんだ、泥ネズミ」


 背後から、地を這うような低い声が響いた。

 ビクッと振り返ると、巨大な無骨な剣を背負ったチェシャが、暗闇に溶け込むように壁に寄りかかっていた。彼の鋭い金色の瞳は、台座の上の壊れた時計を静かに、ひどく険しい目つきで見つめている。


「チェシャさん……。これ、エリー様の……?」


「ちっ……。あれが何なのか、詳しいことは俺も知らねぇ。だが、あのイカれた化け物は、あれを絶対に捨てないくせに、自分の魔法で直そうともしねぇんだ。まるで、その時計が動くことをひどく恐れてるみてぇにな」


 チェシャの言葉に、ねねは再びガラス越しの懐中時計を見つめた。

 時を止めたまま、誰にも触れられず、深い結界の奥底に封じられた時計。

 エリーは何でも魔法で作れるし、何でも直せる。しかし、この時計だけは彼にも直すことができないのだ。


(エリー様にも、直せないものがある。……だったら)


 ねねは、台座の結界ガラスにそっと手を触れた。


(もし、私がこれを直せば。私はもう、無価値なペットなんかじゃない。……エリー様にとって、本当の意味で『必要な職人』になれるかもしれない)


 彼に愛されているなんて、微塵も思っていない。

 ただ、彼にとっての一番になりたかった。彼が唯一直せないものを直すことで、彼の心を自分に強引に縛り付けたかった。

 「必要とされたい」というねねの歪んだエゴと、彼への狂った執着が絡み合い、彼女の職人としての魂に、かつてないほどの熱い炎を灯した。


「チェシャさん。……私、これ、直します」


「……あ?」


 チェシャが信じられないものを見るように、金色の目を細める。


「頭湧いてんのか。それは厳重な結界で守られてんだぞ。それに、あの傲慢野郎の逆鱗に触れたら、今度こそ本当にバラバラに引き裂かれんぞ」


「殺されません。だって私は、エリー様の一億Gの『所有物』ですから」


 ねねは振り返り、涙の痕が残る顔で、しかし最高に晴れやかな笑みを浮かべた。


「それに、エリー様が直せないなら、私が直すしかないじゃないですか。……私、時計修理の職人なんですから」


 その顔に、現代社会で使い捨てられ、絶望に沈んでいた惨めなウジ虫の面影は微塵もなかった。

 どうしようもない渇望を抱えながらも、狂気の世界で自分の存在価値を掴み取ろうとする、一人の執念深い女の顔だった。

 チェシャはしばらく呆れたようにねねを睨みつけていたが、やがて深く、苛立たしげな溜め息を吐いた。


「……ちっ。どいつもこいつも狂ってやがる。勝手にしろ。結界の鍵くらいなら、俺がブチ破ってやる。どうなっても知らねぇからな」


「ありがとうございます、チェシャさん!」


 チェシャが舌打ちと共に無造作に結界に手をかざすと、ガラスの台座を覆っていた黄金の魔力が、パチンと弾けて霧散した。

 ねねは震える手で、その古びた懐中時計をそっと包み込むように持ち上げた。

 ひどく冷たくて、重い。

 彼女はそれを大切に両手で包み込み、決意の宿った瞳でまっすぐに前を見据えた。

 自分を哀れなペットとして嘲笑う狂った帽子屋(悪魔)を振り向かせるため。ねねは自らの意志で、絶対に開けてはならないパンドラの箱の蓋を開けた。



 自室に懐中時計を持ち帰ったねねは、夜の闇に紛れてその修復に取り掛かった。

 机に広げたのは、エリーが「業者の余り物」と嘘をついて与えてくれた純銀のツールセットだ。


(エリー様……)


 そのひんやりとした道具を握るだけで、自分が哀れなペットとして飼われているという惨めさと、それでも彼にとっての「唯一の特別」になりたいという熱く歪んだ執念が湧き上がってくる。

 ルーペを目に当て、息を殺して懐中時計の内部構造を覗き込んだ。

 それは、ねねが今まで見てきたどの機械よりも精巧で、そして悲惨な状態だった。


(ひどい……。部品が劣化して壊れたんじゃない。これは、持ち主自身が強い力で、無理やり心臓部テンプを叩き壊したんだ)


 なぜ、エリーは自分の大切な時計を、自らの手で壊さなければならなかったのか。

 理由は分からない。けれど、無残に歪んだ歯車の一つ一つから、あの氷のように冷酷な絶対者が、たった一人で抱え込んできた途方もない孤独と痛みが伝わってくるようだった。


(私が、直す。エリー様が直せないなら、私が直して、彼にとって絶対に必要な人間になってみせる)


 ねねは純銀のピンセットを手に取り、繊細な作業を開始した。

 ひしゃげた歯車の歪みをミリ単位で補正し、噛み合わせの狂ったピンを本来の位置へと戻していく。魔法は使えない。けれど、現代社会で培った職人としての技術と、彼の一番になりたいという身勝手で狂気的な執念だけが、ねねの指先に魔法以上の奇跡を宿らせていた。


 ――作業は、三日三晩に及んだ。


 日中はいつものようにアトリエでガラクタを直すフリをして双子の従者の目を欺き、深夜にだけ懐中時計の修復を進めた。

 エリーは相変わらずねねを「薄汚いウジ虫」と呼び、「借金を返すまで絶対に手放さない」と冷酷な暴言を吐き続けていたが、今のねねはもう、その言葉に一喜一憂しなかった。


(もう少し。……もう少しで、私はただのペットじゃなくなるから)


 エリーに冷たく見下されるたび、ねねは彼への執着を募らせ、夜の修復作業に心血を注いだ。

 そして、四日目の深夜。

 ねねの純銀のピンセットが、最後に残っていた最も小さな歯車――心臓部であるテンプを、本来の軸へとカチリとはめ込んだ。


『チクタク……チクタク……』


 静寂に包まれた部屋に、微かな、しかし力強い鼓動のような音が響き渡った。

 ねねの手の中で、完全に死に絶えていたはずの懐中時計が、黄金の淡い光を放ちながら正確に時を刻み始めたのだ。


「……直った。これで、私はエリー様の――」


 ねねが歓喜の笑みを浮かべ、黄金に輝く懐中時計を胸に抱きしめようとした、その瞬間だった。


『ジジジジジッ……!!』


 突如として、ねねの部屋の窓ガラスが、脳髄を削るような不快なサイレンと共にひび割れた。

 いや、窓ガラスだけではない。エリーの城を覆っていた強固な魔法の結界が、そして上空に広がる赤黒い空そのものが、まるで叩き割られた鏡のように無数の亀裂を走らせていた。


「え……? なに、これ……!?」


 ねねが時計を抱えたまま立ち上がると同時に、スラムで聞いたあの無機質でけたたましいサイレンが、世界の全土を揺るがすほどの爆音で鳴り響いた。

『緊急アラート。世界のコアの稼働を確認』

 空全体から降り注ぐ、女王のシステムによる耳障りな絶叫。


『人間の正気エラーを検知。狂気プロトコルの維持が不可能です。これより、防衛システムを最大稼働。対象を完全排除します』


「……世界の、核……?」


 ねねは血の気の引いた顔で、自分の手の中で『チクタク』と温かな時を刻み続ける懐中時計を見つめた。

 ここで初めて、すべてのピースが最悪の形で繋がった。

 この懐中時計こそが、不思議の国を狂気で支配するためのシステムを司る『世界の核』だったのだ。

 そして同時に、それはエリオットが人間であった頃の心(時間)の象徴。

 彼が直さなかったのではない。自分が人間の心を取り戻せば、世界を維持する狂気のシステムに『異物』として検知され、殺されてしまうから。

 だから彼は、人間としての温かな感情を捨ててでも、自らの手で時計を壊し、氷の暴君として生きる道を選んでいたのだ。


(そんな……じゃあ、私がこれを直したせいで……!)


 自分が彼にとっての「特別」になりたいという、身勝手な職人のエゴ。

 そのどうしようもない渇望が、彼を殺す最悪のトリガーを引いてしまったのだ。


『パリィィィィンッ!!』


 絶望に凍りつくねねの目の前で、城を覆っていたエリーの結界が、ついに甲高い音を立てて完全に砕け散った。

 壁が吹き飛び、強烈な爆風が部屋を蹂躙する。


「きゃあっ……!」


 吹き飛ばされ、床に叩きつけられたねねの視界に映ったのは、赤黒い空を埋め尽くすほどの、無数のトランプ兵だった。

 スラムで見たものとは比較にならない。身の丈三メートルを超える重装甲の処刑兵たちが、女王のシステムの刃となって、空から次々と城へなだれ込んでくる。

 狙いはただ一つ。

 人間の正気を取り戻した『世界の核(懐中時計)』と、それを直した大罪人である有栖ねねの完全排除。


「目標を確認。これより、異物を消去する」


 数万の軍勢が、一斉に巨大な斧を振り上げる。

 逃げ場などどこにもない、絶対的な死の壁がねねに迫り来る。


(エリー様……ごめんなさい、私……私がっ……!)


 自分の命などどうでもよかった。ねねはせめて、彼の大切な時計だけは守ろうと、黄金に光る懐中時計を胸に強く抱きしめ、ギュッと目を閉じた。 


 ――その時。


 迫り来る数万の軍勢とねねの間に、黒いフロックコートの男が、空から叩きつけられるような凄まじい速度で舞い降りた。

 大理石の床が粉々に砕け散り、圧倒的な魔力の余波だけで、先陣を切っていた数十体のトランプ兵が紙くずのように吹き飛ぶ。


 ――帽子屋、エリー。


 彼はねねを背中で庇うように立つと、数万の軍勢を前にして、ひどく退屈そうに、そして世界で最も傲慢な笑みを浮かべた。


「やだァ。真夜中にこんな大群で押し掛けてくるなんて、本当にデリカシーのない連中ねェ。おかげで私の美容液を塗る時間が五分も削られたじゃないの」


 怒号とサイレンが鳴り響く戦場に、芝居がかった優雅なオネエ言葉が響き渡る。

 しかし次の瞬間、その声の温度は一気に氷点下へと急降下した。


「……で? 誰の許可を得て、私のテリトリーで、私の所有物モノに手を出しているのかしら?」


 地獄の底から響くような、低く冷酷な男の声。

 彼は一切の感情を排した深紅の瞳で、数万の軍勢を虫けらのように見下した。


「――塵も残さず消し飛べ、ガラクタ共」


 絶対支配者の指先が、死刑宣告のようにパチンと鳴らされた。




 空から舞い降りた絶対支配者エリーは、背後のねねを振り返ることもなく、ひどく退屈そうに指を鳴らした。


『パァァァァンッ!!』


 黄金の魔力が爆発し、前列にいた数百の重装甲兵が、悲鳴を上げる間もなくチリとなって消滅する。


 しかし、世界の防衛システムは無尽蔵だった。赤黒い空の裂け目から、次から次へと新たな処刑兵が湧き出し、津波のように押し寄せてくる。


「エリー様……っ!」


「……チッ。本当に手のかかる女ねェ。私の許可なく勝手に私のガラクタを直すなんて、借金一千万G上乗せよ」


 エリーは芝居がかった優雅な仮面を被ったまま毒づいたが、その背中は今まで見たこともないほどに凄まじい魔力を放っていた。


 次々と空から降り注ぐ処刑の斧を、黄金の結界が弾き飛ばす。しかし、世界そのものを敵に回した戦いだ。どれだけ最強の化け物であろうと、無尽蔵に湧き続けるシステムを完全に制圧することなど不可能だった。

 やがて、上空のシステムが冷酷な機械音声を響かせた。


『異物の排除を最優先。対象(世界の核)への直接攻撃を実行します』


 空間そのものが、嫌な音を立てて捻じ曲がった。

 次元を引き裂くような巨大な光の刃が、結界をすり抜け、ねねと彼女の抱える懐中時計に向かって無慈悲に振り下ろされる。

 回避は不可能。防ぐことも間に合わない。


 ねねが死を覚悟して目を閉じた、その瞬間。


『ズリュッ……』


 肉と骨を断ち切る、生々しくも残酷な音が響いた。


「――――え?」


 ねねの頬に、温かくて、ひどく赤い飛沫が飛び散った。

 ゆっくりと目を開けた彼女の視界を埋め尽くしたのは、漆黒のフロックコート。

 エリーが、ねねを庇って抱きしめるように覆い被さっていた。彼の背中から胸にかけて、システムの巨大な光の刃が深々と貫通している。


「エリー……さま……?」


「……っ、が……」


 エリーの口から大量の血が溢れ落ち、ねねの肩を赤く染めた。

 絶対的な力を持っていた美しき暴君の身体が、まるで糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる。


「嘘っ……嘘、いやっ!! エリー様!!」


 ねねは泥だらけの床に膝をつき、倒れ込んだエリーの上半身を必死に抱きとめた。

 傷口からは、信じられないほどの血と黄金の魔力が絶え間なく流れ出ている。魔法でどうにかなるような傷ではないことは、素人目にも明らかだった。 


(私の、私のせいだ……!)


 自分が「彼にとっての特別になりたい」という身勝手な職人のエゴで、あの時計を直してしまったせいで。

 彼を自分に縛り付けたいと願った、浅ましい欲望のせいで、彼を殺してしまったのだ。


「ごめんなさい……! 私が、私が余計なことをしたからっ……!!」


 ねねは、血まみれになったエリーの胸にすがりつき、子供のように泣きじゃくった。


「どうして……どうして私なんかを庇うんですか! 私は、あなたの役になんて何一つ立たない……ただ気まぐれで飼われてただけの、何の価値もない玩具だったのに……っ!」


 ねねの悲痛な絶叫が響く中。

 エリーは、自分の血で染まったねねの涙顔をじっと見つめ――ふっと、喉の奥で嘲るように低く笑った。


「……チッ。喚くな……ブス」


 地を這うような、低く、掠れた男の声。

 そこにはもう虚像の仮面はなかったが、悪魔のような傲慢さは少しも崩れていなかった。

 血に濡れたエリーの手が、ねねの顎を強引に掴み、自分と視線を合わせさせる。


「……自惚れるなよ。俺はただ……自分の所有物モノを、他人に指図されて壊されるのが、反吐が出るほど気に食わねェだけだ」


「え……?」


「お前は俺に一億Gの借金がある……。一円も返してもらってないのに、システムごときに俺の債務者オモチャを壊されてたまるか……」


 強がりで、どこまでも傲慢な言葉。

 けれど、ねねの顎を掴んだ彼の手はゾッとするほど冷たく――そのまま、ひどく優しく彼女の頬を撫でた。


「エリー、様……っ」


「……俺の許可なく、勝手に死ぬことなんて許さねェと言ったはずだ……」


 エリーは苦しげに咳き込みながら、残された最後の魔力をすべて燃やし、背後の空間を強引に引き裂いた。

 その奥に見えたのは、赤黒い空ではない。ねねがかつて生きていた、現代日本の見慣れた時計工房の景色だった。


「元の世界に帰れ。……そして一生、俺に一億Gの借金があるって事実ノロイを背負って生きろ」


「嫌だ……! 嫌っ、置いていかないで! 私も、私もここにっ――!」


「……俺と一緒に死ぬなんて許さねェ」


 冷酷な言葉とは裏腹に、エリーはねねの肩を押し、無理やり次元のゲートへと突き飛ばした。


「……じゃあな。せいぜい無様に生き延びろ……」


 ゲートへと吸い込まれていくねねの視界の先で。

 エリーは崩れゆく身体の中で、どこまでも傲慢に、けれど、微かな笑みを口元に浮かべていた。


「……ホント、最後まで高くつく女だ」


崩壊を始めた身体が、黄金の粒子となって風に溶けていく。

それでも深紅の瞳だけは最後まで、ただ一人の少女を見つめ続けていた。


「忘れるなよ

      ――お前は、まだ俺の債務者だ」


その言葉を最後に。

世界のシステムが放った光の刃が、帽子屋エリーの姿を完全に飲み込んだ。


「いやぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


ねねの絶叫とともにゲートが閉じる。

不思議の国の空へと散った無数の黄金の粒子は、一筋の光となって懐中時計へ吸い込まれていった。


 彼が完全に消滅する直前。

 彼を形作っていた黄金の魔力と魂の粒子は、ねねの手の中で激しく鼓動する『懐中時計』へと、一条の光となって吸い込まれていった。



 


 不思議の国が崩壊し、現代日本へと帰還してから半年。

 ねねは、都内の路地裏にある小さな貸し店舗で、自分の時計修理店を開業していた。

 現代社会に戻ってから、一つだけ世間を騒がせた大きなニュースがあった。

 かつてねねを「代わりのきくゴミ」と罵り、身も心もボロボロになるまで酷使したブラック企業が、ある日突然、見事なまでに徹底的に叩き潰されたのだ。

 脱税、横領、悪質な労働基準法違反――あらゆる不正が何者かによって『完璧な証拠付き』で関係各所に一斉に告発され、同時に正体不明の外資系ファンドから容赦のない敵対的買収を仕掛けられた。

 結果、ねねを追い詰めたパワハラ社長や上司たちは全員逮捕。会社は天文学的な負債を抱えて倒産し、彼らは社会的にも経済的にも「合法的」に息の根を止められた。

 連日メディアを賑わせるその痛快なニュースを見ても、ねねは「自業自得だ」と小さく息を吐くだけだった。あの絶対的な暴君が命を賭して帰してくれたこの世界で、もう過去のトラウマに囚われるつもりはなかったからだ。

 作業机の片隅。専用のガラスケースの中に安置された古い懐中時計を見つめ、ねねはそっと微笑んだ。

 不思議の国との繋がりが完全に断たれた現代においても、この時計だけは、まるで彼の遺した心臓のように力強く『チクタク、チクタク』と温かな時を刻み続けている。


「……ちっ。相変わらず湿気臭せぇ店だな。いつまでそんなガラクタ見てんだよ、泥ネズミ」


 ふいに、カウンターの上から地を這うような低い声が降ってきた。

 見上げると、そこには見事な銀髪の青年――現代の服を着崩したチェシャが、缶コーヒーを片手に不機嫌極まりない顔で胡座をかいていた。


「チェシャさん。だって、これが動いてるってことは……エリー様が、まだどこかで生きているような気がして……」


 ねねは寂しげに、ソッと優しくガラスを撫でる。

 その無防備な顔を見て、チェシャはどこかバツの悪そうな顔で、チッと舌打ちをして視線を逸らした。


「……ほらよ、あの無表情共からの差し入れだ。さっさと食え」


 チェシャが顎でしゃくった先、店の入り口には、お揃いの黒いスーツを着た双子の従者――アルテとオルテが立っていた。彼らの手には、近所で有名な高級ケーキ屋の紙袋が大事そうに抱えられている。


「ねね様。マスターの遺した所有物であるねね様の健康管理は、我々の絶対任務です」


「本日の糖分を摂取し、稼働率を維持してください。お残しは許されません」


「あはは……ありがとう、二人とも。でも毎日ケーキはちょっと太っちゃうかも……」


 ねねは苦笑しながら紙袋を受け取った。

 不思議なことに、世界の崩壊に伴う次元の歪みで、チェシャや双子たちも現代に弾き出されていたのだ。

 彼らはこうして、ねねの店に頻繁に顔を出しては、エリーの遺した「私の所有物を勝手に壊すな」という身勝手な命令を律儀に守り続けてくれている。

 孤独ではない。彼らがいてくれるおかげで、ねねは働き続けることができた。

 けれど、胸の奥に空いた巨大な穴だけは、どれだけ時間が経っても埋まることはなかった。

 

 ――その異変が起きたのは、冷たい雨の降る、ある夕暮れ時のことだった。



『……チク、タ……ク…………』



 ふいに。

 ガラスケースの中の懐中時計が、不規則な音を立てたかと思うと、ピタリと針を止めたのだ。


「え……?」


 ねねは弾かれたように立ち上がった。

 ゼンマイが切れたのではない。時計から発せられていた、あの黄金の淡い魔力の光が、フッと完全に消え去ってしまったのだ。


「嘘……エリー様の魔法が……っ」


 彼の遺した最後の繋がりが消えてしまった。

 ねねの顔から血の気が引いた、その時だった。


「……ちっ、やっとかよ」


 チェシャが舌打ちと共にカウンターから飛び降り、双子たちもスッと表情を改めて窓の外を見る。

 スァァァッ、と。

 店の外の濡れたアスファルトを滑るように、一台の車が停まる音がした。

 窓越しに見えたのは、この古びた路地裏には絶対にあり得ないほど巨大で、暴力的なまでに高級な黒塗りのリムジンだった。

 運転席から黒服の男が飛び出し、後部座席のドアを開けて恭しく傘を差しかける。

 そして、革靴が水たまりを踏む音が響き――カラン、と。

 ねねの小さな店のドアベルが、静かに鳴った。


「――――」


 息が、止まった。

 店に入ってきたのは、最高級のオーダースーツに身を包んだ、長身の男だった。

 銀糸のような長い髪。この世のすべてを見下すような、氷のように冷たくて美しい深紅の瞳。

 間違いない。あの懐中時計の中で魂を再構築し、完璧な姿で蘇った『帽子屋エリー』だった。


「エ……リー、様……?」


 ねねは、ぽろぽろと涙をこぼしながら、夢遊病者のように彼へと歩み寄った。

 背後で、チェシャは「……ちっ、遅ぇんだよ傲慢野郎が」と呆れたように息を吐き、双子たちは深く、最敬礼の姿勢で主を迎える。

 幻じゃない。彼だ。彼が、本当に帰ってきてくれたのだ。

 しかし、感動の再会に胸を震わせるねねを見下ろし、エリーはひどく不機嫌そうに、チッと舌打ちをした。


「やだァ。……相変わらず、アァタみたいなブスに相応しい薄汚くて、カビ臭い店ねェ。私の最高級の靴底が汚れるじゃないの」


「えっ」


 いつもの、優雅で絶対的な見下しを含んだオネエ言葉。

 ねねが呆気に取られていると、エリーは懐から一枚の分厚い書類を取り出し、ねねの額にペシッと押し付けた。


「感動してる場合じゃないわよ、ブス。アァタが私に背負った一億Gの借金……現代のレートと遅延損害金を含めて、ざっと百億円ってところかしら。まだ一円も返してもらってないから、わざわざ取り立てに来てやったのよ」


「ひゃ、百億……!?」


 ねねが目を丸くしていると、背後からチェシャがやれやれと肩をすくめた。


「ったく……時計の中で自分の魂を修復してる最中だってのに、わざわざ世界のルールに従って、お前の元会社を合法的に叩き潰すとか、マジでイカれた執念だぜ」


「え……? あの会社のニュース、エリー様が……?」


「当たり前でしょ。私の所有物モノに傷をつけたウジ虫共が、この世界でのうのうと息をしてるなんて反吐が出るわ」


 エリーはひどく傲慢に鼻で笑った。


「私がアァタみたいな不器用な女のために、どれだけ魂をすり減らして蘇ってきたと思ってるの。……アァタは今日から、この世界でも私の所有物よ。死ぬまで私のそばで働いて返してもらうわ。覚悟なさい」


 あの死に際の、弱くて切実な男の態度は微塵もない。

 完全に「絶対的な暴君」の顔に戻ったエリーの、あまりにも理不尽すぎる借金請求。


 ――しかし。


 過去に切り捨てられ、「自分は誰にも必要とされない」というトラウマを抱えていたねねにとって、その百億円という天文学的な負債と、念入りすぎる復讐劇は。 


 『お前を手放す気など永遠にない』という、この世の何よりも甘く、確かな存在証明だった。


(百億……。それなら私、一生エリー様のために働ける……!)


 ねねは、押し付けられた百億円の請求書を抱きしめると、泥だらけの顔をくしゃくしゃにして、歪んだ歓喜の涙を溢れさせた。

 そして、そのまま思い切りエリーの胸に飛び込んだ。


「わっ、ちょっとアァタ……! 私の最高級のスーツに汚い涙を――」


「返しますっ! 一生かけて、絶対直して返しますから……っ! だからもう二度と、私を手放さないでください……!!」


 ねねがスーツの胸ぐらをきつく握りしめて号泣すると、エリーは抗議の声をピタリと止めた。

 しばらくの沈黙の後。

 「汚い」と文句を言っていたはずの彼の手が、ゾッとするほど冷たい温度を伴って、ねねの背中に回された。

 そして――そのまま骨が軋むほど強く、ひどく優しく、彼女の身体を抱きしめ返したのだ。


「……チッ。本当に、最後まで手のかかる女だ」


 頭上から降ってきたのは、ため息まじりの、けれど地獄の底のように低く響く男の声だった。

 ねねの頬を撫でる氷のような指先だけが、彼が一人で抱えてきた途方もない執着と、失うことへの恐怖の残滓を静かに物語っている。


「……借金を一円残らず返すまで、お前の人生ごと俺の隣に縛り付けてやる。……もう二度と、勝手に俺の前から消えることなんて許さねェからな」


 それは、この世界で一番理不尽で、一番重い、永遠の呪い。

 現代社会の片隅で、涙と笑顔に包まれた時計職人と、傲慢で不器用な暴君による、百億円から始まる甘く狂おしい時間が、今静かに時を刻み始めたのだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ