風聞
「報告書を出せ、ヴェルク」
ガレス将軍の声は低かった。
執務室の窓から差し込む午後の光が、机の上に積まれた羊皮紙の束を照らしている。辺境巡回報告書。だがその三分の一は空欄だった。魔物の動向予測の欄が、ことごとく白い。
「は……現在、辺境の魔物動向については情報収集を継続しております」
ヴェルクは背筋を伸ばしたまま答えた。額に汗が滲んでいるのを、将軍の目は見逃さなかった。
「情報収集を継続? ならばなぜ、3つの村が襲撃を受けた。予測ができていれば避けられたはずだ」
「それは……」
「以前はできていた。半年前までは、お前の斥候隊の予測精度は9割を超えていた。何が変わった」
ヴェルクの喉が動いた。ガレス将軍の灰色の目が、鷹のように部下を射抜いている。
「……人員の問題です。有能な斥候が1名、退隊いたしまして……」
「退隊? 誰だ」
ヴェルクの口が止まった。言えば終わりだ。追放の判断を問われる。言わなければ、情報不足の責任が全て自分に落ちる。
「答えられないのか」
将軍が椅子の背に体を預けた。革張りが軋む。
「辺境の3つの村は、魔物の襲撃で家畜の7割を失った。冬を越せるかどうかの瀬戸際だ。その報告書が、白紙。私はこれを陛下に提出しなければならない」
羊皮紙の束が机に叩きつけられた。ヴェルクの肩が跳ねた。
「3日以内に完成させろ。できなければ、隊長の任を解く」
廊下の向こうで、マルコが壁に背を預けて聞いていた。拳が白くなるほど握りしめられている。あいつがいれば——その言葉を、マルコは唇の内側で噛み殺した。
* * *
砦の中庭に、焚き火が二つになった。
ナギの焚き火と、トルクの焚き火。大男は砦の南壁の下に陣取り、自分の火を起こしていた。距離はちょうど声が届く程度。近すぎず、遠すぎない。
「酒はあるか」
「ない」
「だろうな」
トルクが革袋から酒瓶を取り出した。栓を抜き、半分をナギに差し出す。
「断らないんだな」
「断る理由がない」
二人は黙って酒を飲んだ。辺境の夜は冷える。星が低い。森の方角からゴブリンの見張りの声が微かに聞こえていた。
「お前、明後日に声比べとかいうのがあるんだろう」
「知ってるのか」
「昼間、小さいゴブリンが来ただろ。あいつが俺を見て逃げかけたから、何か叫んでた。『コエクラベ』がどうとか」
「ピッケだ。あいつは口が軽い」
「で、声比べって何だ」
ナギは簡潔に説明した。ゴブリンの多数決制度。前回の否決。キノコ栽培の実績。長老の口添え。ガルガの妨害。甲冑の人間。
トルクは酒瓶を傾けながら、黙って聞いていた。
「なるほどな。それで、勝算は」
「前回よりはある。だが、確実じゃない」
「確実じゃない勝負に出るのか」
「交渉ってのは全部そうだ。確実なら交渉する必要がない」
トルクが低く笑った。酒瓶を揺らし、中身を確かめる。残りは三分の一ほどだ。
「声比べの時、俺は何をすればいい」
「何もするな。お前がいると余計にゴブリンが警戒する」
「つまり邪魔か」
「大剣を背負った大男が広場に立ってたら、どう見ても威圧だ」
「はっ。言うじゃないか」
トルクは酒を飲み干した。瓶を地面に置き、焚き火を見つめる。炎が男の傷跡を照らしていた。右こめかみの古い傷。治癒魔法では消えなかった類の深い傷だ。
「なあ、ナギ。一つ聞いていいか」
「何だ」
「お前の魔物語とかいうスキル。どこまで通じるんだ」
「種族によって違う。接触が多いほど精度が上がる。初対面だと感情の大枠くらいだ」
「感情……か」
トルクの声が変わった。酒の勢いとは違う、別の何かが声に混じっていた。焚き火の炎が爆ぜて、二人の間に火の粉が散った。
「俺のパーティは、4人だった」
ナギは酒瓶を下ろした。酒が喉を焼く感覚が、急に遠くなった。
「前衛が俺と、剣士のハンス。後衛に魔術師のエーデル。斥候がミラ。5年組んだ。家族みたいなもんだった」
トルクの目が焚き火を見つめている。だが炎を見ているのではなかった。もっと遠い場所を見ていた。
「依頼で洞窟に入った。オーガの討伐だった。3体の予定が、奥に巣があった。12体。囲まれた」
ナギは口を挟まなかった。
「ハンスが先に倒れた。エーデルが詠唱を中断されて、ミラが庇って。俺だけ入口に近かった。逃げた。3人を置いて」
トルクの拳が膝の上で握られた。関節が白い。
「逃げながら聞いた。オーガが吠えてた。洞窟の壁に反響して、どこまでも追いかけてくる声だった。あれは何だったんだ。怒りか。喜びか。それとも、ただの鳴き声か」
「わからない。その場にいなかったから」
「そうだよな。わかるわけがない」
「だろうな」
沈黙が落ちた。焚き火が低く燃えている。森の虫が鳴いていた。
「……だから来たんだよ。笑い話じゃない。お前の噂を聞いて、知りたくなった。魔物と話せるなら、あの時、あいつらと話ができたなら——仲間は死ななかったのかって」
トルクの目が揺れていた。焚き火の光を反射して、濡れているように見えた。
「話してわかる相手だったかもしれない。そうじゃなかったかもしれない。それは会ってみないとわからない」
「会えるのか。今さら」
「今さらじゃない。お前がここにいるなら、いつか同じような場面は来る。その時は俺が話す。お前が剣で時間を稼いでくれるなら」
トルクがナギを見た。長い沈黙の後で、男の口元がわずかに動いた。笑みとも苦笑ともつかない表情だった。
「……ま、死ななきゃいいさ」
「そうだな」
二つの焚き火が、並んで揺れていた。
* * *
翌日、セリアが狩りの獲物を持って砦に来た。兎が二羽。
「はい、あんたの分。ゴブリンの子供にもあげていいわよ」
「毎日来るな、お前も」
「通りすがりよ。たまたま」
トルクが南壁の下から首を出した。
「おい、俺の分は」
「誰よ、この大男」
「居候だ」
「あんた、居候まで増やしてるの?」
セリアが呆れた顔をした。だがすぐに兎の皮を剥ぎ始めた。トルクが火の番をし、ナギが水を汲む。三人分の朝食ができあがる頃には、自然と互いの距離が縮まっていた。
「明日が声比べだろう。準備はいいのか」
セリアがナギに聞いた。
「やれることはやった。あとはゴブリンたちが決める」
「あたしも行く」
「前回で懲りなかったのか」
「懲りてない。見届けるって言ったでしょ」
トルクが肉を噛みながら言った。
「俺は留守番か」
「お前が来たら威圧になる」
「毎回それ言うな」
三人が焚き火を囲んでいる。ゴブリンの子供と、村の狩人と、流れ者の元冒険者。人間の側の仲間が、いつの間にか増えていた。
ナギは兎の骨を焚き火に放り込んだ。明日で全てが決まる。声比べの三度目。もう次はない。
東の空に雲が広がっていた。赤土の丘陵が、灰色の雲の下に沈んでいる。風が森の匂いを運んできた。あの咆哮はまだ聞こえない。だがいつまた聞こえるかわからない。
ゴブリンとの同盟を成立させなければ、東の脅威には対処できない。明日が、境目だ。




