信義
「俺はもう王国の兵士じゃない」
朝の光の中で、ナギは砦の焚き火跡を見つめていた。昨夜燃やした羊皮紙の灰が、風に舞って消えていく。ヴェルクの署名は跡形もない。
「だが、甲冑の人間を放置するわけにもいかない」
セリアが井戸の縁に腰を下ろしていた。昨日から砦に泊まっている。帰ると言いながら、結局夜になっても立ち去らなかった。
「ゴブリンの信頼を取り戻すには、あの見張りの正体を突き止めるしかないわけでしょ」
「そうだ」
「なら、探しに行きましょう。あたし、追跡は得意よ。狩人だもの」
ナギは少し考えて、頷いた。断る理由がない。一人で森の外を捜索するより、狩人の目がある方がいい。
* * *
砦の南東、森が途切れる境界線に沿って歩いた。
セリアは地面に目を凝らしている。枯葉の積もり方、枝の折れ具合、土の踏み跡。狩人の技術でなければ見逃す痕跡を、一つずつ拾い上げていく。
「ここ。見て」
セリアが屈み、地面を指した。草が踏み倒されている。人の足の形。しかもブーツではなく、底が平たい軍靴の跡だった。
「軍靴だな」
「しかも重い。甲冑を着てたら、こういう沈み方をする」
跡を辿った。森の外縁を北東に向かい、丘の手前の窪地にたどり着いた。そこに、焚き火の痕跡があった。
黒く焦げた石の円。燃えかすの中に、王国軍の携帯食の包み紙が混じっている。干し肉を包んでいた蝋引きの布。軍の刻印が押してあった。
「間違いない。王国の斥候だ」
ナギは包みを拾い上げた。刻印は辺境巡回部隊のものだ。ヴェルクの直轄部隊。追放された自分を、まだ監視し続けている。
「こいつら、どのくらいいたと思う?」
セリアが焚き火の跡を調べた。灰をつまみ、匂いを嗅ぐ。
「2日、いや3日。1人か2人。ここから砦が見える」
セリアが指した方を見た。丘の上に登ると、確かに砦の門と中庭が一望できた。ゴブリンが出入りする様子も、キノコの菌床を運ぶ母親の姿も、全て見えただろう。
「ガルガが見たのは、こいつらだ」
ナギの手が無意識に強張った。自分のことを監視するだけならまだいい。だがその存在が、ゴブリンとの交渉を壊している。
「戻ろう。ゴルドに報告する」
* * *
ゴルドは砦の門まで出てきてくれた。
集落から出るのは珍しい。長老の外出は声比べで決める事項のはずだが、ゴルドは「散歩じゃ」と言い張った。付き添いの若いゴブリンが二体、不安そうに長老の後ろに立っている。
ナギは軍靴の跡と携帯食の包みを見せた。
【これが証拠だ。砦を見張っていた人間は、俺を追い出した連中の手下だ。俺の敵でもある】
ゴルドは包みを手に取り、裏返し、匂いを嗅いだ。それから静かにナギを見た。
【お前は、その人間たちと戦うのか?】
ナギは首を振った。
「戦わない。だが、ここは俺の場所だ。誰にも渡さない」
ゴルドの白い髪が風に揺れた。大きな耳がぴくりと動く。ナギの顔をじっと見つめている。何かを測るような、古い知恵の光が瞳にあった。
【お前は面白い人間じゃな。戦わぬと言いながら、渡さぬと言う】
「交渉の基本は、相手が何を欲しがってるか知ることだ。あの斥候たちが欲しいのは情報だ。俺を殺しに来たわけじゃない。なら、戦う必要はない」
【だが、監視は続くのじゃろう】
「続くだろうな。だが、見られることと、邪魔されることは違う」
ゴルドは長い間黙っていた。付き添いのゴブリンたちが不安げに顔を見合わせている。
やがて、長老が口を開いた。
【ナギ。ワシはお前のことを、好ましいと思っておる。長老として言うのではない。一人のゴブリンとして、じゃ】
ナギの胸の奥が、微かに動いた。
【声比べを、もう一度やろう。ワシが口添えする。甲冑の人間の正体はわかった。お前の敵が、我らの敵でもあるならば——同じ側に立つ理由がある】
「ゴルド……」
【ガルガは手強い。戦士長の声は重い。じゃが、農耕の長が味方についたのは大きい。あの母親は頑固じゃが、一度決めたら動かぬ】
ゴルドの口元が微かに緩んだ。長老の笑顔を見るのは初めてだった。
【それに——あの子供のゴブリンが、お前を慕っておる。子供に慕われる者を、大人は無碍にはできぬものじゃ】
「ピッケか」
【名前を知っておるのか。ますます面白い】
ゴルドは踵を返した。付き添いのゴブリンたちが慌ててついていく。森に消える直前、長老が振り返った。
【3日後じゃ。準備しておけ】
セリアが、砦の壁の影から出てきた。
「何を話してたの? わからないけど、いい話っぽかった」
「声比べの再開が決まった。3日後だ」
「それ、すごいことなの?」
「すごいことだ。長老が個人的に口添えしてくれる。前回とは全く違う」
セリアは顎に手を当てて考え込んだ。
「あんた、あのゴブリンのおじいちゃんと信頼関係ができてきてるのね」
「少しずつだ。魔物語があっても、言葉だけで信頼は作れない。行動が要る」
「……わかる気がする。狩人も同じよ。獲物の動きは見てればわかる。でも信頼は、一緒に暮らさないと生まれない」
ナギはセリアの横顔を見た。赤銅色の髪が風に揺れている。この狩人は、ゴブリンを「獲物」ではなく「暮らす相手」として語り始めている。自覚があるのかないのか。
* * *
翌朝。
ナギが井戸の水を汲んでいると、影が門を塞いだ。
大きい。門の横幅いっぱいに肩が広がっている。砂色の短髪、右こめかみに古い傷跡。背中に大剣を背負った大男が、門柱に寄りかかって立っていた。
「……お前がナギか」
低い声だった。だが敵意はない。疲れた声だ。長い旅をしてきた声。
「面白い噂を聞いてな。魔物と話す人間がいるって。冒険者ギルドで笑い話になってたぞ」
「笑い話か。光栄だ」
「俺はトルク。元冒険者。今はただの流れ者だ」
トルクが門をくぐった。中庭を一瞥し、キノコの栽培部屋を見て、井戸を見て、それから焚き火の跡を見た。
「一人で住んでるのか。ずいぶん広い場所を構えてるじゃないか」
「一人と、時々ゴブリンと、時々狩人だ」
「はっ」
トルクが低く笑った。大剣の柄を撫でながら、井戸の反対側に腰を下ろす。
「居候させてくれ。少しの間でいい。金は払えないが、力仕事はできる」
「なぜここに? 冒険者なら依頼があるだろう」
「金にならない依頼ばかりでな。飽きた」
嘘だ。ナギにはわかった。トルクの大剣は手入れが行き届いている。刃こぼれの修繕跡が丁寧に研ぎ直されている。冒険者に飽きた男が、こんなに武器を大事にするはずがない。
だが今は追及しない。この男が何者であれ、砦には人手が要る。
「……好きにしろ。飯は自分で確保しろよ」
「了解」
トルクが笑った。疲れた笑顔だったが、どこか安堵の色が混じっていた。
冒険者ギルドに噂が広まっている。魔物と話す人間がいると。それは好機かもしれない。あるいは、新たな面倒の種かもしれない。
ナギは井戸の水を汲み上げながら、三日後の声比べのことを考えていた。長老の口添え。農耕の長の味方。キノコの実績。今度こそ、多数を取れるはずだ。
東の空に雲がかかっていた。赤土の丘陵は見えない。だが、あの夜に聞いた咆哮は、まだ耳の奥にこびりついていた。
あの声の主が、三日の間おとなしくしている保証はどこにもなかった。




