あとがき
本書は、「朝鮮の思想とは何によって構成されているのか」を知りたがった、一人の日本人ナショナリストによる試論である。
事大主義、朱子学、東学、民族主義、プロテスタント、主体思想、そしてその全セクターの深層にマグマのように横たわる巫俗──。著者が本書で試みたのは、それらを安直な嫌韓・親韓といった「善悪二元論」の感情で裁くことではない。ただ冷徹に、「それはどういう精神構造で動いており、なぜ過熱とパニックを繰り返すのか」というシステム工学の観点から、そのバグをハッキングし、解剖図として整理することであった。
これを読んだ韓国人は、猛烈な屈辱感を覚え、もしかすると「余計なお世話だ」「日本人風情がおこがましい」と激昂するかもしれない。
しかし著者としては、彼らがどう狂い、どう叫ぼうが、一向に構わないと思っている。
もし、彼らが自らの「正しさ」を盾に、本書の記述や僕の姿勢を「糺そう」とするならば、どうぞそうしていただきたい。ただし、その時は僕が日本人として、自らの国家を、自らの国民を糺そうとした時と同じだけの、冷徹な論理と実務の言葉で糺すべきである。日本の何が不条理で、どこにバグがあり、具体的にどう変革すればいいのかを、感情のパニックではなく構造の次元で語っていただきたい。
もちろん、これはあなたたちと僕との、完全なる「相互の扱い(フェアな対等関係)」である。投げつけられた批判のすべてを、こちらが大人しく受け入れるなどという甘えは捨ててほしい。精査し、退けるべきものは容赦なく退ける。だが、そこに一級の翻訳に値する「思想」があるならば、こちらもまた貪欲にハックする用意がある。
そもそも朝鮮半島の思想史そのものが、中華の朱子学であれ西欧のプロテスタントであれ、外来思想を驚異的な速度で徹底的にローカライズし、自らの感情構造に合わせて再構成してきた「事大と翻訳」の歴史だからである。今さら日本の報徳思想をパクって自らの血肉にしたところで、彼らの文明的アイデンティティは1ミリも揺らがない。
当然のことながら、著者は韓国人を救済したい人道主義者でもなければ、朝鮮半島を正しい方向へ導きたい哀れな教育者でもない。彼らがこのまま「ヘル朝鮮」の格差の中で首を吊ろうが、北の首領に実存を丸投げして心中しようが、あるいは奇跡的な爆発力で世界の頂点に立とうが、その顛末自体には強い関心はないのだ。
ただ、東アジアの安全保障のリアリズムを生きる一人のナショナリストとして、彼らに一つだけ望むことがあるとすれば、
「人生の軸足を巨大な他者へ預けたまま、終わりのない恨と対立の循環を繰り返すパニック・ループから、いい加減に離脱してほしい」ということである。
なぜなら、人間も、国家共同体も、本来は自分自身の内部に強固な垂直軸を持たなければ、長期的には絶対に安定しないからだ。
本書で繰り返し論じてきたように、朝鮮半島の精神構造には、
* 一人の絶対的指導者への過度な依存
* 広場での集団トランスによる瞬間的カタルシス
* 「被害者こそが絶対的正義である」という恨の増幅循環
* 「敵に勝っているか、他者にどう見られているか」という外部基準による自己確認
という、致命的な構造的脆弱性が骨髄まで染み付いている。
しかし同時に、その精神の配線は、現代のテクノロジーと合理性によって「更新可能」なものであることも、著者は確信している。
現に、戦後の韓国プロテスタントが見せた「三自原則(自治・自立・自伝)」のように、外来の宗教をハックして「自ら運営し、自ら支え、自ら拡張する」という、驚異的な主体化の成功例は地政学的に既に存在しているのだ。問題は、その成功した局所的なセル(細胞)を、カルト化させることなく、社会全体の包括的な設計思想へとマクロに発展させられるかどうかにかかっている。
もし今後、朝鮮半島という文明が、他者を倒すことではなく自分たち自身の成功体験を静かに積み重ね、情のエネルギーを建設的な経済共同体へ用い、小さな達成を社会的自信へと変換していく方向へ進めるなら、その時は今よりずっと安定した社会になるだろう。
そしてその結果として、我が国日本に対して、あの哀れで不毛な「変な突っかかり方」をしなくなるのであれば、日本の国益としてはそれで必要十分である。
何なら、こちらの知らないところで、勝手に、自力で、幸せになっていてくれればいい。
それこそが、数千年に及ぶ「情念の怪物」の解剖を終えた著者が、隣国に対して抱く、最も冷徹で、最も誠実な、最後の突き放しである。




